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対馬は九州の北方、玄界灘に浮かぶ島です。行政区分では、明治9年(1876年)8月に長崎県の管轄となり今に至っています。また、朝鮮半島に近いため古来より大陸との文化的・経済的交流の窓口としての役割を果たしてきましたが、その一方で、明治期になると国境の最前線として国防上重要な拠点に位置付けられるようになりました。そこで明治4年(1871年)に健軍された大日本帝国陸軍は、明治11年(1878年)に対馬分遣隊を派遣、明治19年(1886年)には分遣隊を改編して対馬警備隊として対馬の防衛にあたることに
明治期における対馬要塞では、明治20年(1887年)の温江砲台から始まり、明治39年(1906年)の多功崎砲台の竣工まで、15か所に堡塁砲台が築城されました。その後、明治38年(1905年)の日露戦争での勝利によって海岸防御の見直し気運が高まり、明治43年(1910年)から始まった要塞整理の審議の結果、大正2年(1913年)および大正6年(1917年)には以下の堡塁砲台の廃止が決まりました。「四十八谷砲台」「大平高砲台」「大平低砲台」「城山砲台」「城山附属砲台」「根緒堡塁(武隈山堡塁)」
※2023年12月5日書き直し大平高砲台は、大平低砲台ととともに布設水雷の側防を任務として浅茅湾(浅海湾)南部に構築されました。明治37-38年(1904-05)の日露戦争では斯加式十二糎速射加農4門をもって戦闘配備に就きましたが、戦勝後は海岸防御の見直し気運が高まり、明治43年(1910)から始まった要塞整理議論の結果、大正2年(1913)に砲台の廃止が決定されました。◆起工:明治31年(1898)10月20日◆竣工:明治34年(1901)10月5日◆備砲:斯加式十二糎速射加
久々の由良要塞探訪です。友ヶ島第四砲台は長らく立入禁止でしたが、昨年2022年12月より解禁となりましたのでレポートを掲載します。砲台の履歴は以下の通りです。◆起工:明治23年(1890年)11月29日◆竣工:明治25年(1892年)5月25日◆備砲:二十八糎榴弾砲6門(明治32年12月備砲完了)、十二糎加農砲2門◆砲座設置標高:75m、72m◆廃止:昭和10年(1935年)3月、要塞再整理にて廃止※由良要塞の概略はこちら→→→見取図です。地下弾薬庫から砲座間
今回は高塔山周辺の防空陣地を見ていきます。場所は下記リンクにて。『北九州の防空①~概略』本日から新しいカテゴリーを投入します(・∀・)大東亜戦争3年目となる昭和19年(1944年)に入ると、米軍機がインドを経由して中国大陸に進出してきました。中…ameblo.jp高塔山は若松区東部に位置する標高122mの山です。戦後は公園として整備されましたので訪れる人が非常に多いスポットとなっていますが、戦時中はこの周辺に防空陣地が築かれていました。推測される陣地の場所をマークして
本日は、吹田市山田にある阪大病院に車で行く用事ありましたので、用事を済ました後にそのまま帰宅するのも勿体ないないし、吹田迄来ているならもう少し足をのばして何処かお城巡りでもしようという気になりました。阪大病院から約1時間のドライブで、途中、ゴルフを始めたころには良くプレイをした河川敷ゴルフ場(牧野ゴルフ倶楽部、樟葉パブリック・ゴルフコース)の横を走り、懐かしい思いで一杯でした。今は全くプレイはしませんが、グリーン色の芝生が秋の微風に吹かれて気持ちよさそうでした。以前から行ってみたいと
(2022年7月15日に全面書き換え)今日から新しいカテゴリーとして導入する「北九州の防空」では、北九州~関門地区に展開した陸軍の防空部隊を取り上げます。ここで言う防空部隊は主に以下の4つとなります。********************************高射砲陣地…高射砲6門編成を基本とする一個高射砲中隊照空陣地…照空灯や聴音機を有する一個中隊および指揮下の一個分隊電測陣地…電波標定機(対空射撃管制レーダー)を有する一個小隊/分隊警戒機陣地…超短波警戒機(対空警戒レー
芹崎(せんざき)海面砲台と防備衛所は、佐伯市蒲江の仙崎山周辺に設置されました。なお当時は芹崎と表記されていたようですが、現在は仙崎となります。おおまかな場所は下記リンクにて。『佐伯海軍防備隊探訪①~概略』佐伯海軍防備隊は呉鎮守府指揮下の呉防備戦隊の一員として、昭和14年(1939年)に開隊されました。大分県佐伯市に本隊を置いて特設駆潜艇などの特務艇を保有すると…ameblo.jp現在この場所は「仙崎つつじ公園」として整備されていますが、3㎞ほどの狭い道路を上がって行くことになり
まずは見取図です。2番砲座南側の海軍標石がある辺りから回り込んで見に行きます。以前に探索された方々のおかげか道筋がついているので、藪を漕ぐことなく行くことができます。と言うことで到着です(・∀・)「電燈室」に繋がるトンネルが口を開けて待っています。トンネル右手、「頭部室」が置かれていた場所を見ています。壊れているし藪っているのでよく分かりませんね。右手の擁壁。たぶん「発射室」まで繋がっていたと思われます。擁壁を辿って進みたいところでしたが、この先ゲキ藪なので無理でし
今日は棲息掩蔽部から緩やかに上がって二十四糎加農砲座に向かいます。4つの砲座、2つの砲側庫、両翼に観測所が一直線に配置されています。中間点辺りに上がりましたが、まずは左側を見てみます。なかなか綺麗な塁道ですね。次に右側を見ると、、、なんじゃこりゃ(゚Д゚;)右翼側は後回しにするとしてまずは左翼側に進みます。小首堡塁に配備された重砲は、日清戦争の際に威海衛要塞で鹵獲した克式中心軸三十五口径二十四糎加農でした。1門1砲座で4門が据え付けられましたが、4つある砲座はなかなかのヤ
※2023年11月23日に書き直し大平砲台は対馬要塞で最初に起工された砲台です。(竣工は2番目)布設水雷の防御を任務として浅茅湾(浅海湾-あそうわん-)南部に構築され、明治27-28年(1894-95)の日清戦争では他の3砲台(温江、芋崎、大石浦)とともに戦闘配置に就きました。戦後には新たな対馬防御計画に基づき、大平砲台の後方高地に大平高砲台が明治34年(1901)に構築されました。おそらく高砲台建設が決まった時点で大平砲台に“低”の文字を付与して大平低砲台と区分けされたと思われま
大川山堡塁は深山第一砲台北東700m、標高152mの高地に置かれ、敵の上陸に対し深山地区の砲台や営造物の背面防御を任務としていました。深山・加太地区の地図で場所を示します。由良要塞の概略はこちら→→→大川山堡塁の履歴です。◆起工:明治29年(1896年)5月14日◆竣工:明治30年(1897年)11月30日◆備砲:9㎝加農砲2門◆設置標高:152.6m◆廃止:大正15年(1926年)/要塞整理で廃止決定→昭和7年(1932年)3月/全部除籍9㎝加農砲2門の小規模な
大日本帝国の勝利で終わった日清戦争(明治27~28年,1894-95)の結果、朝鮮半島と本土の間に位置する対馬の重要性はこれまで以上に増してきました。そこで対馬防衛の見直しが検討されることになり、明治29年(1896)に「對馬第2期防御計画」が策定されることになりました。計画の骨子は浅茅湾(あそうわん、浅海湾とも)の防御の拡張と、新たに三浦湾の防御を担う砲台の構築にありましたが、特に浅茅湾においては明治29年4月に湾内の竹敷港に海軍の要港部が設置されたこともあり、より強固な防御ラインを築
今日は舞鶴軍港東側に設けられた吉坂(きっさか)堡塁をレポートします。右端に離れて位置しているのが吉坂堡塁となります。堡塁の履歴です。◆起工:明治33年(1900年)7月20日◆竣工:明治35年(1902年)11月20日◆備砲(本堡塁):克式十二糎加農砲2門、十二糎加農砲4門、九糎臼砲6門◆備砲(付属堡塁):十二糎加農砲2門◆備砲完了時期:明治35年(1902年)7月◆設置標高:(本堡塁)240m、(付属堡塁)184m◆廃止:大正8年(1919年)要塞整理にて兵備
佐伯海軍防備隊は呉鎮守府指揮下の呉防備戦隊の一員として、昭和14年(1939年)に開隊されました。大分県佐伯市に本隊を置いて特設駆潜艇などの特務艇を保有するとともに、島嶼部には防備衛所や見張所、海面砲台を配し、豊後水道の対潜哨戒・撃退を任務としました。◆昭和17年1月1日時点の編成防備衛所(甲):鶴見崎、高茂崎防備衛所(乙):大島、由良崎、芹崎、日振島、高島、鵜来島(工事中)、保戸島(工事中)海面砲台:芹崎、鵜来島機銃砲台:野岡山(濃霞山)仮設見張所:高島、水ノ子、深島、沖ノ島
その3では右翼観測所から見ていきます。第四砲台最大の見どころ...それは観測所直下に設けられた回廊です(・∀・)真ん中のレンガ積みされた八角形の中に観測所に上がる螺旋階段があり、その周囲が回廊のようになっています。特別この空間になにかある訳ではないのに、なぜこんな造りにしたのでしょうか。回廊には2つの窓があります。そのうちの1つ。灯り置きかな?奥から高塁道の出入口を見ています。観測所への階段です。螺旋階段です。見上げるとこんな感じ。初めて見るスタイ
◆砲台名:佐田岬第二砲台◆起工:大正15年(1926年)11月1日◆竣工:昭和2年(1926年)10月31日◆備砲:七年式三十糎短榴弾砲4門→昭和9年(1934年)2月転用のため4門とも撤去◆廃止:昭和17年(1942年)2月10日◆設置標高:46m◆参考リンク:「豊予要塞の概略」はこちら→→→佐田岬第二砲台は、高島各砲台と協力して豊予海峡に侵入せんとする敵艦船を撃退することを任務として、昭和2年に築城されました。佐田岬の防御営造物の配置図です。第二砲台の見取
「芋崎電燈所」は、芋崎砲台の北、芋崎先端の標高35mピークに位置しています。浅茅湾(浅海湾)の地図です。拡大して見るとこんな感じ。芋崎砲台から歩くこと15分で電燈所に到着します。掩蔽部の内部です。この掩蔽部は操作室で、射光機(探照灯)は操作室奥の電燈井と呼ばれる空間に格納され、使用する際には手巻きリフト(エレベーター?)で照明座まで引き上げる方式となります。一段低い所に電燈井への出入口があります。電燈井の中から見上げています。この電燈井を通じて射光機を
※2023年11月29日書き直し後編では掩蔽部と両翼の観測所を見て行きます。第1砲座の後方に半地下式の掩蔽部が3つ設けられています。堡塁砲台ではお馴染みのレンガ造りの掩蔽部ですが、明治21年の対馬要塞築城第1期ではほとんど石造りでレンガは使われていませんので、これら掩蔽部と観測所は明治30年代の改築で造られた物だと推測されます。角度を変えて。掩蔽部の間の隙間は右翼観測所に上がる階段です。=================左側の掩蔽部です。3つのうち一番小さいですが
今日は大島砲台前方に配備された電燈所を見に行きます。大島砲台の記事はこちら。*****************************下関要塞探訪156~大島砲台その1(砲座/砲側庫)下関要塞探訪157~大島砲台その2(観測所/宗像大社紹介)下関要塞探訪158~大島砲台その3(規正標柱)*****************************大島電燈所は射光機(探照灯、サーチライト)による夜間時の警戒と加農砲の射撃補助を任務として、砲台の北西200mの標高11
愛勝布防空高角砲台北海道厚岸郡厚岸町愛冠竣工:1944年(昭和19年)6月以降備砲:40口径3年式8糎高角砲(8センチ高角砲)×2門砲座②:8センチ高角砲の砲座(手前)と地下弾薬庫(奥)*厚岸町が「愛とロマンの愛冠岬」とキャッチを付けた(*_*)愛とロマンの愛冠岬|観光十景|観光されるみなさまへ|北海道厚岸町厚岸の代表的な名所である愛冠(あいかっぷ)岬は、『できそうもない困難を乗り越え愛の栄冠を得る』との思いで名づけられました。原名はアイヌ語でア
【21年1月3日探索・5月21日公開】現在地はこの辺右側には柵の残骸があり、ここがメインの通路であった事を物語っていた。ところで、この柵の支柱なんだが・・・古レールだった。さほど頑丈なものではなく、9kgか12kgレールと思われた。また、分岐のような場所に出た。北東方向には道が延びている。これを200mほど進んで行けば車道に出るようだが、行かなかった。振り返ると、穴がある。その先にも何かあるのはわかったが、まずはこの穴に行ってみよう
◆堡塁名:伊張山堡塁◆起工:明治26年(1893年)5月1日◆竣工:明治27年(1894年)8月31日◆備砲:9㎝加農砲4門、機関砲4門◆設置標高:279.60m◆廃止:大正3年(1914年)・廃止予定→昭和7年(1932年)3月・全部除籍◆参考リンク:「由良要塞の概略」はこちら→→→伊張山堡塁は上陸した敵兵から由良地区に配備された砲台を守るべく、伊張山の山頂に築城されました。由良地区の堡塁砲台の配置図で場所を確認します。北方に置かれた赤松山堡塁も同様の任務を担っ
薬師山砲台は、函館山最高峰の御殿山ピーク(標高334m)から北東にやや下がった標高250m付近に位置しています。地図で場所を示します。なお矢印は射撃の首線となります。御殿山第一、第二および千畳敷砲台が湾内~津軽海峡に向けての海上射撃を行う海正面砲台だったのに対し、薬師山砲台の射撃の首線は後方にあり、函館港内および地峡に広がる函館市街地に敵が侵入した際にはこれを射撃し撃退することが任務でした。陸正面防御の要素が強いので砲台と言うよりは堡塁と呼んだ方がしっくり来ますが、実際史料には「薬師
◆起工:昭和4年(1929年)5月10日◆竣工:昭和9年(1934年)3月31日◆備砲:四十五口径四十糎加農砲2門(砲塔1基)◆設置標高:45.4m◆参考リンク:「対馬要塞の概略(昭和期/第三次築城期」はこちら→→→豊(とよ)砲台は対馬北端、現在の上対馬町鰐浦に構築されました。釜山の鎮海湾要塞と協力し、朝鮮海峡における敵艦の脅威を排除して航行の安全を図ることを任務としていました。場所はこちら。豊砲台には連装砲塔である45口径40糎加農砲1基が装備されましたが、これはワ
今日は函館山展望台(第一砲台跡)から下って御殿山第二砲台を見に行きます。1948年の空中写真で位置関係を確認します。砲台の履歴です。◆起工:明治31年(1898年)9月3日◆竣工:明治34年(1901年)2月28日◆備砲:二十八糎榴弾砲6門◆備砲完了時期:明治34年(1901年)11月◆設置標高:294.50m◆廃止:大正期に廃止対象となるも、昭和3年(1928年)に演習砲台として残置(二十八糎榴弾砲2門減で4門編成となる)函館要塞の概略はこちらをご覧ください→→→
※2023年12月1日書き直し大石浦砲台は浅茅湾(浅海湾)北部の大石浦北西ピークに構築された砲台です。対馬要塞築城第1期4砲台のうち最後に築造されました。任務は芋崎砲台と同様に湾口および湾内一帯を射撃して敵艦の侵入と碇泊を妨害することで、明治27-28年(1894-95)の日清戦争では対馬警備隊が動員され本砲台も二十八糎榴弾砲6門にて配備に就きました。日清戦後、新たな対馬防御計画で四十八谷砲台と大平高砲台が新設されることになったため大石浦砲台は不要となり、明治31年(1898)1月に廃
前回に引き続き今回も2年前の記事を書き直していきます。矢筈山堡塁は北九州門司区大里に聳える矢筈山(標高266m)の山頂部に築城されました。現在は北九州市のキャンプ場になっていますが、当時の遺構を取り入れた造りとなっていますので、破壊の多い下関要塞砲台群の中では非常に良好な状態であり見応えがあります。堡塁の簡単な履歴です。◆起工:明治28年(1895年)8月21日◆竣工:明治31年(1898年)3月31日◆備砲:9㎝加農砲4門、15cm臼砲4門、機関砲2門◆設置標高:25
その3では、砲台の観測用に設置された規正標柱を紹介します。大島砲台の記事はこちら。『下関要塞探訪156~大島砲台その1(砲座/砲側庫)-書換-』宗像の大島には10回以上渡島していますが、砲台の記事は4年前に書いて以来更新していませんので、この度全面的に書き直します。*****************…ameblo.jp『下関要塞探訪157~大島砲台その2(観測所/宗像大社紹介)』その2では、観測所の再訪記を書いた後で宗像大社を紹介します。その1の記事はこちら。『下関
※2023年11月22日書き直し温江(ぬくえ)砲台は対馬要塞で最初に竣工した砲台です。一重崎~明瀬鼻間に設ける布設水雷の前面を防御することを任務として浅茅湾(浅海湾-あそうわん-)北部に構築されました。明治27-28年(1894-95)の日清戦争では、対馬警備隊が動員され本砲台も配備に就きましたが、その間、防御すべき布設水雷の位置が一重崎~犬ノ首間に変更され、本砲台から遠方に離れることになりました。さらに日清戦後の明治29年(1896)には、竹敷に海軍の要港部が設置されたことに伴い、新