ブログ記事2,920件
火縄銃は連発が効かない単発銃である。しかも射撃した後の次発装填には40秒以上の時間がかかるという弱点を持つ。次発装填中の銃兵は有効な攻撃や反撃を行えず,敵からみればかっこうの獲物である。次発装填に手間と時間がかかる火縄銃には,鉄砲伝来後の早い時期からその弱点をカバーするため様々な工夫がなされた。早合もそのひとつである。早合とは、一発分の弾丸と火薬を入れておく筒状の弾薬包である。江戸時代に使われていた早合この早合から銃身に火薬と弾丸を一気に注ぎ込むことにより、発射準備を迅速に行う
「種子島大作」のお芝居の中に、大作くんと切っても切れない女性がいます。お藤さんですお藤さんは獄玉(ごくだま)お藤とか毒玉(どくだま)お藤とか言われていますが、大作くんの愛人なのか、相方なのか、友人なのか、それらを全部ひっくるめた関係なのか、とにかくゾクッとするほど妖しい色気で登場します。「劇団荒城」の荒城真吾座長のブログによると、お藤さんは「五分玉(ごぶだま)お藤」と言って、五分とは南蛮渡来(鉄砲)の玉のインチからが由来で、五分の玉を扱うお藤から「五分玉お藤
「テーブルに」・・はっきりしないお天気の土曜日でしたさて、GUNネタ思い出の鉄砲と各種「弾」?ひょっとしてもしかして?どうだろう?・・7.5mmだからセットしてみたひっくりかえすと、当然落ちる一つはそのままだったので他の4発はティッシュで包んでみましたこのようにそれでは試射です1発だけ跳ね返りましたティッシュ無しの弾ですまた気が向いたらどの位飛ぶかBB弾と比較してみようと思う夕暮れです
可哀そうな日本の火縄銃を救いたい。日本は,昭和10年代初めからABCD包囲網と呼ばれた経済封鎖を受けた。これに対し日本政府は,物資不足を補うため金属類回収令を定め,国内の金属類を回収して軍事兵器の増産に励んだ。これにより,一般家庭にあった鍋釜からお寺の鐘に至るまで,金属はドンドン軍に供出され,砲弾や兵器に作り替えられたのである。火縄銃もこの例外ではなかった。今,国内には,金属回収令により銃身を供出した火縄銃の銃床がたくさん残されている。可哀そうな火縄銃部品
公式ハッシュタグ令和四年5月27日骨董品ランキング1位火縄銃の射撃には,硝石と硫黄,木炭の混合物である黒色火薬が必要だ。黒色火薬の成分のうちその75%は,硝石が占める。地下資源としての硝石は,日本では産出しない。しかし,日本人は,空気中を漂う硝化バクテリアを利用してバイオ技術によって人造硝石を生産するようになった。戦国から江戸期を通じ,その人造硝石の最大の産地は,金沢藩にある五箇山集落であった。世上,五箇山で作られた人造硝石の質と量は、日本一だったと言われているが,それは正
宮城県丸森町には,火縄銃に特化した金山城伊達・相馬鉄砲館という私設博物館がある。今日,当館では銃身の無い火縄銃の清掃を行った。当館は,太平洋戦争を継続するため金属回収令という馬鹿げた政策を行った事実を忘れないための火縄銃展示を行おうと計画したからだ。銃身が失われた火縄銃日本は,昭和10年代初めからABCD包囲網と呼ばれた経済封鎖を受けた。これに対し日本政府は,物資不足を補うため金属類回収令を定め,国内の金属類を回収して軍事兵器の増産に励んだ。これにより,一般家庭にあった鍋
福島県の北部沿岸にあった相馬藩は,三代藩主忠胤公の時に軍制改革を行い関流砲術を採用した。また相馬の鉄砲鍛冶を関流の鉄砲を専門に造っていた国友丹波大掾橘宗俊のもとに遣わし,関流の鉄砲製造法を学ばせた。それ以降,関流の鉄砲が,相馬中村藩領内で製造されるようになったと考えられている。関流百匁大筒の装填作業どっか~ん関流砲術は大口径火縄銃の射撃を得意とする砲術流派であるが,関流においては口径12ミリから13ミリの小口径の火縄銃も造られていた。ところが,関流仕様の小口径の火縄銃は,
種子島に鉄砲が伝来した後,鉄砲は将軍や大名間の進物や贈答品として利用された。新兵器というのはもちろんだが,珍品としての価値があったからでもある。インドや中国しか知らなかった日本人が,鉄砲伝来により南蛮人という異民族を知ったということも贈答品としての鉄砲の価値を高めただろう。鉄砲伝来直後は,数が極端に少ないためどんな鉄砲でも贈答品になりえたに違いない。しかし,諸国に鉄砲が広がった戦国末期には,南蛮筒と呼ばれる南蛮で製造された鉄砲が贈答品として利用されるようになった。例えば,豊
口径2.4センチの20匁火縄銃の整備が完了した。20匁火縄銃は重量75グラムの弾丸を発射することができる大筒並みの鉄砲だったし,中島流砲術系と思われるとても筋の良い鉄砲だったから,私も気合が入った。鉄砲の尾栓も抜けたし,とてもきれいに整備することが出来た。整備前の20匁火縄銃整備完了後の20匁火縄銃ここまでは,たしかにとてもいい話だ。しかし尾栓にとんでもない修理がなされていたのを見つけてしまったのである。こんな錆だらけの尾栓だったし,20匁筒の尾栓ネジは大きいから,抜
公式ハッシュタグ令和四年2月1日骨董品ランキング1位先祖の縁として火縄銃の銃床だけが伝わっているが,この銃床に合う摸造銃身を作成し大事に保存して行きたいので,アドバイスをもらいたいとのコメントを頂いた。コメントを頂いた記事へのリンク『可哀そうな日本の火縄銃を救いたい。』可哀そうな日本の火縄銃を救いたい。日本は,昭和10年代初めからABCD包囲網と呼ばれた経済封鎖を受けた。これに対し日本政府は,物資不足を補うため金属類回収…ameblo.jpこのようなケースでは,摸造銃
「谷神」と名付けた900匁大筒を用いれば,4キロメートル以上の長距離射撃を行なえる関流砲術は,土浦藩9万5000石土屋家の自慢であった。「谷神」は,重量約80キログラムで,撃ち出される砲弾の重さは3.4キログラムにもなる。関流炮術の師範は,これを抱え持って撃つのだから,とても人間業とは思えない。関流砲術の至宝「谷神」と「抜山」上が「谷神」で下が「抜山」関家は代々,江戸屋敷において藩内に限らず広く砲術を伝授し,その門弟には,相馬出羽守,酒井雅楽守,内藤備後守,細川能登守,松平主
お薦めされて、図書館で予約して読みました。『塞王の盾(さいおうのたて)』今村翔吾『塞王の楯』-集英社決して破られない石垣を作ろうとする石工の匡介。しかし、そこに立ちふさがるのは、どんな守りも打ち破るという砲--「最強の楯」と「至高の矛」の対決を描く、圧倒的戦国小説!lp.shueisha.co.jp第166回直木賞受賞作発行日:2021.10作者:今村翔吾出版社:集英社ページ数:552p価格:2000円【あらすじ】幼い頃、落城によって家族を
姫路城ってお城だからお堀があるのだけれどお堀ってだいたい断面から見るとV字形になる薬研堀と底が平らな箱堀なのだって薬研堀は幅が狭いのだそうこれは弓矢を避けられればよかったから箱堀は幅の広いお堀弓矢よりも飛距離のある鉄砲が出てきて堀の幅を広くする必要があったのだって。姫路城のお堀は箱堀。お堀にも種類があるのだね。知らなかった。
木砲に見る島国の憂い火縄銃を切り口にして見てみるとは,日本人の能力や資質に気づかされる。極東のどん詰まりの日本は,国土が狭く資源が乏しいという大きなハンディキャップを抱えてきた。たとえば,大砲を作りたくとも鋼鉄がない。鋼鉄を作るに欠かせないコークスが,日本にはなかったからである。鋼鉄より質の劣る鍛鉄でも大砲は作れたが,莫大な製作費が必要だった。これには,江戸時代の砲術家も,大分頭を悩ませたらしく,木砲というものを考案した。仙台藩の木砲金属製砲弾ではなく,陶器製の焼夷弾を使用したようで
徳川家康は,稲富流砲術を学び射撃の名手だった。「東照宮御実記附録巻二十三」は、徳川家康が浜松城の櫓の上にいた鸛(こうのづる)を、50間~60間の距離から稲富流の長筒で撃ち落としたと記している。徳川家康が好んだ稲富流の鉄砲三河住清定の製銃した稲富流仕様の六匁火縄銃銃身には元和三年八月と刻まれている。元和三年といえば徳川家康が亡くなった翌年だ。この鉄砲は,400年の時の流れを超えて,存在し続けている。今日,4月17日は,徳川家康の命日である。『徳川実録』
暖かくなってきました。以前からスリーコインズのタンク付きのウォーターガン(タンクがリュック型水鉄砲)が欲しかったんですが、先日ダイソーでもタンク付きウォーターガンを見つけて2個買っておいたら、旦那がスリーピーで7個も買ってきた(GWにいとこや親せきの子どもが大勢来るので遊べるようにとのこと)ウォーターガンの見た目は一緒なんですが、価格がダイソー400円、スリーピー500円と違うのでちょっと比べてみました。↓顔がついてるのがスリーピーで顔のない右側がダイソー↓コードや説明部
公式ハッシュタグ令和元年12月17日骨董品ランキング2位馬上筒を考える。その2馬上筒という火縄銃が,今,私を悩ませている。馬上筒とは,騎馬武者が片手で操作できるように銃身を短くし軽量に作られた鉄砲のことをいう。だが日本の馬上筒といわれる鉄砲は,人間工学を無視した形状で,バランスが悪く重いと言わざるを得ない。私のつたない経験では,馬上筒を片手で構えると,銃先がわずかに震え,狙いをつけるのが難しいと感じた。関流三匁半馬上筒馬上筒は,片手で撃てることは間違いない。だが,馬上筒は
火縄銃の尾栓の抜き方について,当ブログに問い合わせがあったので,手持ちの馬上筒を実験台として,尾栓の抜き方を説明します。今回の尾栓抜きは錆がひどくなかったので,油漬けだけで,何とか抜くことができました。しかし,普通はこううまくいきません。尾栓を抜くのは油漬け以外に3つの方法をあり,順番にその方法を用いていきます。尾栓抜きはとても根気がいる作業なのです。馬上筒の抜栓成功抜栓直後研磨後整備前(ビフォー)整備後(アフター)
今日は残念ながら雨でしたね···今日は、『知育プリント』をしました✏️内容は簡単✨同じ色の点と点を鉛筆で線を書いて繋ぐというものです🤗まずは鉛筆の持ち方の紹介から😊❕利き手の親指と人差し指で鉄砲の形を作り、鉛筆をのせて持ちます❗️が、ちょっぴり難しい様子の年少さん🥺それでも頑張って正しい持ち方で頑張って線を書いていましたよ👏そして、子ども達にとって、まっすぐな線を書くのは簡単なようで難しいようです😂しかし、「出来たよ~✨」「見て~❕」と楽しみながら行うことが出来ていました🤩✨ち
公式ハッシュタグ令和五年10月1日骨董品ランキング3位山形県米沢市には,米沢藩上杉砲術を伝承する二つの火縄銃演武団体がある。一つは,宮坂考古館に事務局がある米沢藩古式砲術保存会,もう一つは,上杉神社社務所に事務局を置く上杉砲術隊である。いずれの団体も,米沢藩に伝わる10匁から30匁の火縄銃の大筒を用いて立ち射ちと膝射ち、腹ばいの体勢での這い射ちなどの米沢藩の実戦射法を継承練武している。9月19日の上杉砲術隊の猛練習,おそらく10匁筒上杉砲術隊の猛練習,おそらく20匁筒
ども~いよいよ明日は宮城に移動で日曜と月曜に開催される、本部公式大会に出場してきます明日は朝5時に出発到着したら練習をしたいと思います日曜と月曜は己のすべてを出し尽くし最後まであきらめずに頑張ってきます!!車の準備は完了明日の朝、鉄砲と弾を積んで出発します~因みに直近の練習スコア↓決してよくはありません・・上位入賞は到底無理です(笑)とりあえず自分との闘いのつもりで全力で挑んできます~
伊達の騎馬鉄砲を考えるその2騎馬鉄砲隊が使用したのはどんな鉄砲か?伊達の騎馬鉄砲について考えている。伊達の騎馬鉄砲ということを言い出したのは,江戸時代中期に成立した常山紀談が初出のようだ。常山紀談は,大坂夏の陣で伊達政宗と真田幸村が激突した時に,真田勢が,政宗の騎馬鉄砲を追い崩したと記している。その記述によれば,正宗の騎馬鉄砲とは,鉄砲を装備した騎乗武者たちが鉄砲を一発撃ってから,その煙の下をくぐり敵陣に突入していく戦法であるらしい。常山奇談という書物は
雷管式の鉄砲と同時に火縄銃の技術復元の為に、伊勢守流(津田流御流儀と毛利高政は自筆の伝書に記述。佐伯藩染矢家所蔵)の四匁筒を復元製作することにした。当地は春夏秋が短いので暖かいうちに製作できるものはしたい。福島の伝来鉄砲は現在のところ米国内のマズルローダーの銃身製作工場全てから製作を断られた。理由は尾栓部の銃身が太すぎる為だ。尾栓部の木口が対角線で35mm一寸一分あまりあり一般的な米国のロングガンで29.5mmと比較するとかなり太い。長さは42インチ前後なので同寸の筒が存在するが太さで断ら
伊達政宗の片腕として数々の武功を上げた伊達成実は,前に進むことしか知らない毛虫を兜の前立てにし「炎の闘将」と呼ばれた戦国武将である。伊達成実所用の紺糸五枚胴(複製)進むを知って,退くを知らぬ毛虫の前立て伊達政宗の仙台入部後は,仙台藩一門第二席・亘理伊達家の初代当主として亘理要害に配され,六千石を賜わった。亘理要害は,仙台城から南二十数キロにあり,仙台城の支城としての役割も持つ城塞だった。合戦上手の伊達成実は,武勇ばかりでなく領地経営にも力を発揮した。城下や領内を整備して新田を切
(・Д・)ノこんばんは、店長です最近、ゲーセンが混雑していてなかなかやりたいゲームが出来なかったりしてます人気があるのかないのか、よく行くところは比較的空いてる英傑大戦ですが、以前書いたようにイマイチ合わないんですよね三国志大戦はそこそこやってたんですが、なんか戦国大戦感が強いんですよく考えてみたら兵種の鉄砲と剣豪が使いにくいのがそう思う原因な気がしたので、それ以外でデッキを組んでみると「三国志大戦と一緒や、、、」騎馬、槍、弓のデッキこうすれば良かったんですよねただ最初からなん
信長の野望覇王伝Amazon(アマゾン)ヤバイわー。覇王伝って、多分、シリーズの中でもダメな方なんだけど、やったら、面白いんだよ。武将風雲録よりもシビアじゃなくて、結構ゆるい部分があってそこが好きなんだよなあ。ちなみに、プレイステーション1のもの。織田信長でやったら、武将がやたら沢山いるんだけど、本来ならそこで武将を集めて内政すべきなんだろうけど、一気に、兵を集めて北畠を倒す。鉄砲が26あったんだけど、雨になったりして使えなかったりして、売っちまえ!ってなって、それで、沢山できた金
2018年11月11日JR飯田線の長篠城駅から新城駅へ向けて歩いています。いよいよ、織田信長の英知が生み出した馬防柵を見に行きましょう。ここは、生き残った武田軍の各隊が合流して最後の突撃を行った場所だそうです。昔はぬかるみだったのでしょうが、今はホタルの里として自然環境が守られているようです。欄干には戦国時代を思わせるレリーフがありました。集結した武田陣営が、織田・徳川連合軍の陣地に向って突進していく途中、連吾川のぬかるみに足をとられながらも、