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幕末に戻ります150年前の本日は、慶応4年1月14日。この日、富士山丸が横浜に入港致し、負傷者を横浜病院に入院させました十四日夕横浜に着す。即夜傷人直に上陸し医学所に行く。此時吾其他両三人、介抱世話役命せられ病館に行く。(島田魁日記)拾四日夕、横浜に着し、仏語学校を直し、負傷病院に宛、幕臣、会藩、新撰組等混淆して仏人の治療を受け…(新撰組往時実戦談書)…われわれ負傷者を戸板へのせて上陸させ、外国人のいる病院へ入れてくれました。これは外国語学校と
今日の昼間は暑かったですね私、夜はまだタオルケット2枚を重ねてかけて寝ているのですが、今朝方、ちょっと寒いなぁ…と、目が覚めました。「ん?」寒いはずですよね。そのタオルケット2枚の間に寝ていました上に掛けていたのは、薄手のタオルケット一枚のみ。あれ?なんで寝る時に気が付かなかったんだろう…それとも夜中に無意識にタオルケットの間に潜り込んだ、かなさて、久しぶりの幕末記事です覚えていらっしゃいますでしょうかちょびっとばかり「天狗」?になった勇さんを諌める為に、
釜屋の集いの、講演会続きです続きまして、権先生の講演新選組常用刀・大和守秀國についてえっと、権先生の「権節」を説明するのは難しいので私なりの解説になります事を、お断りしておきますね。先生に訊かれた時に、私も同じようなことを考えていましたから大和守秀國というと、有名なのが歳様の愛刀であった事。そして、日野に伝わる勇さん土産の三振りですね。その秀國の前名が、「元興」銘於東武金杉営中元興作之同六月十一日於傳馬町太々土壇拂安
①よりそして本日。結城無二三さんが、勇さんの命により、村々へ廻状を送りました。大久保剛殿思召有之に付而は村々名主内意之筋被申聞度、仍之明六日九ツ時、下粟生野村千松寺迄可被罷出候。(中略)甲陽鎮撫隊地理嚮導三月五日結城有無之介(田辺家文書)これは武田家家臣で黒川金山を採掘する金山衆であり、江戸時代には旗本となった田辺家の古文書です。文中の「千松寺」は「松泉寺」の誤記と思われ、以下回覧の十六の村
こんばんは。今日で、9月もおしまい。企業にお勤めの方は、上半期が終わった!というところでしょうかさて、150年前の本日は文久3年8月18日そう、世に言う“8・18の政変”でございます「蛤御門の変」つまり「禁門の変」とは、違いますからね(^^;;結構、ごっちゃになったりしません私も初めの頃は、混乱しました!?(・_・;?え、私だけともあれ今日の政変は、非情に重要な日でありまして、初めての出動命令があったという事とともにその働きによって「新選組」という隊
①より先日、慶喜さんが去ったあとの二条城の留守を、新選組が任されたと書きましたそうなんです、留守を任されたのですよ。・・・二條御城は新選組に御悉(委)任に相成る。厳重に相固め、もし薩土より押し懸け来る時は、いずれ薩土焚玉なり、残らず土屛に付き、御殿は果して焼かれ申すべし、一同決心籠城致すの心得。(浪士文久報国記事)という勢いだったのです先日示した「改訂肥後藩国事史料・池辺悰右衛門日記」にもちゃんと書かれていましたでしょ?「留守は新選組近藤江御
慶応3年11月15日、醤油商近江屋にて複数の刺客により、明治維新の立役者、坂本龍馬32歳の太く短い人生の幕を閉じます。この事件の真犯人は未だ判明しておらず、実行犯は見廻組数名の者であるという説が現在有力であると言われています。ところが当時は、実行犯は新撰組が真っ先に疑われ、その新撰組局長である近藤勇は兼ねてより倒幕運動を行っていた坂本龍馬を狙い暗殺命令を下した罪により、慶応4年4月25日板橋刑場にて新政府に処刑されています。近藤勇は武士であるにもかかわらず、その内容は4月5日から尋問が始ま
藤森神社は、行く予定のない神社だった。祇園祭を見ることと、宇治にある神社やミュージアムを訪ねることが今回の旅の目的。福岡を発って宇治に着く前に考えていたのは、まず初日に宇治を回り、夕方過ぎて八坂神社へ参拝し石見神楽を見、八坂神社近くのホテルで一泊。翌日午前中に山鉾巡行を見た後に清明神社へ行き、それから福岡へ帰る、というものだった。宇治にある「源氏物語ミュージアム」の休館日は月曜日。しかし、月曜日が祝日の場合はその翌日が休館となる。私の乗る電車が宇治駅につく直前というタイミングで、
『風説集』は読んで字の如く幕末期の「風説(噂話)」を集めたものであり、記事中の膳所藩士大塚頼之丞や薩摩藩士村上信太郎、そして神村室十郎などは、いずれも他の史料で名前が確認出来ない、つまり今のところ本当に実在した人物なのかどうか判断出来ない人たちです。だから信ずるに足らないとバッサリ切り捨てることは簡単ですが、せっかくの面白い話なのでここは推測を積み重ねてつじつま合わせをしていきたいと思います。近藤勇は野々村勘九郎の身柄を確保してどうするつもりだったのでしょう。腹を切らせるつもりだった
今日で2023年度が終わり、明日から新年度開始(2024年度)ですね。年度末ギリギリまで契約関連で多忙を極め、なんとか肩を付けることができましたが、余り休む暇もなく新年度の業務開始で、暫く引き続き多忙な日々となりそうです…前置きはこれぐらいにしまして、本題へ…。先日3月27日(水)19:00〜フジテレビで放送された「奇跡体験!アンビリバボー番外編超次元能力者vs歴史ミステリー」にて、超次元能力を持つジャッキーデニソンさんという方が、新選組鬼の副長として人気を誇る歴史上人物・土方歳三と、新選組
新一万円札が渋沢栄一さんの肖像に決まりましたね。150年前の箱館で、小彰義隊を率いている渋沢成一郎さんの、従弟にあたる方でございます。昨日のツイッターでは、その渋沢さんのお話で賑やかでした(「令和新撰組」は話題にもしたくないのでスルーします)ただ明治以降の彼の功績が大きく書かれていますが実は幕末に慶喜さんに仕える前には、横浜の外国人居留地の焼討計画などもした、バリバリの「攘夷浪士」でもあったわけですんで、私の過去記事にも書いたことがありますが新選組や歳様との絡み
・ジャッキーさん以前からスゴかったですが、まぁイギリスには本物の方も多いのですよね😎。はい先日のアンビリですが、今回もとっても良い番組でしたよね、Tverでまだ見れるようなのでご覧になっていらっしゃらない方は下のリンクからお早めにですね、番組が長いから「土方さんの遺髪を早く見たい!」というような新選組ファンは速度上げて見るのも良いですよね😅。超次元能力者vs歴史ミステリー-フジテレビ超次元能力者vs歴史ミステリー-番組情報。www.fujitv.co.jpTVer
今日は恒例、O先輩との月一デートです珍しく日曜日なのですが、先輩のお家で大掃除のお手伝い&プチクリスマスパーティでしたさて、今夜は久々の幕末です150年前の本日は慶応2年11月12日。この日、ではないのですが、この頃歳様と数名の隊士が、幕臣・渋沢栄一さんとともに、元見廻組隊士・大沢源次郎さんを捕縛しました。九月頃ニ見廻り組大沢源二郎其他三、四百人徒党シ、ムホンヲクハタチ、故ニ当局ニテ召捕リ兵庫ニ送ル。(島田魁日記)大沢には多人数の共謀者があって
さて、前回の続きです。千葉県の流鉄流山線というローカル沿線にある流山市流山駅にある噂の心霊スポット(でも本当はデマ情報)のところで一旦、区切りましたが、この流山駅付近は、流山市役所の裏手の方に以前?飛地山という小高い丘があって、その場所は元はとある会社が所有していた私有地でしたが、今は更地になっているとのことです。その元飛地山には、こんな噂がありまして、もともとは「飛血山」という名前で、明治時代までここには処刑場があって「処刑で血が飛んだから飛血山」と言われていたという、いかにも心霊スポッ
昨日たまたまアンビリバボーを見ていたら、イギリスの超次元能力者・ジャッキー・デニソンさんが新選組の歴史をたどっていてとても興味深かったです。霊能力者とか呼ばずに、あえて超次元能力者と紹介されていました。私にはそう言った力が全くありませんが、短期間で新選組をたどるのはかなり労力を使ったと思います。かれらの運命が悲惨なので。驚きだったのが、超次元能力者・ジャッキー・デニソンさんの一言によって、土方歳三の遺髪が現存していたという驚がくの新事実が明らかになったことです。髪の毛はとても生々し
幕末に長州藩の中心となって薩長連合を成立させた夫と、その夫を命懸けで守り、新撰組の近藤勇を感心させた妻が、桂小五郎と幾松、のちの木戸孝允と松子の夫婦である。桂小五郎は長州藩の藩医の子として生まれ、松下村塾で吉田松陰に学び、勤王志士となる。一方幾松は若狭小浜藩士の子として生まれるが、父が出奔、9歳で舞妓となり、二人は1862年頃に京都で出会った。小五郎が伊藤俊輔(博文)を連れて京都じゅうを飲み歩き、京都三本木の売れっ子の舞妓・幾松の贔屓となったのである。当時幾松には大金持ちの旦那がいたが、小五
読者のみなさまへいつも永倉のブログを読んでいただき誠に、誠に!ありがとうございます!先日、あるブロガーさんからメールをいただきました。その内容とは永倉さんのブログいつも楽し
大河ドラマ「新撰組」全49話をみおわったの、→☆ずっとみたかったんだけどレンタルも配信もしてなくて断念してた記憶この部屋隔離中のいま、無料動画をはっけん無料はありがたい。けど画質ひどかった、、笑。ストレスためつつ。いやでも無料配信ありがとう、しらない人!←新撰組のみなさんそれぞれキャラがたち魅力的だったそして今みるとみんなイケメン(むかしは特におもわなかった方々も)若いって尊い、、。←中でもわたしの1番の好み♡は←聞いてない斎藤一、、扮していたオダギリジョーふだん
昨夜は日野昨夜は日野本陣にお越しの皆さま、ありがとうございました楽しんで頂けましたでしょうか。夜の本陣、素敵でしたね「令和」ものの押し型をGetされた方々、良かったですねさて、記事は昨日の続きです肝心の新選組との関わりなんですが、実はこの亀太郎さん、新選組に捕縛されたんですよっ京都で公卿方へ出入りし、勤王家の為に奔走していたのが原因で、祇園に遊びに行っていたところに踏み込まれたのだそうで…この時には「有栖川の宮の家来で安藤、代官小堀さんの家来の林田」さんたち
昨日のTV『アンビリーバボー』のジャッキーさんはすごかったですね!土方歳三や近藤勇、そして周りの人々の、生々しい思いを知り、ところどころで涙しそうでした。(佐幕派の武士への同情ではなく、人としての同情です)私も昔は「残留思念」など、ただ不思議だ…と思ったものですが、今では、『亡くなる心得』の10章に、ちゃんとその現象が起こる理由を説明しています。特に204ページ辺り。現代科学としても解説していますが、実は科学を持ち出すまでもなく、偉大なアボリジニは、もうとっくの昔に、ト
続『刀剣乱舞-花丸-』第5話で、虎徹兄弟が作っていた料理「たまごふわふわ」出典「8:38PM·Feb25,2018·TwitterforiPhone」Twitterhttps://twitter.com/RRR_ringo_pai/status/967725610461102081右の赤ジャージが新選組組長近藤勇の愛刀「長曽祢虎徹」です。近藤勇の好物だったという事で、弟の蜂須賀虎徹と一緒に、この「たまごふわふわ」を作っていました。出典:「続『刀剣乱舞-花丸-』(アニ
講演会の続きですプログラム四番目慶応四年六月下旬会津天寧寺(近藤勇150回忌墓前祭にて)この絵は、新選組隊士・中島登の「戦友姿絵」です。そこに、こうやって書かれているんですね。「新選組局長近藤勇昌宜行年三十六才送号貫天院殿純忠誠義大居士会津天寧寺ニ送葬ス」会津天寧寺に送葬、送って葬るって書いてますねけれど今まで会津説が信じられなかった理由のひとつは「会津にいる土方が、遣いを出して京都から首を持って来させた」中には、「斎藤一が京都まで
(一部『青のミブロ/第2話』より)夕方、何気なしに観ていたアニメに、思わず膝を打ったこと❗️何やら「新選組」のオリジナル解釈版らしいのですが…【近藤勇】【土方歳三】近藤さんと土方さんの愛刀の「柄と鞘(つかとさや)」の色設定が、実物どおりだったのです❗️まぁ、それくらいはやって欲しいとは思いますが😂💦【長曽祢虎徹(ながそねこてつ)】(新選組局長/近藤勇の愛刀の模造品)【和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)】(新選組副長/土方歳三の愛刀の模造品)前者は「近藤」つながりで、私自身も所有
板橋駅のすぐ東ですこの日のウォーキングのスタートは、JR埼京線の板橋駅です。以前は池袋・赤羽間は赤羽線とよばれ折り返し運転をしていましたが、埼京線の開通にともなってとても便利になりました。駅の東側に出て、最初は近藤勇のお墓に行きます。近藤勇・土方歳三の墓と彫られています。新選組局長だった近藤勇は1868年に板橋刑場で処刑されました。こちらの墓所は、1876年に永倉新八が設立しました。関東には各地に近藤勇の足跡が残されています。ウォーキングを続けていると、その数の多さ
夏休み会津へ行ってきました今回の記事はジャニ話はほぼ無くて大河ドラマ新選組!を回想しながら会津の新選組史跡巡りを綴るという旅と史跡と趣味の記事です( ̄▽ ̄)ゞ山本土方や香取局長やオダギリ斎藤が出てきます鶴ヶ城↓会津の歴史展示や綾瀬はるかさんの桜の木大河ドラマ八重の桜の衣装展示がありました右下:鶴ヶ城から眺めた芝生アート今年は戊辰戦争からプレ150年なんです右上:幕末の会津若松という映像上映があり土方歳三と斎藤一も登場したので大興奮!!鶴ヶ城の後は新選組ゆかりの場所へ●
Aloha最近映画ネタが多いので、映画紹介ブログみたいになってる気が(笑)このブログは自分の記録(日記)として書いているので面白いものは面白い、つまらないものはつまらないと言います😂ということで、今回はコチラ↓▼燃えよ剣映画『燃えよ剣』公式サイト大ヒット上映中!原作:司馬遼太郎×監督・脚本:原田眞人×出演:岡田准一、柴咲コウ、鈴木亮平、山田涼介、尾上右近、山田裕貴、伊藤英明―「新選組」土方歳三の知られざる真実を描く、歴史スペクタクル超大作!!大ヒット上映中!moeyoke
10歳で近藤勇の「試衛館」に入門し、池田屋事件では数十人を相手に奮戦する活躍を見せるが、病魔に犯され若くして逝去した新選組隊士が、沖田総司である。沖田総司は1842年、沖田勝次郎の子として生まれた。10歳で近藤勇の「試衛館」に入門、瞬く間に頭角を表し師範代を努めるまでになる。1863年に清河八郎が、将軍徳川家茂の上洛警護のために浪士組を募集、近藤勇、土方歳三らと参加して上洛する。しかし入京した翌日、八郎は新徳寺で、浪士組の本当の目的が討幕であることを表明。浪士組は八郎に従って江戸へ戻る者と、