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昨日は自宅に私一人だけという状況になり、それならと滋賀県の竹生島まで突然思い立ち行かせていただくことになりました。下道で行ったため、道中いろんな景色があり、道の駅にも寄りながら、販売されている商品を見ながら、発見があり、勉強になりました。竹生島の宝厳寺は、奈良時代に聖武天皇の夢に、竹生島に尊い弁才天さまがいらっしゃるとお告げがあり、行基に開山させ、今年は1300年の節目の年です。聖武天皇自ら彫られた弁才天さまは秘仏とされ、ご開帳は60年に一度で、次は2037年です。それが、今年は記念とし
(前回からの続きです)興福寺をあとにして向かった先は「東大寺」👩「鹿は何を食べて生きているの?」👨「鹿せんべいでしょ」⬅割と真面目に👩「流石にみんなには行き渡らないでしょう?ちゃんと餌をもらっているんじゃないのかなぁ?」👨「いんや、そんな事していないと思うよ。」👩「本当?草を食んでいるの?」★調べましたら、奈良公園の鹿
奈良街歩きは次に「新薬師寺」を訪ねます。ゆるやかな街並みを登ってゆくと…華厳宗のお寺「新薬師寺」に到着です。天平19年(747)聖武天皇の病気平癒を願って、光明皇后によって創建されたお寺です。「南門(表門:重文)」から入ります。木造切妻造・本瓦葺で、鎌倉時代初期に建立された四脚門です。聖武天皇は、天平15年(743)近江国信楽宮(紫香楽宮)で盧舎那大仏造立を発願され着手されました。しかし山火事と地震が頻発したため工事をやめ平城宮に戻られ
天王神社(黄瀬)近江国甲賀郡滋賀県甲賀市信楽町黄瀬204(鳥居西側すぐ横の道路沿いに空きスペース有)■祭神素盞嗚命磐座を主体として奉斎される社、御神体と考えて間違いなかろうかと思われます。当地から1.5kmほど南東にあったとされる紫香楽宮(内裏野地区)、聖武天皇行幸の際はそこから朝夕御拝していたとされます。つまりこの磐座があったからこそ、この近くに宮を営んだと言っても過言ではないかと考えます。紫香楽宮の近辺には磐座が残る史跡がいくつかありますが、当地は別格と捉えられていたのかもし
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)は天平勝宝元年(749年)、奈良時代に聖武天皇が東大寺大仏殿を造営されたとき、九州豊前国の宇佐八幡宮より東大寺の守護神として、大仏殿の近くの鏡池の東側に鎮座したことに始まる。そして、鎌倉時代の建長二年(1250年)に北条時頼によって現在地に遷座した。御祭神:応神天皇、姫大神、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇所在地:奈良市雑司町434鳥居大仏殿・鏡池の東側の鳥居二の鳥居、右は宝庫法華堂(三月堂)前の鳥居楼門
東大寺(とうだいじ)は、奈良時代の中頃に聖武天皇の発願により、大和の国分寺として創建された。本尊の大仏さまは、華厳経の教主である盧舎那仏で、天平勝宝四年(752年)に盛大な大仏開眼供養が行われた。その後、講堂・東西両塔・僧坊などの大規模な伽藍が営まれた。治承四年(1180年)に兵火により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失し、復興されたが、永禄十年(1567年)の兵火に罹り、現在の建物は江戸時代に建て直された三度目のものである。宗派:華厳宗御本尊:盧舎那仏(るしゃなぶ
大御堂観音寺(おおみどうかんのんじ)の創建年代は不詳であるが、今から1300年前に天武天皇の勅願により義淵僧正が開基され、その後、天平十六年(744年)に、聖武天皇の勅願により良弁僧正が伽藍を整備された寺であると伝えられている。そして、良弁僧正の高弟で、奈良東大寺二月堂のお水取りを始めた実忠和尚を第一世としている。法相・三論・華厳宗を兼学し、息長山普賢教法寺と称た。御本尊の国宝・十一面観世音菩薩はこの普賢教法寺の本尊で、天平時代独特の木心乾漆の技法で造られており、古記録によると天平十六年(
唐招提寺です金堂修学旅行生たちと遭遇したのですが、ガイドさんの説明が聴けるので有難い【薬師如来立像】お立ちになられている薬師如来様は珍しいそうです金堂|伽藍と名宝|唐招提寺(toshodaiji.jp)確かにそうかも、コナンくんの映画に出てきた薬師如来様も座っていた【新宝蔵】こちらは木でつくられた仏様たちが展示されているのですが鼻がないお方や、腕がないお方、頭がないお方…そして腕の木と木を繋ぎ合わせているところなどが見れます。新
聖武天皇(しょうむてんのう)の御忌法要が、天皇をお奉りする天皇殿で、令和6年5月2日(木)に行われます。この法要中に限り、日頃は非公開の天皇殿を参拝することができます(※天皇殿内には入れません)。奈良県新公会堂を出発した僧侶や稚児などによる練り行列が大仏殿に入り、法要が営まれます。これにあわせて、鏡池舞台で13時頃から舞楽が奉納され、続いて15時頃から能が奉納されます(※雨天の場合は金鐘ホール)。天皇殿を、目にする機会は少ないと思うので、この機会に訪れてみるのはどうでしょう!
(数立神社)南宮大社その他境内社美濃国不破郡岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1(南宮大社P利用)◎数立神社■祭神/猿田彦神境内の北東端に鎮座する猿田彦神を祀る社。鬼門の守護神ということでしょうか。一説には美濃国総社とも。◎金敷金床神社(かなしきかなとこじんじゃ)■祭神/豊玉姫命・蛭子神南門を出て境内社が居並ぶ参道の最初に現れる社。豊玉姫命は豊玉彦命の娘であり、彦火火出見尊の妻神。後述するように南宮大社の地では、かつて彦火火出見尊が祀られていたのではないかと考えています。
慈眼寺(じげんじ)の創建年代は不詳であるが、聖武天皇の御代に勅願により観音堂に聖観音菩薩を安置したことが始まりとされている。当初は、境内二丁四方、寺領百石余りの南都諸大寺の一つであったが、松永秀久の乱により荒廃し、永禄三年(1560年)に長順上人によって本堂が再建され、不動愛染の二尊躰とともに現在の聖観世音菩薩が安置された。本尊の聖観音菩薩は聖武天皇感得の霊仏を刻んだものと伝えられ、「やくよけ観音」として親しまれている。宗派:西山浄土宗御本尊:聖観世音菩薩
大西洋中央海嶺の熱水噴出孔:地球生命の誕生地として有力視されている。ahydrothermal-ventin2,980metersofwaterontheMid-AtlanticRidge©MARUM/WikimediaCommons力と交換様式『資本論』を引き継ぎ、生産様式から交換様式への移行を告げた『世界史の構造』から一〇年余、交換様式から生まれる「力」を軸に人類史の歩みを再考し、柄谷行人の全思想体系の核心を示す。戦争と恐慌の危機を絶えず生み出す資
今回のテーマは、【聖武天皇と大仏づくり】です個人的に、この単元、ものすごく好きです!内容が面白く、子供たちの対話も生まれやすいからですさて、この授業は、「聖武天皇の政策の評価してみよう」と投げかけますパフォーマンス的な課題なので面白いです導入資料は、なんと言っても東大寺の大仏です強調点は、もちろん、その大きさです座高約15メートル耳の長さ約2.5メートル手のひらの長さ
平安京に先立ち、奈良に都が置かれたのは7世紀後半から8世紀。その時の聖武天皇の時代には僅か在位25年〔724~749年〕の間に、平城京から恭仁宮(くにのみや)~難波宮(なにわのみや)~紫香楽宮(しがらきのみや)~平城宮と都が転々と遷された。この時期に兵乱や災害が頻発したため、聖武天皇はこれらの厄災から逃れようと遷都したとされる。これらの遷都先の中から、今回は恭仁宮跡を探訪した。□平安時代までに宮・京が置かれたところ飛鳥時代の近江大津宮に始まり平安京までに至る130年近くの間に、9ヵ所に