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震度6弱当日の大阪ご挨拶行脚、次は大阪の玉造稲荷神社さんのご紹介です。実は、この神社のご祭神は、私たち神様いやし隊にとても縁が深い神様でして。昨年もご挨拶にきました。近年、恋きつねの可愛らしい絵馬と真田紐で、良縁・縁結びの御利益神社、パワースポットとして注目されているようですね。このお社の地は、古来より勾玉を作る職人さんが住んでいたことから、玉造(たまつくり)と呼ばれ、NHKの大河ドラマにもなった真田幸村が最後をかけて戦った“真田丸”があった場所です。境内には
いのじ@injhnkn重忠くん、スタンスが坂東武者大事で上の言う事がそれに反することなら臆さず物申すし綺麗な顔して割となんかこう、図太い何かを持っていて良いな…。うれしいな私の好きな重忠がちゃんとドラマの中にもいる感じがする2022年03月15日20:34こうして中川大志の演技について考察して下さるのが本当に嬉しくてたまりません❗奥さず物申すのはこちら👇️「思いませぬか?」ではなく「思わぬか」ってのをツイでどなたかが言っていて…ほんまや❗となりましたいつも丁寧で上下関係なく敬語
先日2016年11月11日の鹿児島散策の谷山地区の続き。「地頭館跡」「赤崎海門誕生地」を見学した後は、「伝・豊臣秀頼の墓」に向かいました。地頭館跡・赤崎海門誕生地のレポ。http://ameblo.jp/indyaki12/entry-12225228161.html豊臣秀頼公は、大坂夏の陣の際に自刃せず落ち延び、島津家に匿われていた、という言い伝えが、ここ鹿児島にはあると聞いたことがありますが、それを裏付けるような史跡があるというので、向かってみると…。鹿児島
天草四郎に仕立てられた益田四郎自身、豊臣遺臣といえますが、それだけではインパクトがありません。そこで、首謀者らは四郎を秀頼の遺児としたのでしょう。都合よく、大坂落城後、秀頼が城を抜け出して薩摩へ落ち延びたという噂が流れていました。そのことは当時、平戸の商館長だったイギリス人の日記でも確認できます。その噂がある以上、豊臣遺臣らが首謀者の呼びかけに応じ、一揆に馳せ参じた可能性はあるでしょう。前出の『耶蘇天誅記』にも四郎が秀頼の落胤であるという説が掲載されています。
随分前ですが、「伏見城」の遺構が京都を中心に全国にも点在していることを知り、ネットや様々な書籍を基に、移築先をリストアップしたことがありました。そして、そのリストアップに基づき近隣から訪問して写真を撮ってきましたが、長年「竹生島」内にも「都久夫須麻神社」にその遺構があることを知り行きたいと思っていましたがなかなか実現しませんでした。そうこうするうちに、「竹生島」には、もっと凄い城郭建造物の移築物があることを新聞で知り、それと併せて行きたいという熱が湧き出してきました。というの
滋賀県プチ旅行記事の続きです。今回の旅行の1番の目的は、竹生島でした。ブログでよく見かけるけど行った事無くて暑い時期はキツイって書いてたので今回の旅行で行く事に決定。この日は午後から晴れだったんですが、朝1番のフェリー予約してたのであいにくの曇り空でした。渋滞怖くて早く出たのでフェリー乗り場で1時間も待ちました。船内はこんな感じで、乗ってる間に竹生島の由来や観光スポットなんかを流してくれるのであっと言う間に到着しました。ほとんどの人がここで記念撮影してたので
今でも根強く残る、関ヶ原合戦以降の徳川の築城政策を「大坂城包囲網」とする見解について.。確かに美濃加納城、近江彦根城、丹波篠山城、など平時の軍役としての大名手伝普請の形でとしての実施し、徳川への忠誠心を確認することとなっている。さらに姫路城には縁戚関係にある池田輝政を置いたりしており、確かに、大阪城は包囲され、豊臣に対する徳川の優位性を示すことにもなっている。しかし、包囲網説を採用する方々に伝えたい。丹波篠山城普請には、大坂の七手組が参加していることを(高知県立高知城歴史博物館蔵山
『“淀君の激怒”~NHK大河ドラマ「どうする家康」』大河ドラマ「どうする家康」、ついにきました、天下分け目の『関ヶ原の戦い』……ちょっと、振り返ってみましょう。『淀君、打倒家康へ…大河ドラマ“どうする家康”…ameblo.jp家康から、茶々、淀君に宛てた手紙…(画像右は、淀君の母親、“お市の方”。実は…いえ、みんな知ってのとおり北川景子さんの一人二役)「乱世を生きるは、我らの代で十分。子どもらにそれを受け継がせてはなりませぬ。私とあなたですべてを終わらせましょう」「私の
※この記事は、平成29年5月4日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は平成28年の大人気大河ドラマ『真田丸(さなだまる)』の第42回「味方」についての感想。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。あらすじは、大坂(おおさか)城に入城し、茶々(ちゃちゃ)〔淀殿(よどどの)〕(竹内結子)や豊臣秀頼(中川大志)と再会し、秀頼から総大将(そうだいしょう)になるように頼まれた真田幸村(堺雅人)ですが、それに後藤又兵衛(哀川翔)が反発。結局10万人の牢人(ろうにん)衆を2万ず
ご訪問下さいましてありがとうございます🌸🌸🌸いつもぼちぼちの投稿ですがお読み下さってありがとうございます✨✨✨前回もたくさんの方にお読みいただいてありがとうございました↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓『☆今年の桜便り☆桜咲き始めました♡』ご訪問下さいましてありがとうございます🌸🌸🌸いつもぼちぼちの投稿ですがお読み下さってありがとうございます✨✨✨前回もたくさんの方にお読みいただいてありがとうご…ameblo.jp本日も桜についてお伝えします🌸🌸🌸今回は前回と全く同じ場所の夜桜を見てき
「姫路城」(兵庫県姫路市)といえば天守群とその周囲を取り巻く櫓群をイメージしますが、もう一つの見所が「西の丸」にある「化粧櫓」とそれに続く多聞櫓の連続「百間廊下」ですよね。「西の丸」の北側(「大天守」より見下ろす)「西の丸」の南側(「大天守」より見下ろす)「化粧櫓」は、もう誰でも知っている「千姫」が住んでいた櫓。「千姫」は、祖父の「徳川家康」が仕掛けた「大坂夏の陣」で最初の夫「豊臣秀頼」とは死に別れ、父親の「徳川秀忠」のもとに「坂崎直盛」によって助け出されて無事送り届けられま
お立ち寄りいただき有難うございます少し(?)前になりますが兵庫県に行った際に西宮神社でお詣りして来ました「商売繁盛で笹持ってこい」でお馴染みこちらは商売の神様である恵比寿さま(えべっさん)の総本社です1604年に豊臣秀頼公が寄進したと言われる表大門(重要文化財)また、新年の十日恵比寿に足の速さを競い一番速くご本殿にたどり着いた人を福男として祝う『開門神事』でも有名です一斉にご本殿まで駆け抜けます開門と同時にこの曲がりくねった参道を全速力で
豊国廟の中にひっそりと五輪塔が建っています。豊臣秀吉の墓所へとつながる長い石段の入口の左側奥に本当にひっそりと。気づく人がほとんどいないためか、参拝する人は少ないようです右側の大きな五輪塔は松の丸殿こと京極竜子。その左側に建つ小さな五輪塔は豊臣国松のものです。松の丸殿は京極高吉の娘として産まれ、秀吉の側室となります。もともと京極家は近江源氏の流れを汲む佐々木氏を祖とする家系です。鎌倉時代末期には北条得宗家の御相伴衆として仕えた佐々木道誉(京極高氏)が
こんにちはナカジーです。しかしそれにしてもよく降りますねー。しばらくずっと雨の予報ですが、くれぐれも災害などに見舞われないよう、気をつけてくださいね。昨日昔の人の身長についてお話ししましたが、興味があって”じゃああの人の身長は何センチだった”と思い調べてみました。中学や高校の時の歴史の授業は覚えるのにひと苦労しましたが、こうやって興味があることを自発的に調べると面白いように頭に入ってきますねー。(仕事もまったく同じですけどね。。。)昨日のブログで江戸時代の男性の身長は平均155
70年代以降、江戸開幕後も豊臣家は一大名になったわけではないことが通説になりつつあります。最近では、豊臣家の研究を深化させ、豊臣家と諸大名と交流に存在についても明らかにした笠谷和比古氏や福田千鶴氏の研究があります。当該期の政治史はそのような成果を踏まえ見直す作業が進められております。私も2020年5月30日の当ブログで、山内家を事例に豊臣家との交流について触れました。ここでは、もう少し、別な大名に目を向けて事例を紹介します。今回は、その対象を阿波蜂須賀家とします。蜂須賀家の記録「阿波年表秘録
※この記事は、平成29年9月21日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は惰性で続いていた平成28年の大人気NHK大河『真田丸(さなだまる)』の感想ですが、ついに最終回です!だらだらとやっているうちにいつの間にか9月となり、今年の大河ドラマ『おんな城主直虎』も後半に入ってしまいました笑※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。『真田丸』についての他の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:『真田丸』第49回―伊達政宗の天下取り関連記事:『真田丸』第