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郵便物ですが、まだ、来るんです。もう、実家は住んでいないし、誰もいない家。それなのに郵便物が来るんです。それが、解約したお店のものが。一度解約しているのですから、もう、電話はしないとは決めていますが。ほとんど、お手紙も来なくなっていますが、それでも住所があると通販の手紙が送られてきています。後、父の行っていた会社の会報がまだ、来ています。これも手続きをするのが大変だったにも関わらず、まだ、来ているんです。なぜ、来るのか?ちゃんと手続きをし、それも1週間のある時間にしか電話が
皆様ご機嫌いかがでしようワインと洋食Gubの井上美智代です3月2日は母の命日でした私の母も大腸がんで、20年前に57才で亡くなりました夫も57才で亡くなってしまいましたので…あちらでは同じ年齢なのかな…母が大腸がんになった26年前、当時は本人に告知はせず家族だけに「がん」を知らされましたそれも突然に…母は「盲腸の手術をしてくるから」と病院に行き、私も仕事が終わってすぐ病院に行きました盲腸の手術にしては長すぎますやっと手術が終わって先生からお話があるとの事…父は北見に単身赴
父の変化に気が付いたのですが、それからが大変。母を説得するのが大変だったんです。病院へ行こうとしても、母は、頑として父は普通通りと。この説得に半年ほどの日が経ちました。お寿司の食べ方に始まり、そのほかにもいろいろなことがおかしいことに気が付いたのですが。それで、いつも行く内科に行くときに一緒に行こうとなりました。そして、行ってみてびっくりしたのは、そこの内科の先生からは、認知症の進みを減らしていく薬が出ていたんです。でも、その時には、病院の予約をしても、その日に来てくれないと先生の方
母が入院しました。今まで父と母が二人で暮らしていて、母が父の世話をしていました。母が入院した今、父を一人で放っておけないのでわたしが実家に泊まり込んでいます。これを機会に、実家の片づけや掃除に取り込もうかなと思っています。とりあえず、トイレの臭いが気になったのでトイレ掃除しました。完璧にはほど遠い出来だけど、とりあえず臭いは緩和されたかな。ホコリが積もってるのもずっと気になってたので、一掃してやる。それからかつてわたしの部屋だった極小スペース(3畳とただでさえ狭いのにタンスと本棚で占領
今日は、昨晩のメソメソから一転して明るく過ごせました。故に、皆様からの温かいメッセージのお陰です。ありがとうございました。アメ友の皆様、感謝いたします。また嬉しい出来事がありました。まず職場の仲間が、休日にも関わらず御見舞いに来てくれました。仲間と言っても、大先輩のお2人で、C先輩とI先輩(失礼な言い方ですいません)同僚のK君が遠路はるばる来てくれました。両先輩には、メカニックとしての、基本の基を教えて頂き今の僕の礎
時間が経つとものが古くなっていくというのは、大変なことです。実家の売却を考えているのですが、古い家付きで売ることとなりそうです。今まで父母たちがいる時は、壊れるまで物を使っていました。しかし、この太陽温水器は、何十年使われてそれでその前は、叔父の家からの移動もなあり、よく壊れなかったと。そして、最後は、噴水のように吹き出し、屋根を壊しそうになりそうになりながら、外すこととなりました。もし、父が存命していたら、多分、直せとなったかもしれません。何しろもったいないの一言が多かったからです。
母が倒れ入院しました。『母の入院』重たい話ですが、今一番の関心ごとなのでブログに書こうと思います。気持ちの整理になるし、ブログは夫も見てくれているので、情報や認識の共有になると思うし。離れて暮…ameblo.jp手術は終わりましたが、ICUに入っており安心できない状態です。実家には父と母が二人で暮らしていました。母がずっと父の世話をしていました。父は認知症と言われる状態なんだと思いますが、今回も前日から具合が悪く異様な状態で倒れている母に「早く起きたら?」とのんきに声をかけたり、救急隊
夫が父と話し合ってくれたおかげで2人の仲が少し進展しました父は頑固でこんな状態になっても意固地になって何も変わらないと思っていましたでも父もおかしなところはまだたくさんありましたが変わったように思えましたまだ油断はできませんが一旦今後の見通しという事で簡単ですが念書のようなものを書いてこの話は終結(?)となりましたまあ終結って言っても母は別居でうちに来ているし父の一人暮らしは継続ですでも一度仕切りなおすことで母も気持ちがすっきりしたようですそ
私の父が亡くなった時の母の歳と、今の私の歳が同じ事に気がついた父の入院中、母は渾身的に世話をしていたな主治医が「少し家に帰って休んで来られたら…」というくらい。父と母は歳が離れていたので母はまだ40代だった亡くなった時はすごく悲しんでいて泣いてばかりだったけど今は、旅行行ったり、毎日のように友達と会ったりしていて正直、父がいた頃より生き生きしている気がする母をすごく好きで優しかったけど、頑固一徹な父だったから、解放されたのかも。娘としてはホッとする。楽しんでねって。一
父と母の一日を何気に観察してみました一番変わったのがあの父が母に怒鳴らなくなったもう~母に優しいんですこの1ヶ月で二人に何が母の薬の量が、劇的に減っていましたえっ~今までの薬は何だったの父が、M先生に母が処方された薬を飲めていなかったことをきちんと伝えてくれて減らしてもらったようですそして新たに認知症の認知症予防の貼り薬が処方されていました(ごめんなさい💦父からの話です)えっ朝、二人で背中に薬を貼りっこしているではないですか(‥)ン?何故に父も
こんばんは、なおです。ふつーに生まれた私がどうやって今まで生きてきたのか?について綴っています。。。前回はここ↓【わたしの世界観18】誰も私のことを知らない世界に辿り着いた。心底ほっとしていた私。与えられた仕事をこなし(年齢詐称してたけど)周囲とも少しは打ち解け自由だなって安堵していた頃。それは2週間という速さでやってきた。そこの職場の偉い人から事務所に来てと呼び出され不穏な空気を感じた。事務所のドアを開けると父と母がいた。一瞬で嫌な気持ちになった私は超
父と母がやっと入所しました部屋の入口には自分の部屋がわかりやすいよう防火のれんをかけることになっています同じのれんを掛けている人がいたので間違わないようひまわりを目印に🌻🌻父の部屋の入口母の部屋の入口お互いの部屋は食堂を挟んで離れているので遠くから見ても分かるようにママが工夫してくれました🌻父の部屋母の部屋何だかんだとありましたがどうか楽しく余生を過ごしてほしいものです施設へ持って行く物はママが全て準備してくれました🙇自分はお金に関することや諸々の変更手続きなど(まだ
その日の夜遅くに母からも電話がありました。本当は自転車で行こうと思っていたという話をしたら「産後なんだから無理したらだめ!!」「冷やしたりしたらだめなんだよ!」と普段あまりきつい言い方をしない母がちょっと泣きそうな声で言っていました。こんなに心配される事って今までなかったな~と思ったりして。基本私は放っておいてほしいタイプだし父も母も放任だし自分でなんでも決めて実行して事後報告するのが私。次女
父と母の兄弟で存命しているのが、父の兄と弟が存命。母の兄弟は、母の方は、男兄弟4人が存命。母の方は、女姉妹3人が亡くなりました。男兄弟が、全員存命。女の方が寿命は長いとは言う話は、聴きますが、母の兄弟は、残っているのが男兄弟のみです。父の方は、もうすぐ100歳になる父の兄と80を過ぎた弟が存命。父の方は、兄弟全員が男で8人もいたんです。その中の近くに住んでいた人たちが、お正月には、集まったんですから。そして、実家にあつまった兄弟たちの中で一番若かったのは、まだ、大学生の兄弟たち
母が亡くなり、父は、特養にいました。母が亡くなったことを伝えましたが、父は、あの亡くなった時に母の顔を見ただけでいつもと同じように特養で暮らしていました。そして、葬儀の相談。私も初めてのことで訳が分からないうちにどんどんと進んでいきました。私が中心で親類の方々に電話。これがすごく大変で父の兄弟は7人。母の兄弟も7人。この電話だけで。でもね。今は、どの兄弟たちも高齢。そんなこともあり、最後は、いとこたちと連絡を取り合うようになりました。コロナ禍ということもあり、家族葬でするということ
2年前のこの時期人生のどん底にいました。実家に帰るのも妻の実家に挨拶に行くのも嫌でした。とりあえず実家に帰りましたが、また父と母に弱音を吐いてしまいました。申し訳なく思います。妻の実家にも挨拶しに行きました。今年はやっと普通の?対応をしてもらえました。昨年は職場の人間関係で悩みました。今も悩んでいますが…。父も母もいつまでもいません。今年は何とか自分で折り合いをつけられるよう試行錯誤しながら生きていこうと思います。悩みは尽きませんが、頑張って生きようと思います。
親を捨てる覚悟ご訪問頂き、本当に有難うございますこの日記には宗教の事が出てきます。もしかしたら不快に思われる方もいるかもしれませんでもきっと私と同じ様な思いをされている方もいるかもしれないのでありのままを書いていきます。ご理解の上、読んで頂けたら有難いです※宗教に対する批判では無いです旦那の大泣き姿を私と父と母は見るのは何回目なんだろう…旦那のびっくりするくらい大きな目から大粒の涙が出ていて…鼻水も出てて…母
父は、母が元気なものと信じていました。それが、周りの人にとっては、困った種となりました。父は、いつまでも母は、元気。何をしてもいても母が寝たままというのがおかしいと感じていたかはわかりませんが、起きろとよく言っていたようです。部屋も隣同士、だから、母の所にすぐに行けてしまうんです。老衰となっていくと食べられなくなるということは、この時、よくわかりました。これまで老衰によって亡くなるという話は、よく聞いていたのですが、こういうことなのかということがよくわかりました。父にとって母が亡
母の亡くなったお話ばかりだったのですが、この時も父は、特養で隣の部屋に暮らしていました。母が老衰の状態になっても特養でずっと生活していたので前に比べたら特に気に留めていなかったようです。以前だったら、すぐにでも起こして「ご飯を食べろ!」なんて言っていたかもしれません。父もこのころには、記憶が5分も持たなかったんだと思います。若いころのことは覚えていても新しいことは覚えることができなくなっていました。でも、母とは、普通に会話し、日常を特養の中で過ごしていました。私が行ったとき、本来なら
✨私の両親の事父は板前で若い頃から転々と修行をして、その時に母と出会い結婚👨💗👩2人の子供も生まれ、最終的に今の場所で自分達の店を持ちました👨🍳父と母の頑張りで店(居酒屋)は地元に愛される店として繁盛していきました🍻私も何年かの修行を行い、地元に帰って父の手伝いをして自然な流れで2代目として今に至ります🙂現在、父と母は仲良く色んな所に旅行したりして楽しい余生を過ごしています🚗³₃が、こんな状況になって本当に心配かけてゴメン!🙏🏻父母共に私の治療が4時間以上かかるのに、毎回付き添っ
令和3年、新500円玉!これまでの500円玉と並べて撮りたかったのですが財布の中に無かったので同じ令和3年の100円玉と昨年12月31日(金)は大晦日なのに何で!というちょっと哀しいというか、腹立たしい…完全に私の言い掛かりなのですが、出来事があって正直落ち込んでいたのですが、それでも車を駐車場に入れてから近所のスーパーへ仏壇のお花が枯れていたし、弟に持たせるカイロも使い切っていて、でもスーパーが元旦だけお休みなので、大晦日に買っておかなきゃとで、支払いのみセルフのレジで精算したので
たまに家族で盛り上がる日があります(←噂によると盛り上がってるのは父と母だけ)パパが愛しのたまるに抱きつくたま「あの、身動きが取れないんですが…」もう可愛いくてスリスリ〜たま「すみませーん。やめてくれます?」しかし、たまるもノッテきましたたま「うぇーいていていてーい」一人でその顔は、たまるが可哀想なので一緒に…笑最後はパパとのキメ顔でうちの息子、素敵男子だわ♡♡♡
あれこれ、Kさんに聞いた後しばらく、近所の公園で1人になりました。なんというか、情けないの一言。自分の行いで、傷つく人がいる事を想像できない。理性が働かない。自制心が壊れている。…とりあえず、父親とか、男とか関係なく、人としてアウト。道徳の授業、一からやり直せ。→もう手遅れか。元々夫は、出会い系が好きだ。SNSも好きだ。過去にその事で何度か喧嘩もした。それこそ、浮気した事もあり、一番最初にされた時は本当に辛くて、悲しくて泣いた事もあった。でも、夫はずっとやめなかった。
離婚後の「共同親権」導入改正民法などが成立|NHK【NHK】離婚後も父と母双方が子どもの親権を持つ「共同親権」の導入を柱とした改正民法などが、参議院本会議で賛成多数で可決・成立しま…www3.nhk.or.jp
ハタラクハハ歴自己紹介はこちら実家の母手作りの、ごま豆腐ほっこり、家族いただく4月末から、急遽入院していた父本日、お迎えに行って、無事退院思ったより、元気そうで、よかった毎日タクシーで1人病院まで行き来してお見舞いに洗濯、家のこと母にも、お疲れ様↓実家の母の家事スタイル80過ぎて、どうにか元気に食べること、身の回りのこと二人で暮らしてくれていることに感謝今回、父母の日々の暮らしの様子生活リズム物の在処飲んでいる薬などなど少しだけ、理解を深めた娘これから
よくある話と思うけど父と母がケンカをすると口を効かなくなるで、風が伝書鳩に使われる。お父さんがこう言ってたよお母さんがこう言ってたよってあっちこっちに行かされてイライラした言葉の伝言を託されるほんっとに嫌だった。しだいに母からは「お母さんは家を出るから風はお父さんと暮らすんやで。」「あんたが学校から帰る頃にはお母さんはもういないからしっかりやっていきなさい。」などなど離婚や
登場人物紹介アメンバーについて昨日は、大雨に風に、さんざんな天気でした・・・そんな中、どうしても買いたい物があって、でもでも、ヤダなぁ・・・と思いつつ・・・でもでも、私が行かないと、誰が行くっと、意を決して、桃ちゃんに乗って、出かけました。(大げさですみません結構めんどくさがりなのです・笑)買ったものは・・・・・・私とじくさんの、ではありません(残念)父と母の40周年の結婚記念日でしたこういう時期なので、せめて、ケーキでも食べて元気になってもらいたい夕ご飯
送り迎え初日。朝は父によろしくお願いしますとメールを送信。出発前に家にあがっていくであろう父に出すお茶菓子とコーヒーも用意して。父の仕事時間や長女の幼稚園、次女の面会・授乳時間を調整して不備のないように。(不備があると父を怒らせてしまうかもという気持ちがあって落ち着かない)初日は色々調整をして長女と父と私の3人でコドモックルへ行きました。父はもうだいぶ穏やかになっていて長女にとっては普通の優しいおじいちゃん。
父と母がなくなりました。2人とも認知症になり、老々生活も大変でした。認知症というといろいろな大変なことがあります。でも、本人たちは、普通だと思っているということで大変なことが日常生活においていろいろなことがありました。そんなことをゆっくりと思い出しながら、書いていきたいと思っています。これから、よろしくお願いします。
こんにちは~7月スタートです!晴れ間が見えて嬉しいな~どんな31日になるかな~♪♪今月も大切に丁寧に言葉を綴っていきたいと思います。お付き合いどうぞよろしくお願いします☺☆さて初日は~久しぶりに60代の着こなしをご紹介します。テーマはホテルランチコーデです。60代に似合うロイヤルブルーが、顔映りがよくお気に入りだそうです。母の着こなしのポイント・レーヨン混で落ち感があり女性らしく上品に着られるノースリーブ&ロングカーディン・お店の人が着こなし