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火縄銃は連発が効かない単発銃である。しかも射撃した後の次発装填には40秒以上の時間がかかるという弱点を持つ。次発装填中の銃兵は有効な攻撃や反撃を行えず,敵からみればかっこうの獲物である。次発装填に手間と時間がかかる火縄銃には,鉄砲伝来後の早い時期からその弱点をカバーするため様々な工夫がなされた。早合もそのひとつである。早合とは、一発分の弾丸と火薬を入れておく筒状の弾薬包である。江戸時代に使われていた早合この早合から銃身に火薬と弾丸を一気に注ぎ込むことにより、発射準備を迅速に行う
姫路城ってお城だからお堀があるのだけれどお堀ってだいたい断面から見るとV字形になる薬研堀と底が平らな箱堀なのだって薬研堀は幅が狭いのだそうこれは弓矢を避けられればよかったから箱堀は幅の広いお堀弓矢よりも飛距離のある鉄砲が出てきて堀の幅を広くする必要があったのだって。姫路城のお堀は箱堀。お堀にも種類があるのだね。知らなかった。
「テーブルに」・・はっきりしないお天気の土曜日でしたさて、GUNネタ思い出の鉄砲と各種「弾」?ひょっとしてもしかして?どうだろう?・・7.5mmだからセットしてみたひっくりかえすと、当然落ちる一つはそのままだったので他の4発はティッシュで包んでみましたこのようにそれでは試射です1発だけ跳ね返りましたティッシュ無しの弾ですまた気が向いたらどの位飛ぶかBB弾と比較してみようと思う夕暮れです
宮城県丸森町には,火縄銃に特化した金山城伊達・相馬鉄砲館という私設博物館がある。今日,当館では銃身の無い火縄銃の清掃を行った。当館は,太平洋戦争を継続するため金属回収令という馬鹿げた政策を行った事実を忘れないための火縄銃展示を行おうと計画したからだ。銃身が失われた火縄銃日本は,昭和10年代初めからABCD包囲網と呼ばれた経済封鎖を受けた。これに対し日本政府は,物資不足を補うため金属類回収令を定め,国内の金属類を回収して軍事兵器の増産に励んだ。これにより,一般家庭にあった鍋
現代が殺伐としているのか平和で安穏な時代になったのかわからないが、戦争がない時代が長く続いているのは確かだろう。昭和から平成、令和と時代とともに日本人の道徳観も急激に変わったように見える。昔はセクハラ、パワハラなんでもありだった。最近は企業でもその対策としていろいろ教育してる。個人情報などの徹底も厳しくなった。たばこを屋外で吸うことは犯罪に近い(いやまじで)少年Hを読んでいると「そんなこと言うと殴られるぞ」とか「おまえ殴られたいのか」という言葉が頻繁に出てくる。実際に少年Hは旧制中学の入学
雷管式の鉄砲と同時に火縄銃の技術復元の為に、伊勢守流(津田流御流儀と毛利高政は自筆の伝書に記述。佐伯藩染矢家所蔵)の四匁筒を復元製作することにした。当地は春夏秋が短いので暖かいうちに製作できるものはしたい。福島の伝来鉄砲は現在のところ米国内のマズルローダーの銃身製作工場全てから製作を断られた。理由は尾栓部の銃身が太すぎる為だ。尾栓部の木口が対角線で35mm一寸一分あまりあり一般的な米国のロングガンで29.5mmと比較するとかなり太い。長さは42インチ前後なので同寸の筒が存在するが太さで断ら
種子島に鉄砲が伝来した後,鉄砲は将軍や大名間の進物や贈答品として利用された。新兵器というのはもちろんだが,珍品としての価値があったからでもある。インドや中国しか知らなかった日本人が,鉄砲伝来により南蛮人という異民族を知ったということも贈答品としての鉄砲の価値を高めただろう。鉄砲伝来直後は,数が極端に少ないためどんな鉄砲でも贈答品になりえたに違いない。しかし,諸国に鉄砲が広がった戦国末期には,南蛮筒と呼ばれる南蛮で製造された鉄砲が贈答品として利用されるようになった。例えば,豊
まったく意識しなくて言われて確かにって思う事出会うと面白いです戦争に鉄砲を使わなかった時代の世界中の兵士のイメージですけど日本だけ一つ大きな違いがあります兵士が盾を持ってるか持ってないか・・私「何で?」って思うと気になる面倒くさい性格ですので色々と調べてみました島国の日本は大陸の国とは違い同民族である為違う民族と出会う事がないので新しい発想は難しいですただ好奇心が強いので受け入れやすくそれからもっと便利に出来ないかっていう考え方をします昔の戦争は肉
今は、トラウマになっている犬だけど幼かった時は、そんな事はなかった。私の幼い頃、隣の家では大きなダルメシアンを飼っていた。子供の頃に読んだ絵本101匹わんちゃんの犬だ。隣のおじさんは、猟銃を持って時々狩りに行く。鴨を狩りに行く時、ダルメシアンを、連れて行っていたのだ。鴨がとれると、鴨ご飯をおすそわけしてくれた。その頃は、鴨ご飯なんて珍しくて、なかなか食べられない。隣のおじさんは、それを食べさせてくれた。私の家では、家の裏側で野菜を作っていた。母と野菜を取りに行っては、隣の
きのうの午後、所轄署から担当警察官が自宅に来ました。現在、鉄砲の所持許可証の更新中ですが、ガンロッカーと装弾ロッカーの設置および保管状況の確認をするためです。ロッカーは、それぞれ別室に設置して壁や柱などに固定しなければなりません。きちんとなっていたので「問題なし」のお墨付きをいただきました。これにて所持許可証更新手続きは完了!あとは警察から新しい許可証が出来た旨、連絡を待つだけです。出来るのは、ワタクシの誕生日以降。日をみて取りに行くことになります。これとは別件ですが、先日申請してい
1871年(明治4年)のこの日、それまで武士にのみ認められていた乗馬が庶民にも許可された。馬術は武芸の一つであり、刀剣や鉄砲と同じように兵器として扱われていたので、江戸時代は武士以外の者(商人や農民)の乗馬は禁じられていた。江戸幕府から明治政府に代わり、庶民にも許可されることとなった。明治以降は日本伝統の馬術ではなく、西洋馬術を主として発達した。江戸時代、日本での馬術は「武芸十八般」に数えられていた。これは合戦で戦うための技芸のことで、修得すべきとされた18種類の武技の総称である。18の
さてここまで兎に角、松葉金の製作に手こずっていた。管打ち銃の特徴として挙げられるのは松葉金が鉄製で有る点だ。本来使われるバネは以下の写真のように約27キロの抵抗を発生させている。この西洋鉄砲はデザインだけを模した現代銃なので板ばねではなくコイルスプリングが用いられている。私が製作したカラクリのバネ力は1.7キロに過ぎずこれでは雷管を発火させるのは難しいと思われる。その後、江戸毛抜きの製作を参考にして叩き上げる事で鉄を硬く粘りを出すことに成功し、最終的に1.7キロから2.3キロまで抵抗を上げ
昨日、訪れた福岡城跡の多聞櫓を動画にしてみた。多聞櫓は、福岡城跡で唯一、江戸時代の建築物という。多聞櫓|【公式】福岡城・鴻臚館fukuokajyo.com最初の画面が早送り過ぎるので、ここに静止画を貼っておく。さあ、中の様子を覗いてみよう。ここより、敵軍に「石落」を仕掛けたり、「鉄砲狭間」と云って、鉄砲で一網打尽にしたりを狙っていた。幸いなことに一度もそういう戦いもなく、明治を迎えたのである。「残る花多聞櫓に戦なく」ハイジャン男
戦国時代の古戦場に行った。本で読む楽しさとは違う、思考があった。馬防柵が設置してあった。YouTubeを観て下さい。https://youtu.be/aIEMa-1-YB4設楽が原古戦場この場所で、阿鼻叫喚があった。この場所で、殺し合いが行われた。設楽が原の戦いがあった。織田・徳川連合軍対武田騎馬軍団だ。馬防柵に向かって来る、武田騎馬隊。鉄砲の餌食になった。武田軍の完敗になった。何故、馬防柵に突進して行ったのか。酒井忠次が長城城を開放した。武田軍は、後ろ
徳川家康は,稲富流砲術を学び射撃の名手だった。「東照宮御実記附録巻二十三」は、徳川家康が浜松城の櫓の上にいた鸛(こうのづる)を、50間~60間の距離から稲富流の長筒で撃ち落としたと記している。徳川家康が好んだ稲富流の鉄砲三河住清定の製銃した稲富流仕様の六匁火縄銃銃身には元和三年八月と刻まれている。元和三年といえば徳川家康が亡くなった翌年だ。この鉄砲は,400年の時の流れを超えて,存在し続けている。今日,4月17日は,徳川家康の命日である。『徳川実録』
ぺらぺらこれは俺が子どもの頃じいさんに聞いたから、昭和初期あたりの話かな。じいさんは猟師専業ってわけじゃなかったけど鉄砲を持ってて、ときどき山で兎や雉を仕留めてきた。自分ちで喰う場合もあったし、売って金に換える場合もあった。その日もじいさんは山へ鉄砲を持って行った。このときは春で、山菜採りが目的だったそうだ。そしたら慣れた山道なのになぜか道に迷ってしまい、薄暮になった。それでもなんとか道を見つけ、「やれやれ夜道になるな」と下っていったところ、突然横手の薮から警笛が聞こえたそうだ
ガロアは過激な政治思想の持主だった。それは敬愛する父親の自殺によってそうなった。彼は生前、革命の為に死体が必要なら僕がなっても良いと周囲に漏らしていたそうだ。彼はナイフを片手に、ルイフィリップに乾杯をグラスを持ち上げた。これはルイフィリップを殺すぞというように捉えられ、逮捕された。しかしそれは無罪となった。そして今度は鉄砲を持ち、街中を行進してる時に逮捕され、禁固となった。全く吐き気を催すようなスピード感である。そこで療養所にペストなどの疫病の感染でガロアは療養所に移される。そこで彼はステファ
公式ハッシュタグ令和6年4月19日骨董品ランキング3位朝鮮の役の蔚山籠城戦では,日本の鉄砲が威力を発揮し明朝鮮連合軍を退けた。加藤清正を主将とする日本軍は,慶長二年12月22日,蔚山城に押し寄せた明朝鮮連合軍5万7000の軍勢に包囲された。しかし頑強にこれを阻止し,ついに援軍が来ると反撃に転じて大勝利をおさめた。蔚山城攻防戦出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』蔚山城の戦い-Wikipediaこの籠城戦には,太閤秀吉の妻,北政所の甥である
信長の野望覇王伝Amazon(アマゾン)ヤバイわー。覇王伝って、多分、シリーズの中でもダメな方なんだけど、やったら、面白いんだよ。武将風雲録よりもシビアじゃなくて、結構ゆるい部分があってそこが好きなんだよなあ。ちなみに、プレイステーション1のもの。織田信長でやったら、武将がやたら沢山いるんだけど、本来ならそこで武将を集めて内政すべきなんだろうけど、一気に、兵を集めて北畠を倒す。鉄砲が26あったんだけど、雨になったりして使えなかったりして、売っちまえ!ってなって、それで、沢山できた金
僕の住んでいる地域は「鳥獣保護区」になりますですが、市役所からの依頼で「害獣駆除」を依頼された猟友会の方たちが月に2回ほど、「カラスの駆除」を行うため日曜日の朝7時から発砲音が鳴り響きますこれは年中行事です(イラストはネットでお借りしました)分かっているこことはいえ、発砲音で目覚めるってどんな所?って感じですたしかにカラスは多いんですけどね・・・
ガーンうちのじいさんの話。畑もやっていたが、1年のうちの何ヶ月かは山暮らしだったんだよ。生計が半分、趣味が半分って感じでね。あちこちの山に簡易的な小屋を建てて、そこを泊まって歩く。その間、食料はむろん山の中で調達するんだ。いやいや、冬場でなければ山は豊かだ。今の植林した杉林ではどうにもならんが、雑木が濃い山なら、木の実、山菜、キノコに獣肉・・・じいさんは鉄砲持って歩いてたからね。だが職業的な猟師ってわけじゃなかった。兎や山鳥を撃って自分で食べるくらいで、炭焼きが主だったな。あと
【詩】『指先の花』著K&Dandy今日も...暑かったね...そう言いながら...夜をふたり...楽しんでいるの...線香花火に...火をつけて...一緒に持てば...指先から...花が咲くようね...観守るように...視線の先は同じで...想いを重ねてる...夜空の下では...小さな光でも...しあわせ過ぎて...こころに...大輪の華が咲くわ...空に
なるほど祖母の言っていた福島の御先祖の基本武芸は槍とはそういうことだったのか。昔はあったと言われているのは槍、薙刀(呪われているという)、鉄砲、脇差、刀。今残っているのは私の家にある江戸中期の鉄砲の台木(復元中)と父が東京に保管している鎌倉時代と鑑定された脇差だけだ。
山に行くとき何度も松本行っているのに松本城は寄った事が無いんですなぜなら松本通過時間は行きは早朝・帰りは18時過ぎ・・・と言う訳で今回は1泊で計画を立てちゃいました1日目松本城~諏訪大社四社参りの残り二社(春宮・秋宮)~~高遠城址公園のタカトウコヒガンサクラ鑑賞です2日目大展望が待ち受ける守屋山です早朝5時自宅出発東部湯の丸ICで降り国道で松本開智駐車場(1時間¥200)8時過ぎには到着まだ駐車場は10台ほど
読書は、いわば鉄砲で的をねらううようなものです。しかしいかにねらいを定めても、引き金を引かない限り、一向恐ろしくないでしょう。引き金を引くとは、実行ということです。そこでどんな本を読んでも、実行の心がけのないような人間は、恐れるにたりないのです。#運命を創る100の金言#森信三読書して何を実行しようと考えるかは重要です。読んだだけでは意味はありませんしね。しかし読書のための読書の本を結構読んでいる気もします。それもまた本末転倒なことですね。何事も多少の寄り道は仕方がありませんが
有害の集計を人の分までやってる。まあ人より沢山捕獲していたら仕方ないが。Excelも使えない、PDFも分からない人が集計したら効率が悪いしまあいいや。集計をしていたら、月に19匹、16匹シカを捕獲している人がいる。私は頑張ったが月に15匹で限界だった。しかも括り罠である。毎日見回りしないとその数字はこの地域では無理。猟場はオッチャン1号の猟場と被ってる。鉄砲で追い山もうしてるし、箱罠もあるから括り罠で毎日やってたらまずは出会うはず。自分またたまに先輩猟師に出会う。猟とはそんなもんだ。
今日の「八戸育ちの八戸っこかわむら」のブログです。。。。。だんだんに昼はストーブいらずの日が出てきて灯油の節約になる。。。。ところで昨日は「てっぽう」を買ってきました。ちょっと生々しい感じがしますが、鉄砲は鉄砲でも、これは豚の直腸なのです。丁度、焼肉店をしている知人から酸味が出て、お客様には出されないとタッパーに入れたキムチを沢山もらったばかりで、湯がいてあく抜きをし、てっぽうの臭い抜きをしてからキムチとコチジャンを混ぜて自己流のキムチ鍋を作っ
仙台藩の御流儀鉄砲は,井上流砲術である。御流儀鉄砲とは,藩のお世継ぎたる若殿が学ぶ砲術のことである。井上流砲術の十匁火縄銃銃床後部がステッキ状で,機関部に外記カラクリを搭載するのが井上流の大きな特徴である。写真の上の鉄砲は,長銃身の仙台鉄砲の注文筒。下の鉄砲は,広島藩の番筒で筒番号十番。井上流砲術は,江戸時代を通して隆盛した流派で,徳川幕府の御鉄砲方も勤めた。流祖の井上九十郎正継は,創意工夫に長け独創に富んだ人物で,数々の連発銃を発明したほか,「外記カラクリ」と呼ばれる優
今日から年長さんになりましたクラスはというと、一番中のいい女の子とは別のクラスに最近仲のいい女の子Sちゃんとは同じじクラスになれました一番中の良かった子と離ればなれで大丈夫かな?と心配したが前の席の男の子にバンバン鉄砲打ち合っててなんか気にしてない様子ママ「Aちゃんとは離れ離れだけど新しい友達できるかもね」R「そうだね」先生はというと去年凄いお世話になった先生が1人と年少のときお世話になった先生だったから良かった先生の運はある知ってる顔ぶれで安心感まぁ幼稚園楽しめるといいな
今日は残念ながら雨でしたね···今日は、『知育プリント』をしました✏️内容は簡単✨同じ色の点と点を鉛筆で線を書いて繋ぐというものです🤗まずは鉛筆の持ち方の紹介から😊❕利き手の親指と人差し指で鉄砲の形を作り、鉛筆をのせて持ちます❗️が、ちょっぴり難しい様子の年少さん🥺それでも頑張って正しい持ち方で頑張って線を書いていましたよ👏そして、子ども達にとって、まっすぐな線を書くのは簡単なようで難しいようです😂しかし、「出来たよ~✨」「見て~❕」と楽しみながら行うことが出来ていました🤩✨ち