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隅田川花火大会舟木一夫が“ふれコン”で選んだ曲⑮「未練ごころ」―後半に第102回「オードリー」―本題に入る前に―。気象用語のおさらいをしておきます。夏日(なつび)⇒一日の最高気温が25度以上の日/真夏日(まなつび)⇒一日の最高気温が30度以上の日。逆に最高気温が0度未満の寒い日は真冬日/猛暑日(もうしょび)⇒一日の最高気温が35度以上の日/酷暑日(こくしょび)⇒猛暑日の俗称。1990年代初め頃からマスコミなどが最高気温40度以上の日として用いて一般に定着しました/熱帯夜
高校のクラス会は、さまざまな進路に進み、いろいろな職業であるので、おもしろいのです。地域も広く、外国にいるクラスメートもいて、もっとも遠くにいるクラスメートはアフリカにいるらしい。JICA派遣なので心配はないと思われるが・・・・高校生時代の恋人が結婚したご夫妻もいます。還暦をすぎても1年から2年に1回はあっていました。しかし、2020年以後、新型コレラの感染蔓延防止のため、同窓会、クラス会はできません。今回のクラス会の幹事は医科大学の教授で、ある分野での実績があり、病院ではなかなか
団塊世代とは、第二次世界大戦が終わり、平和になった日本は、一大ベビーブームとなった。その突出した年代、昭和22年から昭和24年を指して『団塊世代』と呼ぶ。名前の由来は、堺屋太一の書いた『団塊の世代』から来ている。その中の一人である、さすらいが少年期から青年期の頃のスターたちを追って見たいと思う。第一回は、団塊世代しか覚えていないだろう「安達明」を取り上げてみよう。彼は昭和23年9月生まれ。「女学生」が爆発的なヒットとなったが、3年間という短い歌手生活で、2011年62歳で亡くなっている。さすら
〽ポプラ並木で君を抱きしめふれしくちびるはすずらんの匂い〽”日本大学獣医科出身、高見昌児とノベルディ・ハワイアンズ、寺部震とココナッツ・アイランダースを経て昭和39年に現在のバンドを結成、昭和42年4月ミノルフォン専属となり現在に至る。”バンマス・トシ伊藤(現:敏いとう)氏のプロフィールがジャケット裏プロフィールに記載されているプレイズメンのデビューシングル、『北国の人』。本作は、後に1975年発売の敏いとうとハッピー&ブルーのシングル、『他人じゃないの』の
昨日のことでした…家を出ようとしたら…想定外のどしゃぶりの雨…どしゃぶりの雨の中☔️を…めげずに…出かけました…至るところが…渋滞…でも…なんとか…電車にも乗れ…新幹線の…車窓からの風景は…なんとか…セーフ…その後は…いつものように…〇〇さんの神通力⁉️で…雨に濡れることはありませんでした帰りは…夕焼け…私の行き先は…福島県郡山市…《けんしん郡山文化センター》wikipediaからお借りしました…ほぼ2000名ほど収容の大ホール…この日も…沢
上京した成幸は、自由が丘学園高校に転校する一方、四谷若葉町の「青葉荘」と言うアパートに落ち着いた。ホリプロの安倍と言うマネージャーが住んでおり、成幸は当分彼のもとで、面倒を見て貰う事になったのである。夜は週一度、西荻窪にある遠藤実歌謡学院に通い、本格的に歌の指導を受けた。アパートの近くに「梅の湯」と言う風呂屋があり、たまたまそこで歌の練習をしていた成幸が、巨人軍の私設応援団長である関矢文栄と知り合い、彼の口利きで成幸の後援会が「梅の湯」の中に出来た。昭和38年2月。成幸はやっと
新宿区若葉町上田成幸、父・栄吉、成幸の先生・山田昌宏の3人は1962(昭和37)年4月某日、NHK名古屋放送局のロビーで堀プロダクション社長・堀威夫に会った。具体的な話は後日、成幸と栄吉が上京して、堀プロのマネジャー・阿部勇と会って決めることになった。ここまで話が進んでくると、栄吉はもはや成幸を留めることは出来ない状況になった。5月14日早朝、栄吉は妻・節とともに国鉄・尾張一宮駅まで成幸を見送りにいった。そして急行列車を待つ間、ホームで17歳の成幸に語りかけた。「芸能界というとこ