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実家が色々ありバタバタです。休みは電車を乗り継ぎ1時間30分かけ通ってます。そして判明したのは実家が戦前の物件だった事。模様の入ったガラスの建具にタイルのお風呂。昭和13年築でした。びっくり。大垣駅前の路地を入ったところに丸窓の素敵な旅館跡がありました。紫陽花が育ちすぎてポンポン咲いてます。この並び古い商店が何件もあり廃業してたり細々と営業していたり。この通りを抜けてひたすら歩きます。駅から20分は歩いたと思います。立派な遺構。唐破風の装飾が美しすぎて息がとまりま
橋本遊郭街歩きの続きを書いていきます赤線時代が終わって旅館に転業された『石原楼』後に出てくる『辻よし楼』と共に全国女性街ガイドの中で橋本の大店として名を上げられた妓楼の一つ遊郭時代は、さぞや立派な造りの妓楼だったんじゃないでしょうか表が変わっても雰囲気残ってますもんねこのお宅の横に咲いてたモッコウバラを3年前に来た時に写真撮影させてもらっていて(過去ブログに写真残ってます)その最中に変な体験をしたんです突然男の人に「近隣住民の方ですか?」って声を
(前篇)からの続きです。『【東京都】遊里跡を歩く・台東区千束四丁目「新吉原」201510・202003(前篇)』日本最大の遊廓は”お風呂屋さん”の街/カフェーストリート/永井荷風が入りたかった投げ込み寺☆遊廓から続く色街の命脈はそのまま受け継いでいます「吉原」―その名…ameblo.jp★『赤線跡を歩く』に登場する転業アパート、この姿を二度と見ることはできないのです。江戸時代から続く日本最大級の遊廓「吉原」。その歴史は戦前、戦中、そして戦後にわたるのだが、実は大きいもの
3年前の3月に初めてこの街を訪れた時に立派な鯉の透かし彫りに見惚れてしまったこの妓楼跡遊郭時代の屋号を三枡楼といいます橋本遊郭沿革史には85軒の貸座敷の屋号が残されていますが建物と土地の所有者が違う店も多かったらしく津田電線の津田家、石原楼の石原家そしてここ三枡楼や京華楼を経営してた増田家(他にもあったのかもしれないけど)この辺りが地主だったり、名家だったりしたのかな~三枡楼が売りに出されてるという情報を誰かがネットに載せててその後無事に買い手が付きそれが今
西尾市会生町に鶴城荘とゆう遊廓跡地があります。詳しくは分かりませんがざっくりとこの三河方面戦時中基地があったのでその為の特飲街だったのかな。10軒ほど。刈谷の遊廓にも似た雰囲気のある感じ。こちらはまだ飲み屋さんとして活躍中たばこ屋さんだったであろうこの古民家が圧巻。建具もそのまま。たばこ屋さんの前の路地が遊廓跡地。飲み屋さんが数軒反対側から。右奥にたばこ屋さん跡たばこ屋さんと向かい合うかたちで路地の突き当たりにあります。ブロックガラスには風俗店のシールら
兵庫県明石市は駅前もとてもきれいで、子育て世代に人気の町ですが、小さな歓楽街がひっそりと残っています。魚の棚商店街の東側に桜町があります。この街のことはよく知らないので、見てきただけです。桜町入口のゲート街並み、街区の中央部は駐車場になっているところあり、歓楽街としては下火のようにも思える。メインストリートから北側に分岐する白雲通り少し前までは、お楽しみの店もあった模様白雲通りのゲート明石の遊廓はもう少し海側にあった。少し前までは大楼が残っていた
橋本遊郭のメインストリート(目抜き通り)を多津美旅館方面に向かって歩きます3年前に歩いた時はまだあったガレージ横の建物が取り壊されてました2009年グーグルビュー(グーグルビューは現在、橋本では2009年まで記録が残ってます)橋本遊郭沿革史では、手前が化粧品店でその奥の小さい建物が飲食店フェンスの間から空き地を覗いてみたら謎に奥の一角だけ取り残されてた『和泉楼』跡その先、左が『三枡楼』跡にできたマッサージ店で右の空き地手前にあったのが竹栖譚で見
日本最大の遊廓は”お風呂屋さん”の街/カフェーストリート/永井荷風が入りたかった投げ込み寺☆遊廓から続く色街の命脈はそのまま受け継いでいます「吉原」―その名を聞くと、真っ先に思い浮かぶイメージといえば、「日本最大の"特殊なお風呂屋さん"が集まる街」。確かに間違ってはいない。しかし、その歴史は意外に古く、江戸時代に遡る。徳川家康が江戸に幕府を開いて間もなくの元和4年(1618年)、現在の日本橋人形町に遊女屋を構えたのが始まり。もともと葦が生い茂る湿地帯だった場所から当初は「葦(葭)
https://www.oldphotojapan.com/photos/351/yoshiwara-no-yujo1910年代の東京•吉原の遊女東京の吉原遊郭で遊女達が窓の内側に座っている風景。www.oldphotojapan.com遊廓は人権侵害・女性虐待にほかならず、現在では許されない、二度とこの世に出現してはならない制度です。本展に吉原の制度を容認する意図はありません。広報の表現で配慮が足りず、さまざまな意見を頂きました。主催者として、それを重く受け止め、広報の在り方を見直