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みなさま、こんにちは。古谷維久子です。先月、>>>こちらの第5弾として、先月の六甲・金鳥山とロックガーデンに続いて、大阪南部の金剛山に行ってきました。集合場所は、地元・河内長野駅です。そこから、南海バスに乗ります。今回は、急な登りがない、伏見峠口からスタートです。お決まりの写真で、気合を入れていきます。スタートから10分くらい。まだまだ元気です。車も通れる道ですが、上り坂が続きます。延々と、上り坂が続きます。
・雄略天皇と応神天皇は、「同一人物」あるいは「同一のモデル(原型)から派生した存在」にみえます。両者とも、朝鮮半島への出兵や、国内の豪族を力でねじ伏せる「征服王」としてのエピソードが共通しています。応神天皇は「百済から多くの渡来人が来た」時代の王とされ、雄略天皇も「秦氏などの渡来集団を組織した」王とされています。国家の技術革新を担った背景が似ています。両者には以下のような共通点があり、一人の強力な王のイメージが二人に分かれた(あるいは統合された)と考える学者もいます。「ヤマトタケルの息子
こんばんは今日は予報通りの雨一週間も前から予報が当たるなんて天気予報の精度も上がってますね桜の花が心配です🌸さぁ今回は奈良へいつものように氏神さんへおはようございます今日は奈良へ行って来ますよろしくお願いしますプップー🚗駐車場へ止めて葛城一言主神社節分の前に行って来ましたこの時期はいつも参拝の方が多くて駐車場がいっぱいです鳥居をくぐりテクテク手を清めて祓戸社さんおはようございます階段を登り右側に御神木さん左に拝殿おはようございますいつもあ
[伊勢国度会郡]豊受大神宮*写真はWikiより◆丹後の原像【96.豊受大神にじわりと…~4】何とか記事UPにこぎつけました。参拝活動をほとんどしていないため時間はあるのに…それぞれの記事内容が重たくて大変に手間取っております。苦労した分、自身に積み上がるものは大きい!そう思いつつ励んでおります。~*~*~*~*~*~*~*~*~*~■過去記事一覧『◆【丹後の原像】過去記事一覧』[与謝郡]新井崎神社の鳥居越しに仰ぐ「冠島」「沓島」これまで本編記事内に過去記事
おはようございます✨朝ドラ「ばけばけ」、今日が最終回でしたこのラストの15分でまとめる力量に、プロのワザを感じました❗️9月からとても楽しい毎日を過ごさせていただきましたスピンオフのサワちゃんウメちゃん楽しみです✨なお、高野山金剛峯寺で、おトキちゃん英語が通じることがわかりましたソーリーソーリーセンキョー🦆さて、わたしは先週の三連休に奈良に遊びに行ってきました🌸この奈良のすごいところは、平安時代の「延喜式神名帳」に記載されている式内社が216社もあるのですが、その中の特別な格式
•今日は、武蔵埼玉稲荷山古墳に行ってきた。快晴で、心地よい。1968年に見つかった「金錯銘鉄剣」が、新たな陳列ケースに収められ展示されているとの情報を得たため。この古墳からの出土品(鉄剣、鏡、鈴、帯金具)は、まとめて1件の国宝として、昭和58年に登録されている。特に鉄剣には、115文字が刻まれている。雄略天皇を補佐したと書いてある。•日本各地で見つかった剣との比較も興味深い。・博物館で頂いたパンフレットの説明・・・・他地域出土の刀との比較・比較する太刀のうち、国宝は4
『宋書』は、珍と済の関係が父子でも兄弟でもなかったため、あえてその関係を記さなかったと考えられます。つまり、ここに「倭の五王」の讃・珍(履中・反正)グループと済・興・武(允恭・安康・雄略)のグループとで王の血筋が異なるという解釈が成り立つわけです。それでは話をもとにもどし、『記・紀』はなぜ、倭王済に比定される允恭天皇の父を仁徳天皇としたのでしょう。『記・紀』の編纂がはじまった7世紀後半は、ようやく日本の王権が父から子へ、直系で相続されはじめた時代。前天皇との関係
もう30年以上前の事だが、妻の実家宮崎県の延岡に出かけた際、私は一人75㌔ほど離れた西都原古墳に出かけたことがある。「男狭穂塚古墳」および「女狭穂塚古墳」を興味深くみてきたが、これは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)に比定されている。一方では仁徳天皇の妃・髪長姫とその父・日向諸県君の墓だとも伝わる。水野祐氏の「三王朝交代説」は現在では受け入れられていないようだが、私は興味深く読ませていただいた。ここでは崇神天皇~仲哀天皇を「第一王朝」、神功皇后・応神天皇~武烈天
葛城一言主神社(二之鳥居)奈良県御所市森脇432旧社格県社(式内社)名神大社葛城一言主神社公式サイト【参拝日】2026年2月22日■御祭神一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)■御祭神幼武尊(わかたけるのみこと)-第21代雄略天皇御祭神の一言主大神は神話ではなく、記紀では雄略天皇の御代に登場する神。その神名から「いちごんさん」とも呼ばれ、「一言だけ願いを叶えてくれる神」として信仰されているそうです。ただし古事記の記載に
第二十二代清寧天皇は、古代の天皇です。御名は白髪大倭根子命(しろかのおおやまとねこのみこと・白髪命しらかみのみこと)。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)。御父は雄略天皇、御母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。白髪命は、その名の通り生まれながらにして白い髪で、長じてからは人民を慈しまれました。雄略天皇の大勢の皇子達のなかで特に不思議で変わったところがあったといいます。そのためか雄略天皇二十二年に第三子の白髪命が皇太子となられまし
こんばんは‥(^_-)-☆今の奈良は16℃と朝としては大分暖かさを感じる日になりましたね。昨日同様最高気温20℃ほどで少し春らしい日になりましたね。奈良まほろばソムリエ奈良通2級の12回目の問題です。4奈良県の寺社に関することがらについて、最も適当なものを選びなさい。(28)石上神宮は大和朝廷の武器庫であったといわれるが、そこを管理したという氏族はどれか。ア.物部氏イ.蘇我氏ウ.大伴氏エ.秦氏(29)雄略天皇とともに狩りを楽しんだと伝
古墳群は佐紀エリア(奈良市)から古市・百舌鳥エリアへと移行します。それは血族集団が変わったことを意味していると思われます。当時、大王はあくまで豪族に推戴されて初めて大王となれたと考えられ、逆にいうと豪族たちの支持がないと大王にはなれませんでした。つまり、崇神天皇の皇統が佐紀を拠点とする豪族へ、さらには古市・百舌鳥に割拠する豪族へと、まったくちがう血縁集団へ変遷していった事実を示しているのではないでしょうか。このうち、古市・百舌鳥古墳群は五世紀の「倭の五王」と呼ば
第十九代允恭(いんぎょう)天皇は、古代の天皇です。御名は男淺津間若子宿禰/雄朝津間稚宿禰(をあさづまわくごのすくね)。御父は仁徳天皇、御母は磐之媛命。また、履中天皇と反正天皇は同母の兄。ちなみに、昨日は仁徳天皇の祭日でした。『二月八日は仁徳天皇と崇光天皇の祭日・・・歴代天皇と為政者の鑑(かがみ)と大御心』★第十六代仁徳天皇は古代の天皇で、世界一大きいお墓に埋葬されています。高津宮(たかつみや)跡に創建された高津宮(こうづぐう)にかけられている絵。御名は大…ameblo.jp
2026/01/26劇団ひとこと
寝過ぎて驚いて目が覚めた、癒し空間〜暁〜のあいですすみません2月のシフトてすが、もう暫くお待ちくださいませ。まだシフトが出ていなくて今日は四天王寺さんにお参りに行こうと思っていたのに、起きたら10時まわっていて昨日22時過ぎには寝たよね…。明日にするか〜と、次起きたら14時半でしためっちゃ寝てるよ。悪事も一言、善事も一言、言離の神、葛城の一言主の大神近くは何度も通っていた、葛城一言主神社この日は何かイベントやったんかな?高校生ぐらいのコ達が次から次へとやっ
おはようございますこんばんは~高天原の橋本院の後まだ時間に余裕があったので近くの葛城一言主神社に行ってみました此処は今回で三回目の訪問かな?参道途中の駐車場に車を停めてこの鳥居からお参りします杉木立の参道を実はこの杉木立の参道は先程の鳥居より下手の集落まで続いていてその集落の中に第一の鳥居がありますよ葛城一言主神社の下に着きました石段を登って境内に着きました立派な拝殿ですねその横にある乳房で有名な銀杏の大木ですこれが有名な乳房ですよ登ってきた石段の反対側
和江神社丹後国加佐郡京都府舞鶴市和江宮ノ谷122(社前に路側帯があり、そこに駐車可)■祭神五男三女神(天君穂耳尊天穂日命天津彦根命活津彦根命熊津久須毘命多紀理毘売命狭依毘売命多紀津毘売命)億計王(オケオウ)・弘計王(ヲケオウ)の潜伏先として伝承される社。「由良川」西岸の河口近く、穏やかな流れの畔に鎮座します。鎮座地は舞鶴市「和江(わえ)」。集落の南外れに位置しています。人口は41世帯113人(令和二年国勢調査データ)の過疎地域。◎「和江」には国分寺があったと近世の書
今年が午年だから、私が年男だからこの馬の絵をご紹介しているのではない。この馬は、明治6年熊本の江田船山古墳から出土した「獲□□□鹵大王」と金象嵌された鉄剣にある魚・鳥と共に刻まれたものである。私は随分以前の午年の年賀状にこの馬を使った記憶がある。この「獲□□□鹵大王」の銘は、反正天皇だとされて長く正解を得なかったが、昭和43年稲荷山古墳から出土した金象嵌鉄剣の「獲加多支鹵大王」から「雄略天皇=稚武=わかたける」であることが判明した。当時古代史など全く興味がなかった私も、新
《新古今和歌集・巻第十五・恋歌五》1432題知らず読人知らずはし鷹(たか)の野守(のもり)の鏡(かがみ)えてしがな思ひ思はずよそながら見ん☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆題知らず読人知らず逃げて見えなくなったはし鷹の影が映って見えたという野守の鏡を手に入れたいものだ。あの人がわたしを思っているかいないかを、よそながら見よう。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
古代史シリーズネタになります。ご興味ある方はお立ち寄りください今回はコロナ禍の時から色々と纏め始めて、足かけ4年が経過した邪馬臺國王権が初めて関東に及んだ時の支配者、乎獲居(ヲワケ)の謎を紐解いてみます。理系の私、ド素人のまとめです。古代史ご専門の方への挑戦状(笑)という視点で暖かくご指摘ご意見を賜れれば幸いですが、どれも確定的なことは申し上げるものではありません。国宝「金錯銘鉄剣」というものをご存じの方、多いでしょう。【2018年に復元された「金錯
第二十五代武烈(ぶれつ)天皇は五世紀末の古代の天皇で仁徳天皇系最後の天皇です。御名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかささぎのみこと)。御父は仁賢天皇、御母は雄略天皇の皇女、春日大娘皇女。継体天皇の皇后で欽明天皇の母である手白香皇女、宣化天皇の皇后である橘仲皇女は同母姉妹にあたる。仁賢天皇の崩御により即位。漢風諡号のその字からもとても激しそうな感じが想像できますが、日本書紀にはその暴虐ぶりが書き連ねてあり驚きます。これは、この代で仁徳天皇系が終わってしまうためにわざと悪く書かれた
あけましておめでとうございます。稲荷山鉄剣銘文の獲加多支鹵大王が雄略天皇だというのは、いまや鉄板の定説といってよいでしょう。しかし、雄略天皇の治世がいつからいつまでだったかという話はほとんど耳にすることがありません。定説化の過程を想像すると、おそらく鉄剣銘文の辛亥年を471年と推定した方々が、『日本書紀』の紀年からその年を雄略天皇の治世と判断して、「獲加多支鹵」を「ワカタケル」と読めば、雄略天皇の諱である「大泊瀬幼武」の「ワカタケ(注:厳密にはワカタケルではない)」と一致する。獲
今日は新聞休刊日でした。なので昨日の朝刊を読み直していたら、見逃していた興味深い記事がありました。いつもは素通りしている「コンパス」というコラムです。ようやく動き出したかに見える夫婦別姓に関する審議が迷走する臨時国会ですが、DV加害者のひと言から「保守」政治家への痛烈なカウンターパンチを繰り出したこのコラムはとても印象的でした。1898年(明治31年)に始まる現行民法の背景にある「家」、すなわち「戸籍」中心の思想が改めて浮き彫りになった気がしました。我が家では結婚を機に妻が私の姓
こんにちは、スタルペスです。会社に休みを頂き、家内と一緒に東京から埼玉県・群馬県の旅に行ってきました。第一の目的は、ここ埼玉県行田市の「さきたま古墳群」に来ることです。東日本を代表する古墳群は、予てから一生のうちには一度は行って見たいと思っていた古墳群でした。なかでもこの古墳群で最古の前方後円墳である「稲荷山古墳」に来ることです。※これが、念願の稲荷山古墳です。稲荷山古墳は、墳長120m、後円部の直径62.6m・高さ10.4m、前方部の幅82.4m・高さ
中国の猩々も日本の養老も、孝行息子は、酒を求めて富貴となり多喜となります。雄略天皇の御代に、白頭の父親のため、本巣郡の多度山から薬の水を汲んでの帰りがけ。一匹の大蛇に出くわし、世の中で一番嫌いなものを問われ、「小判」と答えた。大蛇は、その口から山のような小判を口から吐き出したそうな。親孝行の若者は、萬歳の道を帰ったという。水の出口を蛇口という所以である。行く年の年忘れの宴も、景気の蛇口を捻る儀式でした。
雄略紀に、ヤマト朝廷が吉備勢力に弾圧を加えているものと見られている一連の記事が載る。ここにあげる吉き備びの弓削ゆげ部虚空べのおほぞらと吉き備びの下道しもつみちの臣前おみさき津屋つやの登場する話は特徴的で、不思議な印象を与えている。何を伝えたくてそのような記述になっているのか、解読を待って長い年月を経てきた。八月に、官者とねり吉き備びの弓削ゆげ部虚空べのおほぞら、取急あからさまに家に帰まかりかへる。吉き備びの下道しもつみちの臣前おみさき津屋つや〈或本あるふみに云はく、国造くにのみやつこ吉き備
長いあごひげのある歴史上の人物といったら誰を思い浮かべるだろうか。関羽、後醍醐天皇、レオナルドダヴィンチ、板垣退助……いずれ劣らぬ見事なヒゲである。私は、まずこの人が浮かぶ。武内宿禰一時期、日本国紙幣の一円札に描かれていた人物だ。ただし、1958(昭和33)年に発行停止になっているため、私はその実物を見たことはない。ただ、武内宿禰は歴史上の人物かといわれると微妙だ。現在のところ彼は、実在しているかわからない伝説上の人だからだ。この人、戦前までは諸般の事情で超有名人だったはずだが
25.10/26sun.14:01-17:20法起院から初瀬街道を西に向かう国道165号に合流から出雲の集落までは雨はともかく、クルマの水はねにびしょ濡れ十二柱神社力士が支える、狛犬拝殿本殿神世七代/国之常立神にはじまる七代地神五代/天照大神にはじまる五代十二柱を祀る本殿の右側境内社、金刀比羅山社・厳島社左側境内社、愛宕社・金山彦社第25代武烈天皇「泊瀬列城宮跡」伝承地出雲の集落は、初の天覧相撲で勝利した野見宿禰(のみのすくね)を祖とするこの地は相撲をと
★第二十代安康天皇は古代の天皇です。御父允恭天皇の第三皇子、御母は忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)。祖父は仁徳天皇です。御名は穴穂尊(あなほのみこ)。在位、允恭天皇四十二年(453年)から安康天皇三年(456年)。允恭天皇の皇太子である木梨軽皇子は同母妹と密通してしまいましたので、允恭天皇崩御ののち群臣は離反し穴穂尊についてしまいました。そのため穴穂尊を襲おうとしていた木梨軽皇子は自殺し、穴穂尊が即位することになりました。安康天皇は、弟の大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の為に、大草
桜井識子さんは伊勢市外宮で、豊受の神に言いました。「天照様の食事を用意する神様ですか?」すると豊受の神は、「誰が天照の飯係じゃあー!」とお怒りになられました。確かに豊受の神は、天照様の食事を司る神と言われておりす。その起源は、ある夜、第21代・雄略天皇の夢枕に、内宮にお祀りされている天照大御神が現れ、こう告げられたのです。「私一人では、食事が安らかにできないのです。どうか、丹波国にいる私の食事を司る豊受の神を、私の近くに呼び寄せてください。」と。豊受の神が天照様の食事を司るのは