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予定時刻を大幅にこえて、銀色の小さなトレーを持って主治医は戻ってきた。『お待たせしました‥。予想をはるかに超えた状況でした。』『摘出した腫瘍などは、ご家族にきちんと見せます。こちらが卵巣です。』と主治医が言った。銀色のトレーの上には、私の掌ぐらいの大きさの卵巣‥だったものがあった。卵巣は破裂していて、直接的な死因は、ここからの出血だったらしい。破裂した卵巣の中にはBB弾のような黒い塊がいくつもあった。『この、黒いのが、癌です。』主治医はそう言った。‥こんなも
今日は、母とLINEのテレビ電話をしました。【おはよう】おはよう【調子はどう?】痛いよ。あと、目の焦点が合わないよね。【本当だね‥。】しばらくは、我が家の娘達と喋ったり、あやしたりしていましたが、【画面見るの、しんどくなってきた。】【少し寝るわ‥ばいばい】毎日ウザいくらいに電話してた。電話に飽きたらテレビ電話をしてくる。それにも飽きたら会いに来る。ベランダから見える黒のプリウス。【あ!ばぁば遊びに来たよ!】と娘。【ゆづ〜】と母。そんな日はもう来ない。電話すら、
9月18日夜中。パパからのLINEは続く。0時42分睡眠薬を点滴で流している。【少しでも眠れるといいけど‥。】0時45分俺はともみに嫌われたかもしれない。大事な決断の時に戸惑った。約束したのに‥。【そんな訳ない!それに戸惑うに決まってるよ】0時51分あの後、ともみは頷くだけで、一度も目を開けてくれない。【オキファストでフワフワしてると思うから‥】1時7分また痛みだした。オキファストフラッシュして、ミタゾラムを0.2づつ始めた。なんとか今日は帰れるようにする。【や
更新がゆっくりでごめんなさい。母の最期の数日間の事を書くのは、やはり、中々キツイです。今週土曜に、49日の法要があります。その時に、母の事を想って書きたいと思います。残された私たち。。毎日育児に奮闘しながら、生きている。大好きなともちゃんが居なくなってからも、当たり前に朝が来て。季節が変わった事を感じながら起きて、バタバタと朝ごはんの支度をして、娘1を幼稚園バスに送り出して、洗濯や掃除をして晩御飯の支度をして、娘2のお世話をしていると、あっという間に、娘1が幼稚園から
47歳、女性。2017年12月、近医受診後、胆嚢癌の診断。2018年1月、腹膜播種の確認。その後徐々に状態悪化、卵巣出血など併発。9月18日、当院入院後、同日夜死亡された。部検時、腹腔内はほぼ腫瘍で占拠されているような状態。腹水はなし。胸部は肉眼的には著変ないものの、横隔膜の左胸腔側には腫瘍の播種像を認めた。脾臓および腎臓は、用手剥離可、肝臓、膵臓、十二指腸は一塊となっており剥離は不能であった。骨盤腔も腫瘍に占拠されており、既存の卵巣組織の確認は不能、子宮はかろうじて子宮口が確
いざ手術。といっても、当然のことながら手術のことは全然覚えていない。全身麻酔は初めての経験だか、正直恐ろしいと術後思った。なぜなら、麻酔を投与した後、自分の意識がフェイドアウト的に消えていくかと思っていたのですが、バッサリ?ど~ん?という感じで自分の意識が途切れていたからです。このまま目が覚めなかったらと、術後そんな思いがよぎったとき正直、麻酔の恐ろしく感じたのです。手術後、目が覚め、しばらくすると痛みが襲ってきました。身体に
皆さま、説得力のあるコメントや、励ましのお言葉やメッセージ、本当にありがとうございます。おっしゃる通り。家族の望みよりも、やっぱり最後は本人の気持ち。ツライのは母本人で。その母がまだ治療を望むのなら。それは尊重してあげる。それ以外の選択、私には無いです。だから、昨日の迷いや不安はなくなりました。祖母の望み、パパの望み。それぞれ思う事はあるかもしれないけど。ここまできて、私は、母が決めた事がしたい。母が決めた事が、私の決めた事。今日は朝から、採血をして、炎症の数値はある
皆様、約1年の間、私の不定期更新ブログを読んで下さいましてありがとうございました(後で画像を色々添付するので、先にばぁば〈デブ期〉とゆづの花火写真)初めは手探りの中情報探しの為に始めたブログでした。そしていつからか母も読者になっていて‥きちんと完結してほしいと言われました。【同じように苦しんでる人が居るのかもしれないんだから、あんた更新ちゃんとしなさいよ。】そう母に言われました。本当は完結なんてしたくなかった。だって、完結は終わりを意味する。ずっとずっと、記録を残したかっ
先日、草津総合病院へ行った日から入院になっています。今現在の状態としては、腸閉塞で絶飲食だったのは、とりあえず流動食→おかゆ→おかず→と回復傾向です。肝心の粘液性の腹水からは、ガン細胞は検出されませんでした…って事は、粘液性胆嚢癌ではないのか…一体何なのか…。先週の金曜(8月3日)から、抗がん剤が始まりました。ジェムザール+シスプラチンです。少しでも母の状態が良くなりますように。土曜に、母の親友とお見舞いに行ってきますきっと喜ぶだろうなぁ。ドレスアップした我が子たち!少しグ
先程、草津から名古屋の自宅へ帰宅しました。朝からバタバタと用意を済ませ、必要な物の買い出しをして、母の待つ病院にお昼過ぎ着。マッサージをしてあげるために、ニベアのムース乳液を買ってきたので、ハンドマッサージ。血流をよくするマッサージをしても、全然温まらない母の手。少し前までは、【腕、太っ!(笑)】と笑っていた母の手。いつしか母の手は、私の腕よりも細くなり。指も細く折れそうな程に。あんなに暖かかった母の手。私の手で温めても温めても冷たい母の手。‥どうしてこんな事になってしまったの
9月17日朝から病院へ行った。明らかに調子が悪そうだった。眠る‥痛がる‥眠る‥痛がる‥その繰り返しだった。草津総合病院での主治医の話を聞いて、家族でセデーションについて話し合った。セデーションは水曜に名古屋で行う。‥今日は月曜。明日火曜日に名古屋に戻って‥会いたい人に会って‥セデーションで眠らせてもらう‥。母の希望だった。主治医との話を終え、一人で母の側に行った。やせ細った手を握って眠るばかりの顔を見てたら涙が止まらなくなった。母の前では泣かないと決めたのに。母
19日、朝8時頃に母が居る病院へ向かった。正直、眠れたのか、眠れていないのか‥よくわからないまま朝を迎えた。病室の前には葬儀屋さんが居た。「この度は、ご愁傷様でございます。」そうか‥ともちゃんは死んだんだ‥。病室へ入って葬儀屋さんは合掌し、母の遺体をベッドからストレッチャーに乗せ白い布のようなもので全身を覆い、病室を出た。霊柩車までは、主治医も同行した。母の主治医は、本当に素晴らしい先生だった。最初はハイパーサーミアで知り合った先生。物腰は柔らかく、真面目な優しい先生
今日は母の様子を見に、草津に宿泊しています。祖母と私と娘1と娘2と、近くのホテルを取りました。昨日の台風の影響で、高速道路はトラックだらけ‥休憩を挟みながら、夕方に草津に到着。病室に着くと、母のお腹はまた大きい。そして、足になにやら包帯をたくさん巻いていました。浮腫みを少しでも楽にするようにだそうです。お腹の管からは、また鮮血のような色の液体。鼻のチューブからは、飲んだお茶がそのまま出てきていました。数十分おきのフラッシュ。オキファストの量はどんどん増えている。血液検査の数
何度も更新しようとしては、やめて‥の繰り返しで、年が明けてしまいました。母がいない初めてのお正月‥。病理解剖の結果も出てきたので今日からまた更新したいと思います。病理解剖の結果を書き終えたら、このブログは終了です。もう少しだけ、私たち家族にお付き合い下さいね。〜9月16日〜朝起きて病院の近くのホテルで朝食をとる。こんな時に思うのは、母の事ばかり。旅行好きだったな‥ビュッフェ好きだったな‥ここにともちゃんが居たらな‥この先心の底から楽しめる事は無いんだと思った。私には母が必
あやだけでも、戻ってこれないか?とパパに言われた。運転して、妹達を送って、パパの車を置きに行って‥今やっと帰ってきて、、また名古屋から草津を1人で運転、、。冷静に無事辿り着ける気がしなかった。私は断った。あぁ‥また後悔が一つ増えたなぁ。また後悔するんだろうなぁ‥。【じゃあ‥薬、使うな‥】とパパ。【わかったよ‥】と私。あぁ‥名古屋、帰ってこれなかった。もう、仕方ないね‥。さっきが最期のお別れか。もう話す事も。生きたまま名古屋に戻ってきて、温もりをもう一度感じる事も
久しぶりにブログを開くと何やら仕様が色々と変わっていて、不安になりますね😅お久しぶりです。もう、更新するつもりは無かったのですが、有難い事に、心配してメッセージをくださる方、同じ境遇の方、治療や草津総合病院の質問など…たくさんの方からメッセージやコメントなどを母が亡くなった3年弱経った今でもいただいております…(本当にありがとうございます😭)私は、元気にやっています😊母が亡くなって、しばらくは落ち込んだり眠れなくなったり泣いたり…情緒不安定になって辛くなって正直死んでしまおうか。と思っ