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「田布施一流炮術真業録秘書」の翻訳に再び取り組んでいます。日本語の書き方や話し方を練習するうちに、漢字やカタカナの識別が容易になってきました。しかし、文章を整理し、効率的に編集するために、AIツールや翻訳アプリに頼っています。これにはかなりの時間がかかりますが、それでも助けになります。それでも、これらのツールの助けを借りる際には慎重でなければなりません。研究と編集のプロセスを迅速化する一方で、結果には一定の懐疑心を持って臨む必要があります。また、友人の丸岡優にいくつかの間違いを訂正してもらいま
ギンの仇討ちにゴルと仲間4人で行って来ました。地形や居る場所は把握出来たので、タツマを吐きたくして、崖上最上部へ。ゴルが私を呼びに来て、この下に居ると教えてくれたので、下のタツマに連絡。ギンは、私が来るのをポイントして待ってるタイプでしたが、ゴルは獲物がデカいと、呼びに来ます。やはり崖下の藪に居る。下の藪に居ると教えてくれているので、少し崖を下り降りてみました。薮の中は全く見えませんが、ゴルの警戒動作を見れば、間違い無く居ます。薮の手前まで降りても、全く動きは無
私がしばらくフェイスブックを利用しなかったら,年若の友人で火縄銃研究者のサミュエルワイアットビーチ君がアメブロに登録して記事を投稿してくれました。その記事を読んだら,ひさしぶりに心のこもったクリスマスプレゼントをいただいたような気になり,私はとても幸せな気持ちになりました。多くの皆さんに日米の火縄銃研究者の交流をお伝えしたいと思い,彼のブログ記事『私の初めてのブログ-Myfirstblog.』をリブログします。彼は昨年,私の私設博物館である金山城伊達・相馬鉄砲館が
これが,国宝級大狭間筒だ。今日の夕方になって,やっと虎造工房が修理した国宝級の大狭間筒が無事に到着した。狭間筒とは,城壁の銃眼(狭間)や船舶などに備えて使用した長射程の鉄砲だ。この大狭間銃は,全長が185センチもあり,大阪城天守閣に展示されている全長2メートルの大天狗と名付けられた鉄砲に次ぐ長さだ。あまりに長すぎて,カメラのレンズに入り切りませんでした。一番上が,全長185.0センチの国宝級の大狭間筒二番目が,全長109.6センチの
阿波徳島藩の鉄砲は,銃身が異様に太く重い。しかも,頑丈な巻張作りのものが多い。士筒と呼ばれる口径19ミリの10匁筒にいたっては、重さが7キロもある。同じサイズの仙台鉄砲は5キロ以下なのだ。下の写真は阿波の一匁五分(11mm)の鉄砲と10匁筒の比較写真だが,阿波の10匁筒は,まるで大筒のように見える。下の鉄砲が10匁筒全長105.3センチ,銃身長73.4センチ銘阿州山田民右衛門惣巻張徳島藩は,火薬を通常量の何倍も装填できるよう銃身の厚さを太くしたのだろう。火薬量を増加させ
鉄砲という新技術は,1543年に突如,種子島と言う日本の南海の小島に伝えられた。日本人はよくこの新技術を吸収し,たちまちのうちに鉄砲の国産化に成功する。また多くの人が,種子島に渡り鉄砲の操作を学んだ。藤原一火や津田算長がいい例である。日本人は新技術の吸収力に富み知的好奇心の旺盛な国民であると言っていいだろう。鉄砲の操作を学んだ日本人たちは,射撃の正確性に強くこだわった。それは砲術流派の伝書を見ても明らかだ。一匹狼の砲術家が,その業を認めてもらうため,砲術を広めるためには,百発百中の腕が必要
火縄銃の尾栓の抜き方について,当ブログに問い合わせがあったので,手持ちの馬上筒を実験台として,尾栓の抜き方を説明します。今回の尾栓抜きは錆がひどくなかったので,油漬けだけで,何とか抜くことができました。しかし,普通はこううまくいきません。尾栓を抜くのは油漬け以外に3つの方法をあり,順番にその方法を用いていきます。尾栓抜きはとても根気がいる作業なのです。馬上筒の抜栓成功抜栓直後研磨後整備前(ビフォー)整備後(アフター)
公式ハッシュタグ令和6年5月7日骨董品ランキング1位ゴールデンウイーク前半,年若の友人が山形県米沢市の上杉神社に奉納される上杉砲術隊の古式砲術演武を見学に行った。その際,上杉砲術隊の隊長さんから金山城伊達・相馬鉄砲館への預物があったとのことで,上杉神社の紙袋を届けに来てくれた。紙袋には,上杉神社及び松岬神社のお札と御神饌,お神酒が入っていた。世の中に私のような者を気にかけてくださる人がいるということは,とてもありがたいことである。上杉砲術隊さん,どうもありがとうございます。上杉神社
お坊さまと鉄砲国王の退位により、王政から民主的国家へと移行することになったブータンを舞台に描く人間ドラマです。とある山あいの村で、銃を巡る騒動が持ち上がる。これは、歴としたコメディー映画です。爆笑ではありません。微笑ましい、くすくす笑いの類です。ですが、演じているキャストは、誰一人として、笑わせようとはしていません。そこが面白いです。世界には、文化や価値観が全く異なる国があるものです。大きな要因は、やはり宗教です。宗教が、物事の在り方や考え方を、規定しています
さて、私はいわゆる「バンバン」、「ブーブー」が好きでして・・要するに鉄砲のおもちゃと自動車のおもちゃが大好きなのです。笑そういうわけで今年のクリスマス会用に買い込んだのが・・バンダイの「アタックガールガンVer.アルファタンゴ」。良くわかりませんが、鉄砲のおもちゃなのです。ミリタリーぽくない、近未来的な鉄砲です。近未来的な鉄砲の「ジリオン」で育った世代の私には興味深いのです。面白そうだったので・・複数買いこんだのです。笑
「頼朝様、犬山城の外れの大草に城を築きたくご提案申し上げます。」羽柴秀長が提案をしてきた。この5年間、岐阜城と犬山城という戦略的に重要な拠点の奪取に成功し、この地域一帯を要塞化できたとは言え、織田家よりははるかに小さい規模の小国である事には変わり無い。精強な軍隊を保持する事は急務であった。羽柴秀長がそのために刀狩り、兵農分離、楽市楽座等の政策を実施してきた。どの政策も精強な軍隊を維持することと、領土の発展と民への善政をこころがけたものである。「今の政策を続けるには莫大な金が必要で、当初
火縄銃の弾丸と玉鋳型火縄銃など滑腔前装銃の弾丸は、鉛や鉄、石などの丸玉である。この中で、弾丸として一番用いられたのは鉛だ。鉛の弾丸製造は,技術や知識がなくとも簡単に作れるという補給の容易性は,火縄銃の利点であった。火縄銃の弾を作るには,まず鉛を鉄鍋の中で溶かし、それを厚めの柄杓で掬い、ヤットコのような玉鋳型に流し込んで製作した。弾丸づくりの道具一式鉛は融点が約327.5度と低く、囲炉裏火にかけた鉄鍋で簡単に溶かすことができる。石田三成の家臣・山田去暦の娘
問題文(段落番号は便宜上付けたもの)次の文章を読んで、後の設問に答えよ。1石狩アイヌの豊川重雄エカシ(長老)の自宅脇にある素朴な作業小屋のなかは、燃える薪のなつかしい匂いがした。あたりには、エカシが彫ったばかりの儀礼具の見事なマキリ(小刀)の柄やイナウ(御幣)が無造作に置かれ、それらに使われたクルミやヤナギ材の香りが淡く漂っている。2立派な顎髭のエカシは火のそばに座り、鋭い眼光に裏打ちされた人懐っこい微笑をうかべながら、おもむろに、壮年のころの熊狩りの話をはじめていた。アイヌの聖
歴史というモノは色々と変わるモノでございます。「禁断の江戸史~教科書に載らない江戸の事件簿~」河合敦著扶桑社文庫(254頁)今回も、第一章の中から、江戸時代に一番出世した男・柳沢吉保(ヤナギサワヨシヤス)について、ちょっぴりご紹介。なお、私くらいの年代ですと―、この柳沢吉保と田沼意次(タヌマオキツグ)の二人につきまして、賄賂を貰いまくった汚職政治家としてお勉強いたしましたただ、歴史というモノは後の研究や発見によってどんどん変わってゆくモノなんですよね
仙台藩丸森鉄砲隊は,空砲演武の初練習を宮城県営射撃場で11月30日に行った。この練習には,8名の隊員のうち6名が参加した。練習では,参加した全員が初めてとは思えないほどの空砲演武練習結果を示せたのは大きな成果だった。練習前半は不発もあったが,落ちついて不発処理ができたのはいい経験だった。練習終盤では参加者たちが,つるべ連射が出来るほどに急成長したのには私も驚いてしまった。事前に射撃の型練習や不発処理練習を何日も行ってきたから,今回の練習では慌てることも手順違いもなく
年末のこの時期に、毎年、秋月藩砲術林流抱え大筒保存会による大筒の射ち納めが行われています。今年は、本日(17日)朝倉市の秋月城跡梅園公園にて開催されました。雪の舞う中、大筒の轟音と爆風が凄かったです。大筒を持たせていただきましたが、めちゃくちゃ重かったです。何と重さが約30Kgもあって、一人で抱えて発射できる最大の鉄砲だそうです。
2018年11月11日JR飯田線の長篠城駅から新城駅へ向けて歩いています。いよいよ、織田信長の英知が生み出した馬防柵を見に行きましょう。ここは、生き残った武田軍の各隊が合流して最後の突撃を行った場所だそうです。昔はぬかるみだったのでしょうが、今はホタルの里として自然環境が守られているようです。欄干には戦国時代を思わせるレリーフがありました。集結した武田陣営が、織田・徳川連合軍の陣地に向って突進していく途中、連吾川のぬかるみに足をとられながらも、
先月,三人の方から火縄銃の尾栓の抜き方について,メッセージで問い合わせがありました。私は,4匁筒以下の火縄銃の尾栓抜きなら,今年の二月まで成功率100%だった。それですっかり調子に乗ってしまい,3月には尾栓抜きに1度失敗してしまいました。あまり力強く回したため中途からネジが折れてしまったのです。とにかく尾栓抜きは,油漬けに時間をかけて尾栓に固着した錆を溶かす努力と気の長さが,必要だと痛感させられた次第です。尾栓の取り外しに成功。黒色の泥状に見えるのは機械油によって溶けた錆です。泥
宮城県南の山奥に住むご婦人から,私は驚くべき話を聞かされた。そのご婦人は昭和26年生まれで,小学校の時に近所のお爺さんが火縄銃でウサギ狩りをしていたのを見たというのである。ご婦人の旦那さんはすでに亡くなられていたが,存命中は散弾銃で狩猟をしていたというから,このご婦人が現代銃と火縄銃を見間違うはずはない。仙台の鉄砲明治末には,狩猟用に村田式猟銃が安く出回り火縄銃の時代は終わったと,現在は考えられている。ところが,昭和三十年代まで,火縄銃が現役だったという証言が飛び出たわけである。