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【白村江で受けた倭国のダメージ】倭国は百済を救援する戦役で、壊滅的な打撃を受けたとする見解を多く耳にする。確かにかなりのダメージを受けたとは思うが、政権の基盤を危うくするほどではなかったのではないかと考えている。何故ならあくまでも海外に出て行って戦った結果であって、第二次世界大戦のように国内への侵略を許したり空襲を受けたりした戦争とは異なっているからだ。例としては適切でないことはわかっているが、ギャンブルをする時に持ち金の範囲内でやるのと借金をして掛け金を調達するケースとの違
【『日本霊異記』に記載された説話】『日本霊異記』第十七「兵災に遭ひて、観音菩薩の像を信敬したてまつり、現報を得し縁」百済救援軍の一員として派遣され捕虜となった兵士の物語である。兵士は伊予国越知郡の大領の先祖越智直。百済での戦いで唐に敗れて八人の兵士がある島に捕らわれの身となる。その地でたまたま取得した観音菩薩像を大切に信敬した。八人はひそかに島の松の木を切って船を造り、観音像を安置して念じていた。ある日西風が吹いたので船に乗って脱出すると、風に乗って筑紫に到着した。この話を
百済からの仏教伝来、その百済が新羅・唐連合軍と白村江の戦いで敗れ、朝鮮半島は新羅が統一。隋・唐の律令制度を取り入れて奈良に平城京が。(710)納豆ネバネバ平城京。中学歴史聖徳太子から大化の改新、平城京と東アジア百済からの仏教伝来、その百済が新羅・唐連合軍と白村江の戦いで敗れ、朝鮮半島は新羅が統一。隋・唐の律令制度を取り入れて奈良に平城京が。(710)納豆ネバネバ平城京。youtu.be
【唐と新羅にとっては百済撲滅戦の一部】白村江戦の記述は意外なほど少ない。旧・新唐書及び三国史記には百済殲滅の戦いの一環として若干記されているのみである。唐及び新羅にとっては百済との戦いであってその中に倭国からの援軍が現れた程度のことだったようだ。戦いの模様は天智紀が最も詳しいのかもしれない。【日本書紀に記された白村江の戦い:拙訳】「(天智二年:663)秋八月十三日、新羅は、百済王が自分の部下の将軍を斬殺したことを聞いて、すぐに百済に攻め込んで州柔城を奪取することにした。百済
本日、JR二日市駅へ向かう際、二つ前の駅が水城駅である。この駅のすぐそばに太宰府を守るための大がかりな堤防の要塞がある。それが水城である。まず、動画でその一部をお見せしよう。水城のことは、小学校の郷土史の勉強で知ってはいた。662年の白村江の戦いで負けた、日本と百済の連合軍。唐と新羅の連合軍の日本襲来に備えて、色々な防衛施設を作る必要があった。水城-Wikipediaja.m.wikipedia.org水城のWikipediaである。その考古学的調査に九州大学医学部の中山平
【白村江の戦い前夜まで】・百済滅亡(斉明紀六年(660)七月条『日本世記』引用、三国史記義慈王十六年三月条など)・百済復興斉明七年(661)四月条、鬼室福信の使者が筑紫訪問、王子豊璋の帰国を申請。七月二十四日条、斉明天皇崩御。八月条、百済救援軍として、前軍(将軍大花下阿曇比羅夫大連)・後軍(大花下阿倍引田比羅夫臣)を派遣、その後五千人の護衛兵を付けて豊璋帰還。天智元年(662)三月条、唐・新羅軍に攻撃される高句麗か
童謡といっても「犬のおまわりさん」とか「しゃぼんだま」などのいわゆるわらべ歌のことではありません。古代に童謡と書いて「わざうた」と読ませると、一種の予言歌を指したと言われますし、10年前に私はこのような記事を書いています。『妖しき童謡』先日のいろは歌から、ブロ友の真琴さんと「かごめかごめ」「とおりゃんせ」「しゃぼん玉」などの話へとシフトしました。どこか不思議な感覚を漂わせるわらべうた。かごめ…ameblo.jpところで現在20ウン歳で、看護師をやっている私の娘が、まだ未就園児だった幼い
【白村江の戦いの持つ意味】倭国にとって白村江の戦は七世紀後半の大きな転換点の一つだった。ひとつにはこの戦い以降半島内の倭国領土は完全になくなった。郭務悰ら唐の使節を受け入れざるをえなくなった。唐ないし新羅からの攻撃に対する防備を考えるようになった。白村江の敗戦によって倭国が受けたダメージがいかほどのものであったか、研究者によって解釈は大きく異なっている。【白村江の戦いの概要】天智紀元年(662)三月条に、「前將軍上毛野君稚子・間人連大蓋・中將軍巨勢神前臣譯語・三輪君根麻呂・
・・・と言っても、加山雄三さんの話ではありません。😅近年、尖閣諸島近海で支那の領海侵犯が頻発していますが、今から750年前にも我が国が侵略の危機を迎えたことは、多くの方が歴史の授業で習ったはず。所謂〝元寇〟ですが・・・当時日本で最高権力の座にあったのが北条時宗今日は、この鎌倉幕府第8代執権だった若き総大将の命日・没後740周年にあたります。1251(建長3)年、第5代執権・北条時頼と正室・葛西殿の間に生まれた時宗は早くから執権後継者として育てられ、僅
多賀城は神亀元年(724年)大宰府と共に平城京の鎮守府として創建されました。天智2年(663年)朝鮮半島での白村江の戦いで大和政権と懇意にしていた百済が新羅と唐の連合軍に敗れ、さらに新羅はその後唐を退け高句麗を滅ぼし朝鮮を統一します。白村江の戦いに参戦していた中大兄皇子(後の天智天皇)は大化の改新を経て673年に天皇に即位。人民把握のため戸籍制度も導入します。大和政権はまだ国家というより地方自治程度の政府でしたので、早急に日本全体を天皇中心の律令国家として新羅からの侵略を防ごうとしました。
【日本書紀に記された六回の遣唐使】『日本書紀』には七世紀に倭国あるいは日本国から合計六回の遣唐使が行われたことが記されている。このうち第一回遣唐使は旧・新唐書にも記されている。日中史料の記載内容は大きく異なっているが、唐からの送使高表仁などが共通しているので遣唐使が行われたこと自体は史実と考えることができる。第二回と第三回は派遣時期が重なっており、時期的には、『旧唐書』(高宗本紀)永徽五年(654)十二月、『新唐書』日本伝永徽条に記された遣唐使記事に該当するが、旧・新唐書の
3連休を利用しての韓国旅行です。今回は以前より行ってみたかった群山に行きました。ここは古代日本の歴史上も重要な事件である白村江の戦いがあったところです。この辺りで唐と新羅の連合軍が百済の残党と倭の連合軍を破った戦いです。今は平和な風景が広がっております。ソウルガーデンホテル楽天トラベル時代は下って20世紀前半にはここが日本の支配下だった年月がありました。この時代には日本の銀行も進出していました。その一つが長崎の地方銀行であった十八銀行です。十八銀行は朝
第12521回で、平安時代の女性の名前の読み方についてお話ししました。それと少し関連する話題ですが、これも、初めて、学校で、聞いた時から、違和感を抱き続けてきた読みなんですが、663年という想像もつかないほど昔にあった”白村江の戦い”大和政権が、朝鮮半島で、滅ぼされた親大和だった百済の復興を目指し、滅ぼした唐と新羅の連合軍との水軍を主体とした戦いだと、認識しているのですが、昔は、”はくすきのえ”が、常識だったのが、
「「「外圧」の日本史」本郷和人蓑原俊洋著朝日新書」歴史学者の本郷和人さんと政治学者の蓑原俊洋さんの対談です。とても興味深い内容でした。蓑原さんが、マーク・トウェインの「歴史は韻を踏む」と言う言葉を紹介しているのですが、まさに言い得て妙だと思いました。日本の歴史も同じようなことをくり返しています。つまり:1)海外の状況がわかっていない。2)海外の状況がわかり、これではいけないと言うことで海外から学ぼうとするときは、謙虚で真剣である。3)最初はいいのだが、海外からの情報
2章に入ります。流れが分かると歴史ってとても面白いですよね。法隆寺と聖徳太子この時代に、日本は独立した国として歩み始めます。第33代推古天皇を摂政(君主に代わって政務を行う)として補佐したのが聖徳太子です。聖徳太子は、隋と良好な関係を保つため、遣隋使を送ります。その時の国書に「日いづる処の天子、署を日没する処の天子に致す、恙無きや」と記し送っています。これに、隋の皇帝は激怒します。「天子」は中国の皇帝を意味する言葉で、世界で唯一の存在だからです。聖徳
皆さんこんにちは、珠下なぎです。今日も来て下さってありがとうございます!初めての方は初めまして。心療内科医でゆるく作家活動をしております、珠下なぎと申します。ちなみにチェリ家🍒です。文学・歴史・最近はサブカルチャーなど様々な面から、現代社会を論じております。(いや、最近はドラマ駄感想ブログ…いやチェリまほブログと化しているかも……)さて、今回は古代の山城・大野城のラストです。大野城の県民の森センターには、天智天皇が作った、ある近代的な装置の模型があります。それは……?h
皆さんこんにちは、珠下なぎです。今日も来て下さってありがとうございます!初めての方は初めまして。心療内科医でゆるく作家活動をしております、珠下なぎと申します。ちなみにチェリ家🍒です。文学・歴史・最近はサブカルチャーなど様々な面から、現代社会を論じております。(いや、最近はドラマ駄感想ブログ…いやチェリまほブログと化しているかも……)さて、今回は古代の山城・大野城の続きです。1300年の城にも関わらず、礎石群はしっかり残っており、当時の威容をしのばせています。また、この場所は古
NHKの歴史番組「歴史探偵」11月29日放送分では、日本軍が朝鮮半島で敗れた663年の白村江の戦いが主題となった。唐や新羅の大船が大海で倭国の小舟部隊を打ち負かしたという通説に対して、白村江(ハクスキノエからハクソンコウの読みが一般化)のような韓国西岸でみられる激しい干満差に焦点が当たった。韓国西部でみられる前方後円墳や聖王による仏教伝播に百済と日本の繋がりをみてから、時を1世紀飛ばして660年の唐と新羅による百済滅亡へ。末期の都の扶余での落花岩の悲劇に触れてから倭国での出撃体制に入る。
皆さんこんにちは、珠下なぎです。今日も来て下さってありがとうございます!初めての方は初めまして。心療内科医でゆるく作家活動をしております、珠下なぎと申します。ちなみにチェリ家🍒です。文学・歴史・最近はサブカルチャーなど様々な面から、現代社会を論じております。(いや、最近はドラマ駄感想ブログ…いやチェリまほブログと化しているかも……)さて、今回は古代の山城・大野城に行ってきました!白村江の戦い後、天智天皇が筑紫に作らせた防衛線の一つ。博多湾側から攻めて来る敵に備えて作られたと思
お馬関連のブログを見るために久しぶりにログインいつ以来だろう。しかし、その間に本も沢山読んだ。図書館にリクエストして、購入もらって先程届いたと連絡があったのが噂の『射精責任』明日以降お迎えに行く。今読んでいるのは『白村江』荒山徹『花の命は、ノーフューチャー』ブレイディみかこ
気になる要素てんこ盛りの石坐神社の続きです。主な御祭神は以下の通り。◎八大龍王宮豊玉比古命(神武天皇御祖父神)彦坐王(開化天皇第3皇子)◎正霊天王宮天智天皇(天命開別大神)大友皇子(弘文天皇)伊賀宅子媛(大友皇子御生母)豊玉彦(比古)の別名は綿津見神、海神、龍王とされている神様。古代九州で海上を支配した阿曇氏(安曇氏)の祖神です。阿曇氏ゆかりの地である福岡の志賀島には、志賀海神社があり綿津見神社の総本社として、全国に名を馳せています。
今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その6)として、近江朝編のつづきをお話しします。前回の近江朝編では、天武天皇の親や兄弟、その他関連する人々の年齢推定が主になってしまい、お話ししようと思っていた、以下の10項目のうち、ほぼ、「①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)」のみしか、お話しできませんでした。とは言え、天武天皇や、周囲の人々の年齢が解る事で、隠されていた事実が幾つも明らかになりました。今回の「近江朝編のつづき」では、そのような、解ってきた事実を中心に、お話
皆さんこんにちは、珠下なぎです。今日も来て下さってありがとうございます!初めての方は初めまして。心療内科医でゆるく作家活動をしております、珠下なぎと申します。ちなみにチェリ家🍒です。文学・歴史・最近はサブカルチャーなど様々な面から、現代社会を論じております。(いや、最近はドラマ駄感想ブログ…いやチェリまほブログと化しているかも……)たまなぎブログ、更新しました!『神眠る地をオニはゆく』、作品の舞台編の裏話から少し発展して、古代の北九州の防衛ラインについて考察します!大野城と基
皆さんこんにちは、珠下なぎです。今日も来て下さってありがとうございます!初めての方は初めまして。心療内科医でゆるく作家活動をしております、珠下なぎと申します。ちなみにチェリ家🍒です。文学・歴史・最近はサブカルチャーなど様々な面から、現代社会を論じております。(いや、最近はドラマ駄感想ブログ…いやチェリまほブログと化しているかも……)たまなぎブログ、更新しました!『神眠る地をオニはゆく』、今回は作品の舞台紹介編です。今回は水城。『遠の朝廷にオニが舞う』の冒頭部分であるとともに
皆さんこんにちは、珠下なぎです。今日も来て下さってありがとうございます!初めての方は初めまして。心療内科医でゆるく作家活動をしております、珠下なぎと申します。ちなみにチェリ家🍒です。文学・歴史・最近はサブカルチャーなど様々な面から、現代社会を論じております。(いや、最近はドラマ駄感想ブログ…いやチェリまほブログと化しているかも……)たまなぎブログ、更新しました!『神眠る地をオニはゆく』、今回は作品の舞台紹介編です。今回は基山。作品の中でも大きな役割を果たす、あのシーンですね
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の大化の改新についてヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想聖徳太子の理想を引き継ぐべく蘇我親子をはじめ政敵を葬る中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足(『まんが日本史』より、タイトル画面)大化の改新私が学生時代は蘇我親子を殺害して政治改革に取り組むのを”大化の改新”と習いました。まんが日本史も80年代放映のものなので、”大化の改新”として扱われています。今では、その蘇我親子殺害については”乙巳(いつし)の変”と
歴史5・飛鳥時代(2)【1時間500円の学習塾イマジン】歴史の飛鳥時代についての解説動画の2つ目です。大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱、天智天皇、天武天皇などについて解説しています。AIアプリStudymonsterとの連携で学習効果を発揮します。動画の最後にLINE、AIアプリ、塾HPのQRコードが出るので入塾やアプリ利用に...youtu.be【1時間500円の学習塾イマジン】歴史の飛鳥時代についての解説動画の2つ目です。大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱、天智天皇、天
閑話休題(五八)一,「神籠石山城」についての確信的「古田説」ふとしたことで,最近古田武彦氏の「古代の霧の中から」を久しぶりに取り出してみた。何時読んでみても,その論理性とほとばしる情熱に惹きつけられる。あっという間に読み終える。今回取り上げようと思わざるを得なかったのは,本章ではなく,巻末に付言のように集録されている「歴史の道――キイ・ポイント」の中の,「第二部九州王朝」である。更に,その中でも三・四に記されている「神籠石山城」の件である。氏の分析とそれに基づ
★第三十七代斉明天皇は第三十五代皇極天皇の重祚、飛鳥時代の女性天皇です。御父は敏達天皇の孫にあたる茅渟王(ちぬのおおきみ)、御母は欽明天皇の孫にあたる吉備姫王(きびのひめみこ)。また天智天皇、天武天皇は皇子です。推古天皇二年(594年)生。御名は宝皇女(たからのひめみこ)。用明天皇の孫にあたる高向王と婚した後に、舒明天皇の皇后となり、葛城皇子(中大兄皇子:天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)、大海人皇子(天武天皇)が誕生しました。在位、皇極天皇、皇極天皇元年(642年)から皇極天皇四