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奈良時代の学者・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)(※1)は、養老元(717)年に、吉備真備(きびのまきび)(※2)らと唐にわたり、唐の役人に登用されました。以降、35年間唐にとどまり、ようやく帰国の途につきましたが、その船がベトナム(安南)の沿岸に漂着してしまったため、とうとう生きて祖国の地を踏むことなく没しました。このように、当時、唐への行き来が如何に困難だったかがわかります。宝亀9(778)年には、大伴継人(おおとものつぐひと)(※3)らを乗せた遣唐使船が、唐からの帰路、激しい波浪で艫(とも
2024.5.1のブログを一部改正致しました。『2024.1.23チノポス書道史③「趣味が功を奏して…」』前回のブログでも記載した通り三筆「嵯峨天皇、空海、橘逸勢」に関する先生のお話をチノポス・書道史に沿って御衣黄の覚書から、記します。*詳細が気になった方は著書…ameblo.jp前回のブログで小野篁が、流罪に処された(隠岐に流された)事に触れました...その時、詠んだ歌と小野篁に関して先生がyoutube上で語られていましたので御衣黄なりに、まとめてみます。
2022年11月5日朝9時に国営平城宮跡歴史公園に来て観光をしています。「平城京あらまし」の説明書きがありました。平城京は、奈良時代の日本の首都のことです。藤原京から遷都するにあたり、710年に唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城になります。中央北域に宮城・平城宮(大内裏)を置き、東西8坊(約4.3km)の面積をもち、中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に二分され、さらに南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画され、全域が72坊に区