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明治座「忠臣蔵」初日忠臣蔵は子どもの頃から映画、ドラマ、歌舞伎、文楽、講談などで飽きるほど見てきた。が、明治座での上川隆也と藤原紀香が見たくてチケットを買った。北風の強い寒い日で、のぼり旗が激しくはためいていた。イチョウ並木はすっかり葉を落として地面を黄色に染めていた。幕は上がっていて正面に忠臣蔵の文字が映し出されているだけで何の舞台装置もない。これに興味をそそられた。どうやるんだ?始まって驚いた。装置は箱形の衝立のような物が4つあるだけで、バックとその箱形のものに全て背景や
「ウォーカロンの武装兵士が四十五体、それに指揮官のウォーカロンが二体です」デボラが言った。「四十七士ですね」ウグイが呟いた。「討入りってわけか・・・・・・」僕がそう言うと、ウグイが僅かに微笑んだ。天空の矢はどこへ?/森博嗣閑話休題久しぶりに週末と重なるこの年を、この日を待っていた、、国治つて、よき武士の忠も武勇も隠るるに、たとへば星の昼見えず、夜は乱れて顕はるる仮名手本忠臣蔵/1703年1月31日旧暦でいえば、元禄十五年十二月
忠臣蔵四十七士~彦根牛を喰らう1702年(元禄15年)12月14日(旧暦)、赤穂浪士四十七士が江戸・本所松坂町の吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちを成し遂げました。四十七士は吉良邸から引き揚げて、吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供え、そして、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹しました。元禄15年12月14日(1703年1月30日)は、赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入った日だ。元禄年間といえば、生類憐れみの令を出したことで知られる徳川綱吉が将軍だった時代。と
▼写真AC:kimtoruさん提供のフリー素材「赤穂城の石垣と水堀」1702年12月14日赤穂事件謎①なぜ斬りつけた?刃傷事件の謎1701年江戸城で浅野内匠頭が吉良上野介に向かって刀を振り回し斬りつけた事件。『忠臣蔵』では吉良のいじめが動機として描かれていました。兵庫県赤穂市にある赤穂城跡赤穂藩の藩主・浅野内匠頭長矩が武闘派だったことが分かります。浅野家が城に仕掛けたねらい石垣が一直線ではなく、わざと角を設けています攻めてくる敵に対して、横からも射かけることが出来ます