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その3では赤丸の所からスタートします。排水溝のある道筋を辿ります。段差があります。コンクリートの瓦礫が残っているので階段だったのかも。段差を上がった先の平坦地に横長の建物基礎が2棟残っています。まずは建物跡Aです。鉄のボルトがことごとく削られています。続いて建物跡Bです。建物基礎を後にして東に進むとまた破壊された段差があります。段差を上がると沢に架かる橋になっていました。見取図で軍橋④です。この橋、アーチ状になっているんですよね。分かるかな?
[由良要塞](由良/淡路)成山第1砲台兵庫県洲本市由良町由良出典:「現代本邦築城史」第二部第四巻由良要塞築城史(陸軍築城部)(赤は廃止/青は終戦時現役/黒は設置予定)由良地区の由良の対岸、南北(約6.4キロ/砂州は約3キロ)に延びる成ヶ島。北の成山(標高52m)と南の高崎(標高23m)はもともと陸繋島であり、江戸時代初期までこれらは砂州で淡路島と繋がり、砂州の中間付近が湾口だった。北の成山と由良を新川口、南の高崎と由良を今川口と呼ばれている。成ヶ島は中世から近
呉海軍警備隊は、呉軍港および徳山要港周辺に高角砲台や聴測照射所を配置して防空網を敷いていましたが、北の日本海や南の太平洋側にも空中・海上警戒を行う見張所を置いていました。昭和20年(1945)8月の終戦時の配置図です。配置図を見ると、電波で敵機接近を探知する電波探信儀(レーダー)を配備した探信所が多いですが、すべて大東亜戦争開戦後に増設されたもので、開戦時点では空中・海上を警戒する見張所だけでした。なお島後や富高は最初から探信所として設けられましたが、日御碕、足摺岬、都井岬は元々見
皆津崎(かいつざき)第一砲台が築城されたのは奄美大島南端の皆津崎付近でした。以下、簡単な履歴です。*************************************◆起工:大正10年(1921年)11月21日◆工事中止:大正11年(1922年)3月31日◆配備予定火砲:四五年式二十四糎榴弾砲4門◆実際の配備:備砲されず(大東亜戦時、野砲をもって陣地構築)◆砲座標高:7.5m◆任務:大島海峡東口の防御◆特記:同じ敷地内に第二砲台(配備予定火砲“十一年式七糎加農4門”
◆砲台名:高島第二砲台◆起工:大正10年(1921年)7月25日◆竣工:大正13年(1924年)1月24日◆廃止:昭和17年(1942年)2月10日(昭和20年には復活?)◆備砲:七年式三十糎長榴弾砲4門・昭和14年(1939年)11月備砲撤去・昭和20年(1945年)三八式野砲2門配備◆設置標高:74m◆参考リンク:「豊予要塞の概略」はこちら→→→高島は大分市佐賀関の関崎から約3.5㎞沖合の豊予海峡に浮かぶ島です。現在この島は無人島ですが、夏季はキャンプ
奄美大島要塞の砲台建設地は安脚場、皆津崎、実久(江仁屋離島含む)、西古見の4地区ですが、今日から西古見(にしこみ)地区の砲台遺構をレポートしていきます。奄美大島要塞の配備図で場所を確認します。西古見地区は奄美大島南西端に位置しており、大島海峡西口から侵入せんとする敵艦を撃退する目的で2つの砲台の建設が計画されました。大正10年(1921年)9月に榴弾砲配備の第一砲台、12月には加農砲配備の第二砲台が着工しましたが、翌大正11年2月に成立したワシントン軍縮条約により太平洋上の島嶼にお
◆参考リンク:「豊予要塞の概略」はこちら→→→大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)になると、本土決戦に備えて洞窟陣地を構築し、火砲を移設する作業が各地で行われました。「佐田岬穹窖砲台」もその一つで、鶴見崎第二砲台から移設された三八式十二糎榴弾砲4門を配備する穹窖砲台(洞窟砲台)が構築されました。佐田岬の地図でその場所を示します。佐田岬の先端、灯台下と御籠島に2門ずつ砲台が作られました。現在御籠島の砲台は見学できるように整備されていますが、灯台下の方は外観を見るだけとなりま
やることが無くなったので、ホームに。こうなることが分かっていれば、違う誘いがあったのであるが。。。。。ラウンドが終わるまで、朝から夕方までパン2個。なんという小食であるが、かなり良くなってきた。さて、ホームで久々に知人のメンバとラウンド。BTで。簡単に。今回はアプと、実はクロスハンドを今回試すこと。クロスハンドは急に思いつき。前夜に練習し。やっぱり、逆オーバーに比べて、助けてくれるグリップの一つであるが、クローに比べて両手の配分を持てるという
[鳴門要塞]笹山砲台・行者ヶ嶽砲台*笹山砲台門崎砲台かの東北東1.2キロの標高80メートルの地にある。起工:明治30年(1897年)7月1日竣工:明治33年(1900年)3月31日備砲:28センチ榴弾砲×3基6門(明治33年5月)→終戦まで存続→昭和20年11〜12月に爆破処理(アメリカ陸軍第98師団)→消滅:観光施設(閉鎖)と駐車場笹山砲台の今(*_*)昭和40年代に南淡町営レストハウス、昭和60年に大鳴門橋展望台及び大駐車場が建設され、遺構は完全に消
ファーマシーガーデンウラガにお邪魔しました。浦賀にこんな場所があったとは‼️東京湾口で一番狭い海域で往来する船が全て見渡せる非常に眺めの良い場所です。この日はクールクランカフェウラガの岡本社長と同行。向かって右側の奥が砲塔砲台の跡です。東京湾口の最狭隘(きょうあい)部を神奈川県側から管制し、浦賀港と久里浜湾を画す千代ヶ崎。ここに旧式戦艦の主砲台を装備する砲台が完成したのは、大正14年(1925年)5月のことでした。日本の沿岸要塞の特徴は、戦艦の砲を砲塔ご
旅順要塞とは、遼東半島先端部の旅順にあった要塞。近代において旅順軍港は清帝国、ロシア帝国、大日本帝国、中華人民共和国に利用され、その軍港を防衛するための拠点として旅順要塞は建設・運用された。清は19世紀後期に旅順に北洋艦隊の基地を置き、その防衛のために旅順の要塞化が始まった。日清戦争では日本軍の攻撃を受け、1895年11月下旬に旅順口の戦いとなったが、清国軍の士気は低く短時間の戦闘で陥落した。日本海軍は旅順軍港に旅順口根拠地を置いた。日清戦争後の下関条約
5月16日の究極の散歩コースまいどの事ながら、前日に父親から「明日友ヶ島へいくぞ」と言われ、どこやそれ?何があるんや?と思いながらも特に事前に調べることもせず、朝が早いのでさっさと寝た。そして和歌山の加太から船に乗り約20分で解いた場所は・・山?森?何があるんかわからへん。海はごっついキレイやけど。父から「ここに有名な砲台跡があるねん。一回見たかってん」と告げられる。到着した野奈浦桟橋の「らぴゅカフェで」焼きそばを注文。私だけ缶ビールも注文。ここはジブリ映画「天空の城ラピ
前回までの赤城艦橋付近の左舷側高角砲を組み立て中です。塗料がないため、リノリウム床の塗装で足踏みしました。艦体の合体前後に別れていた艦体を組み付け、ようやく合体しました。105センチの大きな模型の爆誕です。整理が悪く、中の配線がごちゃごちゃになってます。一応、個別に巻いてあったのですが、艦体合体時にほどけてしまいました。リノリウム床リノリウム床を塗装してから、リノリウム抑えを真鍮線で再現しました。↓こんな感じです。えぇ。この段階では下の床は軍艦色のままです。リノリウム床なんですが、
その2では赤丸の所から北に向けて歩いて行きます。砲側庫Aは両側に出入口が設けられています。写真は左側です。壁のざらざら被覆。奄美大島要塞の砲台弾薬庫はいずれもドイツ壁仕様です。内部は通路と山側に弾薬庫が1室あります。弾薬庫への入口は2か所。弾薬庫内です。小窓が1つあります。右側から出てきました。左側は斜めっていましたがこちらは直角です。浜が目の前に見えます。砲台がいかに低い所に置かれているのかが分かるかと。では砲座を見ていきます。皆津崎第一
今回は、「ご自身の安全を守るために、お読みいただくことを、強くお勧めします。」脅迫メールが来ました。昨日と今日の2回届きました。件名が、「ご自身の安全を守るために、お読みいただくことを、強くお勧めします。」で、本部の出だしが、「こんにちは。大変~・・・・」となっていました。これは、間違いなく脅迫詐欺メールだと思いました。前にも書きましたが、私は、プロバイダーのWEBメールを使用していますので、開かない限りメールの件名と本文の一部が表示されています。なので、すぐ削除しました。それでこの件
◆起工:昭和12年(1937年)6月1日◆竣工:昭和13年(1938年)10月31日◆備砲:四五式十五糎加農砲改造固定2門◆設置標高:86m/90m◆参考リンク:「対馬要塞の概略(昭和期/第三次築城期」はこちら→→→西泊砲台は対馬要塞において最後に着工された砲台で、対馬北部東岸、現在の上対馬町冨浦に構築されました。同じく東岸に設置された竹崎砲台と北部の海栗島砲台と協力して、対馬東北海面に出現する敵艦船を撃退し航路の安全を図ることを任務としていました。対馬全域図で場所を確
今回は休石(やすみいし)砲台の再訪記を書いていきます。広島湾要塞では広島湾・呉軍港への敵艦侵入を防ぐべく4つの海峡を堡塁砲台で封鎖しました。その内の1つである音戸(隠戸)ノ瀬戸は幅が非常に狭く最狭部は90mほどしかありませんので大型艦艇の航行はできませんが、呉軍港に一番近い水路であることから、2つの堡塁砲台と海軍水雷衛所による布設水雷での防御が計画されました。高鳥堡塁から見た音戸ノ瀬戸。音戸ノ瀬戸周辺地図で砲台の位置を確認します。続いて簡単な履歴です。◆起工:明治33年
室蘭臨時要塞小橋内砲台および観測所<米軍撮影>室蘭臨時要塞は、室蘭港周辺にある工場群と港湾の防衛と津軽要塞の背面防御を目的として、1945年(昭和20)に建設工事が開始された。絵鞆半島にある小橋内砲台は敵艦を迎撃するため、96式15センチ加農砲×1門と92式10センチ加農砲×1門の計2門据え付けて防備につく予定で、同年6月に第1砲座、翌月7月に第2砲座を完成させる。<掩体を擬装するための土を取り除いたまま>室蘭市近郊には噴火湾一帯の砂鉄、虻田(現在の洞爺湖町)の鉱山
今日は“愛のトンネル”内の遺構をレポートします。第一砲台(旧第二砲台)と第二砲台(旧第三砲台)を繋ぐ軍路には全長約90mの隧道が設けられており、公園整備に伴い“愛のトンネル”と言う愛称が付けられました。隧道の中には2階構造のレンガ造りの部屋が大小12部屋も残っており、これらは弾薬の一元管理を行う弾薬元庫と旧第一砲台(旧)の物と推測されています。猿島の砲台は明治14年(1881)に着工、明治17年(1884)に竣工しましたが、おそらく同時期に構築されたのではないかと思われます。猿島
友ヶ島には近年の台風や豪雨災害により通行止めの箇所があります。島北東部の虎島に向かう道も通行止めが続いていましたが、現在は案内センターにて許可を受ければ虎島手前の「閼伽井の碑」まで通行することができるようになっています。地図に記してみました。なお島西部の海岸沿いの道は2022年10月11日現在通行禁止でしたが、復旧工事中でしたので最新の情報は自治体からのお知らせをご確認ください。さて、今回紹介するのは友ヶ島第四砲台の左翼観測所です。通行制限の道沿いに隠れていますので行ってみる