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こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。今回もブログインタビュー、早速、本題に入らせていただきます。――澤野さん、こんにちは。前回のブログは10月23日でしたからあっという間にもう17日も経ってしまいました。そして途中に衆議院選挙も入りました。澤野さんはどう振り返りますか?こんにちは。衆院選については前回のブログで指摘したように、自民党内の満州派である清和会が敗北しましたね。これはボーッと見ていたら気付かないでしょう。――どのようなところで
【白村江の戦い前夜まで】・百済滅亡(斉明紀六年(660)七月条『日本世記』引用、三国史記義慈王十六年三月条など)・百済復興斉明七年(661)四月条、鬼室福信の使者が筑紫訪問、王子豊璋の帰国を申請。七月二十四日条、斉明天皇崩御。八月条、百済救援軍として、前軍(将軍大花下阿曇比羅夫大連)・後軍(大花下阿倍引田比羅夫臣)を派遣、その後五千人の護衛兵を付けて豊璋帰還。天智元年(662)三月条、唐・新羅軍に攻撃される高句麗か
【『日本霊異記』に記載された説話】『日本霊異記』第十七「兵災に遭ひて、観音菩薩の像を信敬したてまつり、現報を得し縁」百済救援軍の一員として派遣され捕虜となった兵士の物語である。兵士は伊予国越知郡の大領の先祖越智直。百済での戦いで唐に敗れて八人の兵士がある島に捕らわれの身となる。その地でたまたま取得した観音菩薩像を大切に信敬した。八人はひそかに島の松の木を切って船を造り、観音像を安置して念じていた。ある日西風が吹いたので船に乗って脱出すると、風に乗って筑紫に到着した。この話を
新羅、百済、高句麗からの渡来人の年表とゆかりの地名を引用した。◯渡来人関係の記録を年表でみる(参考)「新編日本史図表」第一学習社4C中ごろ王仁(わに)、阿知使主(あちのおみ)ら渡来404倭軍、高句麗に敗北4C中~5Cごろ朝鮮半島の戦乱で渡来人が増加513百済より「五経博士」渡来540渡来人の戸籍を編む577百済から造仏・造寺工が渡来608新羅人が多く渡来609肥後国に80人の百済人漂着610高句麗から曇徴(どんちょう)が渡来し、紙の製法を伝え
【唐と新羅にとっては百済撲滅戦の一部】白村江戦の記述は意外なほど少ない。旧・新唐書及び三国史記には百済殲滅の戦いの一環として若干記されているのみである。唐及び新羅にとっては百済との戦いであってその中に倭国からの援軍が現れた程度のことだったようだ。戦いの模様は天智紀が最も詳しいのかもしれない。【日本書紀に記された白村江の戦い:拙訳】「(天智二年:663)秋八月十三日、新羅は、百済王が自分の部下の将軍を斬殺したことを聞いて、すぐに百済に攻め込んで州柔城を奪取することにした。百済