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こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。お陰様で第8回、弘前と八戸にて開催された澤野大樹氏青森2Days講演会は無事に幕を閉じました。今回の第8回は、前回の第7回からの続編的な内容となりました。第8回ともなると、実に奥深く、その内容を理解するには、もはや多次元的視座を備え、覚悟を決めて挑まなければ到底「風」に吹き飛ばされてしまうレベルのものでした。私個人としてはそう感じたわけですが、受講されたみなさんがとても晴れやかな笑顔で帰られてい
こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。澤野氏より更新情報です。さて、私は2013年9月7日の時点で「NYから瀬織津姫が現れる」と、DVD『女神の魂』の中で言及していました。まだ「トランプ大統領」の「トの字」も現れていない時でした。そして、2017年初頭、アメリカにトランプ大統領が出現しました。さて、そんなトランプ大統領が、6/3の自身のTwitterに、「SILENTMAJORITY!」と大文字で投稿しました。https://mobile.twitt
こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。みなさん、「鬼が仏の早変わり」という諺(ことわざ)をご存知でしょうか。鬼滅ワンフーの私といたしましては素通りできない言葉ですよ。どういう意味かと申しますと、「陰では鬼のような振舞いをする凶悪な人が、普段はシレーっと仏の皮を被って、人前では善人ぶっている」ということを表す諺だそうです。(鬼滅ラヂヲから学びました)そんなことを踏まえまして。澤野大樹(さわの・たいじゅ)氏の座右の銘のひとつに「無知の
こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。さて、世の中を見渡してみてどうですか?新型コロナウイルスによって、想定外のことばかりが起こっています。が、しかしそれは、コロナによるアラハバキであり、澤野大樹さんが2008年にすでに予見していたように、567(コロナ)とはまだ見ぬ未来仏、弥勒菩薩(ミロク=666)のことだったと学びました。新約聖書の「ヨハネの黙示録」は、遠い過去に起きた出来事を記したものではなく、これから起こる未来の、しかもこの日本のこ
澤野大樹氏ブログインタビュー「はなればなれの君へ。(前編)」からの続きです。『はなればなれの君へ。(前編)』こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。非常事態の中、沈静化するどころか、ますます勢いを増し、色んな騒ぎが露わになってきている昨今。そんな中、先…ameblo.jp※前編・中編・後編、三部作でお届けしております。――さて。澤野さん、私たちは彼らのことを一言で「弥生」って記号化して呼んでしまっていますけど、かなり深く学んで理解し会得していかないと
みなさん、こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。早速、本題に入らせていただきますが、今回は、実際の講演会を体感してもらうべく、講演会ばりのインタビュー記事を更新いたします。(前編・後編2部構成となっております)これは、澤野氏のご厚意によるもの。実際に、長年継続して受講してくださっている全国のみなさま、青森活字版原稿を購読してくださっている全国のみなさま、そしてブログ読者さまへの感謝の気持ちを込めてお届けいたします。澤野氏にも、多次元講演会
今回は、ラマナ・マハルシの弟子でパパジやプンジャジとも呼ばれるH・W・L・プーンジャと出会い「覚醒」を得たガンガジさんが世界各地で行った対話から心に響いた言葉をご紹介します。ある日の朝、今回の対話の質問者がテレビを観ていたら、スピリチュアルの時間という番組でガンガジを放映していた。だが、アニマルプラネットのほうが面白そうだとチャンネルを変えた質問者は、次の日もガンガジが映っていたと語る。その番組の中で男性が「毎日、毎日、真剣に瞑想をしているにもかかわらず、ちっとも幸せではありません」と話し
第4章目になりますここでは矢作直樹さんの世界観を脳科学者中野信子さんの分野の話から一切の精神論性を除いた世界観をみてみたいと思いますより日本人を知るために日本人の持っている気質や特性を知る重要な情報をお聴きくださいわたしたち日本人は生まれながら中野さんが話されるような気質や特性を持っているようです精神論なんてもんじゃぁなかったんですね穿った言い方をすれば生まれながらこれらの反応機能を自動的に埋め込まれた人種が多く日本人にはいると言うことになりますだか
こんにちは休養をとりたいのであるが、粛々とすべきことを進めていく日々でござる。世の中の森羅万象の勉強はどこまでも~~~~~~~~~~~~~~~~~~~みなさんはどのようにお過ごしですか。
壮齢も過ぎたと自覚して、先日ふと思ったのですが、これまで自分は、自分に関わる物事について、全て知っておくべきだという観念に囚われていました。もちろんそんな事は無理だという自覚はあったのですが、それでも、何か「知らない」事があると、本来自分はそれを知っておくべきであったのではないかという、恥ずかしさと後ろめたさを感じていました。「知らない」ことの恥ずかしさと、「知ろう」という知識欲、これらは学ぶことへのモチベーションとして非常に重要ですので、これらの感情を持つ事が決して悪いと
子曰はく、由、女に之を知るを誨へんか。之を知るを之を知るとなし、知らざるを知らずとせよ。是れ知るなり。子曰、由誨女知之乎。知之爲知之。不知爲不知。是知也。―『論語』為政第二これを単に知的な正直さを奨める教えと取ってしまっては聊か平凡で退屈なように思う。むしろこれは認識批判ではないだろうか。一般に知るということは判断するということであり、判断はひとつの反省であるあるように思われる。即ち、之を知るとは同時に自分が之を知るということを知っているということである。とすると、「之を知るを之を知