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永遠の二枚目長谷川一夫さん私大好きでした…と言う…徹子さんの呼びかけから番組は始まりました…美人女優さん…お二人の登場です…かずきちゃんが…三代で出ることを熱望されたそうです…長谷川一夫さんは…今日2月27日が誕生日で…生誕110年34年前に…76歳で…(黒柳さん)男の花道の映画…20回くらい見ました主演映画は300本着物のデザインもなさったそうですね…(稀世さん)娘に着せたい一心で…バラ🌹の図柄が多いです…家族の写真お母様は…繁(しげ)さん新橋の芸者さ
銭形平次アイエス社長の伊藤喜久雄は、舟木一夫の1か月座長公演を復活させるために全国の劇場に働きかけた。耳にタコが出来るくらい営業・マーケティング活動を行ったため、各劇場のプロデューサーからは“耳タコ社長”と呼ばれた。最初に取り上げてくれたのは名古屋・中日劇場だった。「16か月に1回の割でやりましょう」ということになり、1993(平成5)年7月3日から26日までの1か月公演が実現することになった。伊藤は当時、中日劇場に対してこれ以上ないほどの深い感謝の気持ちを語っていた。―神田明神
時代劇が大好きな舟木さん。その思いの出所は、興行師をしていた父上の関係で、映画館ではフリーパスで入れたことだそうだ。昭和20年代から30年代まで、映画界が全盛の時代。その後テレビの出現で、衰退していく映画界だが、邦画は新東宝も含めて六社。毎週のように新作が各映画社が2本製作されていた時期で、年間600本近くの映画が製作されていた事になる。洋画もアメリカ映画が中心ではなく、フランス映画、イタ
舟木さんの「赤穂浪士」へ出演された事は、後々の大きなポイントになると言って良いだろう。歌手としいてだけでなく、映画俳優として、舞台俳優として、そして時代劇俳優として活躍する礎を作ったとのが「赤穂浪士」の出演だったと言っても過言ではない。元々時代劇に憧れを持って映画を見ていた舟木さんとしては、長谷川一夫さんは勿論、中村錦之助さん、大川橋蔵さん、市川雷蔵さんなどは、舟木さんにとって憧れの大スターだっただろう。デビューのあくる年に、NHK大河ドラマに出演する事は、願ってもない事だっただろう
長谷川一夫と舟木一夫の付き合いは、ご存知NHK「赤穂浪士」から。矢頭右衛門七の役に舟木一夫が決定して、舟木一夫がスタジオに姿を現した時、大石内蔵助役の長谷川は、柔和な顔に涼しい笑みを浮かべて彼を迎い入れた。「長谷川先生ってすごいなぁ、役衣装を着けた時の、重量感に凄く圧倒されちゃった」当時彼は、そう述懐したものだった。この時から長谷川一夫と言う不世出の名優の存在が彼の胸にどっしりと腰を据えた。「名優とは先生みたいな人の事を言うんだろう」スタジオの片隅から、じっと長谷川の名演をみつ
次に時代は雪組と星組で若いWトップが生まれてから3年後の、1973年へ戻ることにする。上月晃、甲にしきとともに3Kトリオと呼ばれた月組トップ古城都が退団し、次のWトップとなったのが大滝子と榛名由梨だった。両名共に雪組の郷ちぐさと同期で当時研11、榛名は専らダンサーとして評価されていたが、大は歌唱に優れたものはあっても演技面で今一つといわれていたようだった。ただし、当時の月組にはこの2人よりも目立った娘役スターの初風諄がいたので、このWトップは少々地味なものと見なされたらしい。2人よりも2期上の
「松竹映画の栄光と崩壊」その他より『田中絹代は負けない』の終わりの回です戦後も引きつづき松竹の看板女優として主役の座を守り続けた田中絹代溝口健二監督『夜の女たち』小津安二郎監督『風の中の牝鶏』では汚れ役に挑戦して新開地を開拓この二作品の演技に昭和22年、23年と二度の毎日映画コンクール女優演技賞を受賞絹代はこの受賞により1949年(昭和24)戦後初の日米親善大使に指名されこれを機に松竹を退社高価な能衣装と