ブログ記事54,039件
45歳の夫はなんの前触れもなく、2023年2月13日ごろから急に食べなくなり、話さなくなり、2月28日に救急搬送されました。ここまでの経緯救急搬送、緊急手術までのお話は→こちら病名判明、手術後1ヶ月までのお話は→こちら手術後2ヶ月、せん妄が始まる頃のお話は→こちら手術後3〜5ヶ月、在宅介護を決断するまでのお話は→こちら病名発覚。平均余命は14ヶ月手術後、家族の写真を見てもわからない夫歯ぎしりと独り言が止まらない。悲しい日々もうやるしかない。在宅介護の準備202
●4月23日、愛する奥さんの8回目の月命日を迎えました。この日は平日でしたが、仕事が早く終われたので、学童保育経由で納骨堂へ。冬の寒さは心寂しさを助長しますが、暖かい季節を迎え、ほんの少しだけ気持ちも穏やかです。●3月の月命日からすっかりブログの書き込みが空いてしまいました。その間にあった主なことを書き留めておきます。最近、毎月このフリですね。苦笑●お義母さん(奥さんのお母さん)は5年前に亡くなられているのですが、コロナ禍もあって納骨が出来ず、遺骨はお寺でずっと保管してもらっていまし
今日は午前中手術の説明があった今日まで散々色んなこと調べてたくさんのブログ記事も読んでいたので先生が話すことは自分が何度も見た内容とあまり変わらなかった。夫の腫瘍は6センチで左前頭葉にある言語や認知力の低下、性格が変わったりする介護が必要になる可能性もあるそうならないようできる限り最善をつくすつもりだけどどうなるかはわからない今後の放射線治療の過程で悪くなる可能性もあるし術後リハビリで今くらいの状態に戻れるかもわからないみたいな感じだったかな左前にあるのは紹介
特別な日になった5月5日それは7年前からです。主人の先輩であり親友の奥さんが亡くなられた日。7年前の…5月5日に・・・・天国へ。主人の闘病中に,遠くから新幹線で何時間もかけて我が家に来てくれた先輩。高校生から知っていて、大学生でもず~と支えてくれた主人の先輩の一人。私のことも「〇子ちゃん」と呼んでくれて、一緒に遊んだり、私の大学のレポートまで書いてくれた人です。(と…言うより書かせたと言った方がいいでしょう)(★
夫が食べず、話さなくなってから、17日目。手術前日までのお話は→こちらのカテゴリ2023年3月1日明け方5時10分に電話がなる。(4時50分にも一度電話があったみたいだが気づかなかった)病院からだった。「容態が急変しました。今すぐ病院へ来られますか?」と。まず夫の両親に電話をして、子どもたちを起こして急いで病院に向かった。昨日の医師からの話では、今日明日でどうこうなることはないけど予断は許さない、というお話だった。まだ、逝かない
45歳の夫はなんの前触れもなく、2023年2月13日ごろから急に食べなくなり、話さなくなり、2月28日に救急搬送されました。ここまでの経緯救急搬送、緊急手術までのお話は→こちら病名判明、手術後1ヶ月までのお話は→こちら手術後2ヶ月、せん妄が始まる頃のお話は→こちら手術後3〜5ヶ月、在宅介護を決断するまでのお話は→こちら病名判明。平均余命は14ヶ月>歯ぎしりと独り言が止まらない。悲しい日々>要介護5の夫の在宅介護、嵐の1日目>夫だけに見えている、3人目のこど
さっきのブログの内容とはべつなんだけどね。皆さん覚えてるかしら理学療法士のお客さんのY君。イイ人の塊みたいな人。優しさの塊みたいな人。Y君にはじめて会ったのがちょうどコロナ禍になった年かなぁ。それから、ずっと、来てくれてたから、2.3年の付き合いだと思うんだけど。しかもね、医療機関に勤務の彼は絶対にマスクを二枚以上重ねて、シャワーでも汗だくになりながら遊んでくれました。一回約三万円少なくても月に一回、多い時は週に一回は来てたときがあったの。私の前に使ってた女の子から結婚
おはようございます、ちょろママです。主治医から連絡があった4/15の午後。義弟が例のプロジェクターを設置しに来てくれると言ってたので、できれば電話で繋いでほしい詳細の説明は夫ではなく私にしてほしいということをお願いしていたけどまぁ電話はならなかったよねwwそして、色々考えてくれたのはありがたいんだけど、(一応、前に言ってたルーター設置はしなくていいように考えてくれた)『【4/12】医師から義実家へ』おはようございます、ちょろママです。今日はモヤモヤを吐き出させて
2019年8月26日、84歳の母に悪性脳腫瘍(膠芽腫)がみつかり、治療しても翌年夏までもつかどうか、このままなら余命3ヶ月程と告げられましたが、超高齢の母にとってあらゆることを考え悩んだ結果、母には余命を告げず、積極的な治療をしない自宅療養(緩和ケア)を選びました。〔前編〕発覚から入院中の話です。『膠芽腫発覚から旅立ちまで(前編)』2年前の今日(2019年8月26日)、母に脳腫瘍がみつかり、「おそらく悪性脳腫瘍(膠芽腫)で余命は3ヶ月程」と言われた日。衝撃すぎたあの日から2年が経ち、当時
こんばんは、ちょろママです。2024/3/14、ホワイトデーのこの日、特にバレンタインデーでなにかあげた訳でもなんでもないんですけど、(そもそも、その頃は夫元気だった)サプライズプレゼントがありました。主治医からのICです(笑)約束とかね、してたわけじゃないの。たまたまね、たまたま、主治医がナースステーションに居たのよ。居たらさ、声かけるじゃん?そこにいたら昨日の事聞きたいじゃん?『あっ!今奥さんお一人ですか?時間あります?少し話しましょうか』そう言われてナー
主治医からの電話の時『主治医から電話』午前中に主治医から電話夫手術前から熱があって術後もずーっと熱が続いてるんだけど原因がはっきりしないからそれは様子見とのこと。感染症じゃないといいけど、、最短で…ameblo.jp「一時退院の時は熱ありました?」って先生から聞かれたんで熱っぽかったのであると思いますーって言ったんだけどさそれを知った旦那にキレられました「おまえ余計なこと言うな💢」「まじでさぁ、空気読めよ💢」ってガチギレですよ私のせいでなかなか退院できない仕事にならないと八
夫が食べず、話さなくなってから、20〜26日目。手術前日までのお話は→こちらのカテゴリ2023年3月5日手術から4日後待ちに待ったオンライン面会。目を開けている!!!手を動かしている。こちらの声掛けに反応しているように見える。けど、、、タブレット越しの私たちのことは認識しているのかどうかわからない大きな声で一方的に話しかけた。会話はできない。目はうつろ。無表情。全く別人の夫がいる。そんな夫を見て、子どもたちは黙っている右手は動いているが、左
父は母と離婚後に実家に戻ったのですが、私からしたらおじいちゃん家な訳で住んでた家ではありません。中々の田舎なのでエアコンもなく、とてもじゃないけど住めない。私は母との暮らしを選びました。そんな田舎だから、葬式ともなると大変その土地の仕来たりみたいのがあって、密葬で済ませたかった私と兄の意見など通るはずなどなくお通夜はお寺、その後家にぞろぞろ人が来て(ほぼ近所のお年寄り)お茶を出すんだけど家に入りきれない人達でてんやわんや。そもそも実家にいなかったから私も兄も誰が誰かわからなくて。ま
母がガラケーからスマホに機種変更する事にした。80歳にしてやっとスマホへの挑戦。新しいことにも挑戦して脳の活性化してほしいなとも思う。母の使っている携帯の番号は以前夫が使っていた番号で夫がスマホにした時に母に譲ったもの。なので母の契約は夫名義のまま。ガラケーから機種変更すると共に母の名義に変更することにした。機種変更と名義変更は夫と母が居ないといけないので3人で携帯ショップに行った。行って直ぐにタブレットを渡されてアンケート。名前住所家族の人数……こういうのが苦し
夫が食べず、話さなくなってから、11〜14日目。2023年2月23〜26日仕事はしばらくお休みさせてもらっていた。相変わらず話さず食べずで、寝ている時間が多かったが、日中はテレビを見させたり積極的に話しかけた。食事は水分補給ゼリーを無理やり飲ませる。トイレにも自発的に行かなくなったので、こちらから促して連れて行った。トイレの中でどうしたら良いのかわからないような時もあった。45歳の夫がこんなに急激に認知症のような感じになって、私も本当に戸惑
病気の告知を受けた日堪えきれない気持ちをなんとか落ち着かせて1日過ごした。お風呂からでて、ベッドで爆睡する娘を見ていたら泣けてきた。1日我慢していたからもう止まらない。当時まだサラサラのロングヘアーだった私はドライヤーで髪を乾かしながら泣く。泣き声をドライヤーの音でかき消しながら泣く。この可愛い寝顔が見れない日がくるなんて。卒業式。入学式。受験。彼氏。成人式。結婚式。全てが当たり前に見られると思っていた。もし私が死んだら、この子のメンタルは大丈夫だろうか。色んな
夫が食べず、話さなくなってから、18日目。手術前日までのお話は→こちらのカテゴリ2023年3月2日【手術の翌日】10時半ごろ病院へ。先生からCTの画像を見せてもらう。右前頭葉にあった6センチ大の腫瘍は95%以上取れたと言われた。右脳の後頭部に脳梗塞の後がある。意識は戻っても良いレベル、と言われるが戻っていない。昨日は瞳孔が6mm開いていて絶望的な状態だったが3mmに戻ったとのこと。少しだけタブレット越しに面会ができた!!!(コロ
私退院する時先生に、抗がん剤で免疫さがるけど、お刺身食べてもいいですか?って聞いたの。お刺身ずっと食べたかったからそしたら、さらっと全然大丈夫ですよ~それよりも手洗いうがいをしっかりして風邪をひかないようにしてくださいね~って。元々、風邪など滅多にひかない健康優良児な私は熱を出したのも4年前とかで、コロナの時期も店の女の子やオーナーがコロナになって熱出してても至近距離で話してるはずの私だけ全然もらわなかったんだよねそんな私ですが、先日息子が風邪をひき咳をゴホゴホしてたんです。熱は40
おはようございます、ちょろママです。昨日は自分の母に色々と話をしました。抱えてたものを共有することで心って軽くなるんだなぁと学び、共有してくれたことに感謝してます。私も、子供にひとりで抱えさせないような親になりたいな。なんでも、話せる相手になりたい。話してもらえる存在になりたい。夫も、一緒に前を向いて『今』を精一杯生きてくれていて、こんな状況で悟り開いた?って思うくらい落ち着いていて、穏やかで。一番、誰よりも辛いはずなのに。夫は強いなぁ。わたしなんて泣いてばっかなの
色んな悪性腫瘍の中でもこれは最悪のやつって名前は覚えてたんだけど夫それだったんだけどそんなことある??膠芽腫余命だいたい19カ月。2年はないくらいと。夫は知らない。だって仕事復帰のこと考えてる私も信じられない思考がまとまらない意味わからない。
お久しぶりの日記です。しばらくメンタルが落ちて上がってこれずにいました。日記書こうとしたけど途中で閉じちゃったり…MRIを年明けか12月どちらがいいか聞かれて、自分が12月って言ったのに不安になってきちゃって。2月に予定してることがあるんだけどそれも無理かもな~とか考えはじめたりして。余計な事考えないように韓国ドラマに没頭したりスマホゲームなんてやったことないのにパズルゲームを無心でやりまくったり。悲しいかな、落ち込んでてもお腹は空くんだよねそしてMRI当日。病気の人はみんなそう
ドイツに行って、ヘインのかたくなに手術への拒否のなかでヘインはヒョヌの深い愛を知って手術することに..しかし、手術して目覚めた時初めて会った人はヒョヌではなかった。ここまで、モ・スリとウンソンの思いのままでは、辛いですね。14話を始めます。3年前せっかくの新婚旅行なのに墓地を選んだヘインを変わってると言うヒョヌ1人の老人が花を持って墓にお花を。。「奥様のお墓かな?」ヘインヒョヌには、その老人は見えなかった。「今、いたのに..」ヘイン「毎月、妻の墓に花を
夫が食べず、話さなくなってから、15日目。2023年2月27日近所のメンタルクリニックの初診が翌週末に取れましたが、そこまで待てず少し遠いところにある精神科のある病院へ連れて行くことになった。夫の両親が来てくれてなんとか着替えさせる。以前、便失禁があった時(こちらのブログ→ベッド脇に便失禁)以来、リハパンを履かせていることを、ご両親に伝えた。夫の手を引いて玄関まで連れて行く。私は自分のカバンと上着をとりに一旦部屋へ戻る。夫は玄関で私が来るま
45歳の夫はなんの前触れもなく、2023年2月13日ごろから急に食べなくなり、話さなくなり、2月28日に救急搬送されました。ここまでの経緯救急搬送、緊急手術までのお話は→こちら病名判明、手術後1ヶ月までのお話は→こちら手術後2ヶ月、せん妄が始まる頃のお話は→こちら手術後3〜5ヶ月、在宅介護を決断するまでのお話は→こちら病名発覚。平均余命は14ヶ月手術後、家族の写真を見てもわからない夫歯ぎしりと独り言が止まらない。悲しい日々要介護5の夫の在宅介護、嵐の1日目20
45歳の夫はなんの前触れもなく、2023年2月13日ごろから急に食べなくなり、話さなくなり、2月28日に救急搬送されました。ここまでの経緯救急搬送、緊急手術までのお話は→こちら病名判明、手術後1ヶ月までのお話は→こちら手術後2ヶ月、せん妄が始まる頃のお話は→こちら手術後3〜5ヶ月、在宅介護を決断するまでのお話は→こちら病名判明。平均余命は14ヶ月>歯ぎしりと独り言が止まらない。悲しい日々>要介護5の夫の在宅介護、嵐の1日目>2023年9月9〜28日
先週、心療内科を受診しました。退院後、聴覚過敏や易疲労性などの後遺症とともに気になっていたのが動悸や情緒。入院中、心電図等問題はなく、動悸が起きるのも不安な時、ストレス、急な音だったり、というきっかけがあるもので、精神的なものだとは思っていたものの、時間と共におさまるのでは?と思いそのままにして一年半。前回の定期検診の際、C先生とも話して、薬に頼るのもありかな?となり、心療内科に行ってみることに。紹介状と画像を郵送してもらい、いざ、真面目に心療内科を探すことに。田舎ですが