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2026年五月某日、乃木坂工事中の楽屋にてアルノ「ねぇ和、今年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」に豊臣秀吉の側室で豊臣秀頼の母の茶々を演じるけどもうクランクインはしたの?」和「うん!賤ヶ岳の戦いでお母さんのお市と別れるシーンからクランクインしたよ!」※今回の小説は2026年2月5日に執筆したので和が茶々役としてクランクインした場面は作者の想像とは恐らく異なると思います。瑛紗「宮崎あおいさんと実際に会ってみてどうだったの?テレビで見るより綺麗だった!?」和「もちろん綺麗だった
「まぐだら屋のマリア」は、原田マハさんの同名小説を実写ドラマ化。“命のかけがえなさ”を見つめるヒューマンストーリーで、原作にある、罪を負った者たちの「業と贖罪と再生」をベースに“命の重さ”を描く。尾野真千子さん藤原季節さんW主演りあ(マリア)の家は母親が男を連れ込みその男がりあに手を出すという最悪の環境学校(高校)でもいじめられ不登校になったりあに担任の与羽(よはね)は親身になってくれる初めは塩対応だったりあも心を開いていくりあの作ったお弁当を公園で食べる与羽2人は幸せそ
皆様、ご機嫌YOです!低い身分から成りあがった豊臣秀吉が天下人となって出来た豊臣家。しかし皆様ご存じの通り、秀吉の死後もろくも豊臣政権はあっという間に天下人の座を徳川家康に取って代わられた挙句に大阪の陣をもって秀吉の血統は断絶します。今回は豊臣家をあっさりと滅亡させるに至らせたのは一体誰であったのか、そこら辺を検証する動画を紹介します。身も蓋も無いですが豊臣家滅亡第一の主犯は秀吉自身です。秀吉が一代で作り上げた豊臣家は彼の死をもって天下人の座を失うのですが、秀次事件や唐入り、文治
さて、また、この本から。豊臣秀吉の子供たちについて。秀吉と豊臣一族研究の最前線Amazon(アマゾン)その前に、秀吉の妻たちの呼称についての話があったので、そちらを。普通、秀吉の妻と言えば、正妻である「ねね」と、側室の「淀君」、その他の側室の女性たち、と、言われますが、現在、この考えは、間違いだと言われているようです。当時の史料からは、「正妻」「側室」と言った表現は、確認出来ず、全てが、秀吉の「妻」ということで、つまり、当時は、「一夫多妻制」だったというのが、今の
大坂城(豊臣期)と端午の節句(菖蒲の節句とも呼ばれ、邪気を払う薬草であるショウブ(サトイモ科)の強い香りで無病息災を願う日)は、毎年5月5日には全国各地の大名から秀頼に祝儀が届けられ、秀頼への忠誠を誓う場となっていました。また、菖蒲が「勝負」に通じることから、男児の成長と武運長久を願う尚武の気質を養う場でもありました。また、大坂夏の陣という悲劇を迎える時期(5月7日に大坂城落城)でもありました。徳川幕府(江戸時代)における端午の節句は、5月5日を重要な式日と定めた幕府の制度に伴い、それまで
5月4日、何年かぶりで神社に御朱印もらいました。御朱印を貰うのを、やめた訳ではないのですが、色んな事情が重なって、なかなか、行くことが出来ませんでした。今回お参りしたのは大阪市内JR環状線玉造駅近くの「玉造稲荷神社」社伝によれば、垂仁天皇18年(紀元前12年)天皇によって創建された神社です。日本書紀に記された玉のふるさととも言われています。この神社の周辺は古墳時代勾玉(まがたま)を作る「玉作部」が居住していた地であり、古代の技術と信仰の中心
江戸幕府が再建した大阪城の詰の丸(本丸の奥)付近に存在したとされる、誰も使ってはいけない暗い部屋が「暗闇の間(くらやみのま)」です。豊臣家の怨念が宿るとされ、入ると戻れないなどの伝承があります。また、「暗闇の間」の隣には「明半の間(あけかけのま)」と呼ばれる部屋もあり、襖を閉めても必ず翌朝には数センチ開いてしまうという謎の現象が記録されています。
羽柴秀吉はしばひでよし自筆書状五もし宛(出品番号23)天正10年(1582)4~6月ごろ、姫路城を拠点に備中攻めに取り組んでいた秀吉が、離れて暮らす養女豪姫の心をつなぎとめるために送った書状です。「元気にして、しっかりご飯を食べていますか?やがて必ず姫路へ呼びますから安心してください」と様子を気遣い、追伸では「ふざけすぎて粗相そそうをしないように。灸きゅうもしてくださいね」といっています。秀吉は近しい者へしきりに灸による健康維持を勧めたが、年端のいかない娘は素直に
朝の食事:奥さん手作りの野菜ハムチーズサンド玉子のセパン奥さん情報:荷出しに行くそのまま寛ぐそうなので付いては行かないりんりんの会は同い年一人と5歳下10歳下2人なので3人に見送られるることになるだろうとの事大阪観光:9時過ぎのJRの快速に乗って京橋環状線に乗り換えて大阪城公園前10時15分頃到着490円駅の凸を移してミャクミャクと大阪城とキン肉マンのマンホール撮影観光御座船を上から見たり石の刻印
大河ドラマ「豊臣兄弟」少年漫画のようなキャラ構図とドラマ的な展開がとにかく面白い登場人物をタロットの四元素で見ると…豊臣秀頼:水(カップ)豊臣秀吉:火(ワンド)織田信長:風(ソード)徳川家康:土(ペンタクル)この構図が特に際立ったドラマのエピソードが「金ケ崎」と「姉川」―金ケ崎の戦い―戦の流れを動かすのは秀吉の“火”そして最後を収めるのは秀頼の“水"―姉川の戦い―動かない“土”の家康…そこに“風”の信長が圧を家康にかけ、戦いの流れ
2026-04-03やっとコースに乗っかりました玉造稲荷神社ご挨拶しに行きます豊臣秀頼クン(豊臣秀吉と淀君の息子、お市の方の孫)奥さんは千姫。家康の孫。徳川秀忠とお江(淀君の妹)の娘。さっき、大阪城で秀頼・淀君自刃の地って碑があったけど、千姫はこの時徳川チームに助けられてるから、あの碑には名前がなかったのん。千姫は徳川に、旦那や義母の助命を頼むのだけど、結局ダメだったんだね〜まぁ、お父さんの秀忠は、結構シビアで、豊臣の息がかかってる大名や徳川チームでも大きくなってきたトコとかは、
4月16日の歴史戦国豊臣秀頼方広寺再建1614年4月16日豊臣秀頼が、焼失した京都・方広寺を再建秀吉の時代伏見地震により倒壊秀吉の跡を継ぎその後は豊臣秀頼が再建へ慶長4年(1599年)木食応其に命じて大仏(銅造)の復興を図る慶長7年(1602年)流し込んだ銅が漏れ出たため火災慶長13年(1608年)より再建が開始慶長15年(1610年)6月に地鎮慶長17年(1612年)には大仏に金箔を押すところまで完成慶長19年(1614年)には梵鐘が完成
ここ1か月、お花見優先でブログを書いていましたが今回は歴史旅です。昨年の年末に京都へ。義父のお墓参りの後、立ち寄ったのが方広寺。前々から行きたいと思っていたんです。ここには家康が豊臣家にいちゃもんをつけたあの鐘が現存しています。人との比較で大きさを実感してくださいこの鐘に刻まれているのが家康がいちゃもんをつけた文言。国家安康君臣豊楽「家康の名を首と胴に切り分け豊臣を主君とする世を楽しむ」呪詛の言葉だ~結果、大坂の陣が勃発し豊臣家滅亡へ豊
吉野水分(よしのみくまり)神社は吉野山上千本地区にある神社です。吉野山の最奥部の青根ヶ峰は、東へ流れる音無川、北へ流れる喜佐谷川、西へ流れる秋野川などの源流となる水分けの山で、その山腹に元・水分神社跡と伝わる場所があり、そこから806年頃に現在地へ遷座されました。祭神は水の分配を司る天水分大神(あめのみくまりのおおかみ)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)と少名彦神(すくなひこなのみこと)です。豊臣秀吉が1594年、吉野の花見の際に、吉野水分神社を訪れて子授けを祈願し
初めての京都桜紀行🌸🌸🌸🌸🌸。京都で桜の名所ランキング1位の醍醐寺、その桜は想像はるかに超える美しさでした。豊臣秀吉が植樹して愛でたという『醍醐の桜』です。有料観覧施設が3箇所、そのうち最も奥にあるのが伽藍エリアです。豊臣秀頼が再建した西大門(仁王門)から入っていきます。醍醐寺の本堂である金堂。最も奥にある池に面する弁天堂。そして五重塔。順光側には桜がない😅😓。桜は真逆光😖側なので五重塔は真っ黒😵💫。レタッチで補正してます。五重塔ってどこにでもあると思っていたら、京都市内
■琵琶湖に浮かぶ鳥居へ車を走らせ、ついに到着したのは――白髭神社。琵琶湖の中に立つ大鳥居で知られる、近江最古の神社です。湖岸に立つと、目の前に広がるのは静かな琵琶湖。そして、その中にぽつんと佇む鳥居。まるで水の上に浮かんでいるような、どこか現実離れした光景でした。■乱世の時代にもあった景色この地は、戦国の武将たちも行き交った近江の要所。あの時代を生きた人々も、同じようにこの琵琶湖を眺めていたのかもしれません。そう思うと、ただの絶景ではなく、歴史の中に立ってい
3月28日の歴史二条城会見慶長16年(1611年)3月28日徳川家康が駿府城から上洛し二条城の御殿(二の丸御殿)にて豊臣秀頼の会見が行われた秀頼の成長ぶりに家康は驚いたそうですこの会見は高台院などを通じて実現した会見で事実孫娘の千姫の婿であり豊臣の当主である秀頼に対して徳川の権威を見せつけたのでしょうねそして秀頼は大坂から近い京に徳川の二条城脅威になる事はこの時はまだ気づいてないのかな?敗者の日本史(13)大坂の陣と豊臣秀頼[関幸彦]楽天市場2,8
豊臣秀頼公の奇跡豊臣秀頼公は豊臣秀吉公の子どもですよね(以下敬称略させていただきます)彼の人生を考えると教訓が得られましたのでメモ📝しておこうと思います長文が面倒な方は太い字だけをお読みください🤗想像してみましょうもし私たちがそれぞれ西暦1595年に大坂の一般家庭で生まれ今が1604年だとします9歳どんな世界観でしょうか大人からみると世の中は戦国時代が終わって平和になったな〜という雰囲気に
家康が大坂冬の陣で勝利できた理由黒井ドラゴン3.22.20263月18日放送のNHK『歴史探偵』戦国スペシャル・豊臣大阪城をONEで見た。大坂の冬の陣の際、豊臣方の非常に堅固な惣構えがあったにもかかわらず、家康が勝利できたのは、家康がヨーロッパから最新鋭の大砲を導入し、使ったからだった。もし、家康がこの時に大砲を使っていなかったら、おそらく家康は、豊臣方の堅固な惣構えによって敗北していたのではないか、と思った。家康が大坂冬の陣で勝利できたのは、家康が普段から
天草・島原の乱というのは、本質的には圧政に苦しむ農民の一揆であり、宗教弾圧が主な原因ではなかった、という見方が今日では有力です。しかし、彼らは「キリシタン一揆」という看板を掲げ、これがあたかも宗教戦争であるかのような演出をした。それは何故か。「キリシタンの旗を掲げて城に籠っていれば、海の向こうから救世主がやってくる、かもしれない」と考えたから、それしかないでしょう。何の希望もなしに、田舎の農民一揆が全日本の幕府軍を相手に籠城するなんて、バカげています。彼らは天使の軍団が地上に降臨するが如く
泉秀樹の歴史を歩く家康と大坂の陣帝鑑図説豊臣秀頼が出版した書。帝王学の教科書の和刻本14歳で書いたのか!凄過ぎる…↓押してくれたら嬉しいです↓にほんブログ村
大河ドラマ『豊臣兄弟!』で浜辺美波さんが演じる秀吉の正妻・北政所(寧々)について『偉人・敗北からの教訓|BS11(イレブン)|全番組が無料放送』の内容メモ秀吉と二人三脚で成り上がるも、秀吉死後の家臣団崩壊を防げず、次の秀頼の代で滅亡するのを見届けた北政所(『偉人・敗北からの教訓|BS11(イレブン)|』より)内容と感想今回は、秀吉の正妻・北政所(おね)の人生を見ていくものです。<北政所(おね)年表>(『偉人・敗北からの教訓|BS11(イレブン)|』より)
器の素焼きの間の散歩粘土を触っているとついつい座ている時間が長くなってしまって・・・年齢のせいでしょう立ち上がると股関節が固まるのを感じます陶芸ばかりじゃなく外に出掛けないと・・・きょうは快晴、そして暖か桜の花に先駆けて一足早く木蓮の花が咲き始めています。外に出ないとな!そう思って足を伸ばした疎水沿い、さくらの蕾が大きく膨らんでます。間もなく開花を迎えそうですね?琵琶湖疎水沿いはほんと良い散歩コ-スです。春を
豊臣秀頼(秀吉の子供)が徳川家康にいちゃもんをつけられた鐘楼
徳川幕府と薩長連合の雌雄を決する戦いは「鳥羽・伏見の戦い」でこの戦いで勝利を収めた薩長連合は政権を掌握して旧幕府軍の掃討を進める、(--〆)🤬😠😈。「鳥羽・伏見の戦い」の幕府軍は1万5千、薩長連合軍は4千、薩長連合軍は4ポンド山砲や新式銃などを装備していたが、幕府軍もフランスから入手した新式銃を装備した歩兵隊もいたし戦力も勝っていた、(--〆)🤬😠😈。それがどうして負けたかというと、幕府軍は頑なに正規の手続きを踏もうとしたのに薩長は権謀術策、合法非合法勝つためには手段を選ばなかったこと、幕府軍
弓矢の稽古と称して農民を射たり、刀の試し斬りや辻斬りを繰り返し「関白千人斬り」と豪語したとされるがこれは秀吉が実子・秀頼の立場を確保するため、秀次を追い落とす目的で流した冤罪や誇張という説が濃厚であり、実際は政務もこなす名君であったとも評価されているます。切腹したことになっているが、実は、自分の潔白を示すための自決だったとも言われています。
嵯峨野清涼寺を初めて訪ねました。御廟と治定されていた時期もあったという嵯峨天皇と檀林皇后の供養塔です。今回の嵯峨野探訪のローバーの第一の目的は清涼寺内の豊臣秀頼の首塚でした。⭐︎1980年(昭和55年)に行われた大坂城三の丸跡の学術調査で、発掘現場から豊臣秀吉の三男の豊臣秀頼公のものと思われる頭蓋骨が出土しました。その後の調査でこの骨が人為的に丁寧に埋葬されていることや、介錯の跡、周囲からの出土品などから考察して秀頼公のものと断定されました。秀頼公が没
一昨日、論文校正が手元を離れ。スッキリした気持ちで次のテーマに。関心だけは広いので、あれこれあるのですが、とりあえず…・近世後期の領知宛行・豊臣秀頼・山岡道阿弥とその一族・八戸藩の文書管理1番目と2番目は来年度中にはまとめたいテーマ。史料翻刻するとこからだけですが…まあ、のんびりやっております。いまの知的好奇心を満たすとこから始めましょう。そうすれば次の課題は見えてくるから、と(´(ェ)`)
慶長五年九月十五日。徳川家康は桃配山の陣から関ヶ原を見下ろしていた。これまでの生涯で培った全ての知略と人脈が、今日この一戦に集約される。「殿、石田の軍勢が動き始めました」家臣の報告に、家康は静かに頷いた。織田信長に従い、豊臣秀吉に臣従し、ひたすら時を待った。三河以来の家臣団、調略で味方につけた諸将、金と恩賞で釣った武将たち。石田三成は義に生きる男だ。だからこそ読みやすい。小早川秀秋も毛利輝元も、既に調略は済んでいる。勝利は目前だった。油断は禁物だ。戦場では何が
我が国は、過去、中国をはじめ様々な国の人々の貢献を受けてきた。その方々について、調べてみる。老人の西洋史の自主研究です。ウィリアム・アダムスの続きアダムスの乗ったリーフデ号は1598年6月24日、ロッテルダム港を出航した。1600年4月29日(慶長5年3月16日)、豊後国臼杵の黒島に漂着した。自力では上陸