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昨日は弟の結婚式に参列するため江ノ島へ行ってきましたもしかして。。もしかして。。。私、江ノ島初上陸なのではーーーーはい。初めて江ノ島行きました。近いのにね、良いとこなのにね。ということで、湘南モノレールに乗った方が良いってみんなに言われて笑行きはしっかりモノレールを満喫し、途中で写真を撮りまくりながら行きました!まだ早い時間帯だったので人はまばら。そして江ノ島神社到着。こちらもまだそんなに混んでない。(式が終わる頃には参拝客の行列が下までできてました)弟に会うのは十数年ぶ
大鎧は日本史上最も軽い鎧大鎧は日本史上最も軽い鎧、と言い切ってしまうと大変な語弊はあるものの、平安時代の鎧についてのあれこれ(1)に記載したとおり、少なくとも奈良時代後期の光仁天皇や桓武天皇が国家的に革製の鎧兜をつくらせて以降、挂甲や短甲よりもずっと軽い鎧として大鎧が出現したことは間違いありません(『続日本紀』)。挂甲や短甲など重装歩兵が蝦夷(阿弖流為)にこてんぱんにやられて以後、蝦夷(俘囚)によって弓馬戦法とともに騎馬用の革製鎧がもたらされていきました。大鎧の実態は重装歩兵をやっつけたロ
烏帽子(えぼし)は、冠(かんむり)と同じく頭巾(ときん)という羅(うすもの)でできた薄い布の袋でできていました。羅(うすもの)とは絡み織(からみおり)をした目の粗い絹織物のことで、絹で織った網のような薄い布のことです。羅は元々は「鳥や小動物を捕獲するための網」という意味でした。4世紀前半に中国から渡来し、飛鳥時代には国産品も製作できるようになっていましたが、応仁の乱のころに技法の継承が途絶えたとされています。公家や侍(仕える下級貴族)たちの日常のかぶり物として徐々に庶民にも広まっていき、
出土した平安時代の大鎧の遺物はわずかしかない940年ころにつくられたとされる大山祇神社所蔵の『延喜の鎧』が現存する最古の大鎧であり、『延喜の鎧』の小札は全て革で、実は大鎧は軽い革鎧にすることを目的としてつくられたと平安時代の鎧についてのあれこれ(1)と平安時代の鎧についてのあれこれ(2)で記してきました。今回はその出土した平安時代の大鎧の遺物を1つ1つ紹介していきたいと思います。国宝および重文(重要文化財)などはざっとあげて20点に満たない数しかありません。リストから漏れているようでし
烏帽子のルーツは古代中国の頭巾烏帽子(えぼし)は、冠(かんむり)と同じく頭巾(ときん)という羅(うすもの)でできた薄い布の袋でできていました。羅(うすもの)とは絡み織(からみおり)をした目の粗い絹織物のことで、絹で織った網のような薄い布のことです。羅は元々は「鳥や小動物を捕獲するための網」という意味でした。4世紀前半に中国から渡来し、飛鳥時代には国産品も製作できるようになっていましたが、応仁の乱のころに技法の継承が途絶えたとされています。※古代中国では、冠や烏帽子(烏帽子の起源とされる
もう10年近く、直垂を普段着のようによく着てきて、ずっと疑問に思っていたことがある。古くから狩衣と同じように庶民の服、つまり活動着として用いられてきた直垂。にも関わらず、とにかく動きにくい。どうもおかしい。・狩りをする上で矢を射る・騎射するために乗馬する・戦うために鎧を着用する・農作を行うなど、普段着として着用されてきたはずだが、どうも動きにくいので調べてみた。結論からいうと、巷で販売されている直垂(鎧直垂)の類は、鎌倉時代後期以降の礼服化した後の直垂であって、決して活動
鎧の変遷について平安時代の鎧についてのあれこれ(1)鎧の小札について平安時代の鎧についてのあれこれ(2)平安初期の鎧について平安時代の鎧についてのあれこれ(3)平安中期の鎧について平安時代の鎧についてのあれこれ(4)※非常にマニアックなのでよほどの鎧好き向けかもしれません。平安時代後期の鎧について小桜韋縅鎧(菅田天神社所蔵)は、新羅三郎義光(1045~1127年)より伝来の武田氏の家宝で、「楯無の鎧」と号されます。武田晴信(1521~1573年)が鬼門鎮
鶴岡八幡宮の初詣の後は、七里ガ浜へ行きました。鎌倉高校前駅から湘南江の島駅まで散策しました。鎌倉駅から江ノ電で鎌倉高校前駅まで移動しました。途中から海が見るようになります。江の島も見えます。富士山も見えたのですが、一瞬だったので写真は撮りそびれました。鎌倉高校前駅です。踏切を渡ると、道路があり、目の前に海が広がります。駅前から富士山が見えました。山に隠れてちらりとしか見えませんが、この後、江の島まで行くとバッチリ見えます。階段があり、砂浜まで下
兜は矧板を星という鋲で留めてつくられています(古くは革綴)。平安期の兜の矧数は1枚張を除いてだいたい10枚張です。鎌倉後期にかけては矧数が増えていきます。また頂辺孔はしだいに小さくなり、厳星は縮小して、打つ星の数が増えていきます。兜をつくる際には、矧板をいくつにするのか、どのぐらいの大きさの星をいくつ打つのか、頂辺孔をどのぐらいの大きさにするのかをしっかりと考えましょう。【矧板】【星鋲】【頂辺孔径】沢潟縅鎧(大山祇神社所蔵)平安時代初期12頂辺1、一行6、腰巻1
前回同様に、平安時代の鎧兜と鎌倉時代以降の鎧兜の違いについて1つ1つ紹介していきたいと思います。一括りに大鎧をつくるといっても平安時代初期なのか中期なのか後期なのか、あるいは鎌倉時代のものなのかなど時代によって少しずつ異なるので、自分自身がどの年代のものをつくるか、そのためにはどうしたらよいのかの1つの目安になるかもしれません。今回は縅毛の色目についてです。死に装束としての鮮やかさ縅毛の色目は、赤・紺・白・紫・萌黄・浅葱・茶・薄青などの色絲が一般的です。色目には一部の色を変える
おはようございます☀️🙋♂️ここ数日快適な気温で過ごしやすかった✌️そんな中届いていた封書開けてみた否応なしにやってくるのは固定資産税の納付書もれなく在中されている🤷去年より納付額が上がってる😱5月に入れば直ぐに自動車税がやってくるわ~い😵そしてゴールデンウィーク(GW)もやってくる何処へ行っても混む日々が待っている円安なので海外止めて福井県石川県新潟県へ行こうボランティアでも旅行でも……いい五月病は吹っ飛ぶよ🙆そしてそして個人的には恐怖の夏がやってくる😱そん
遺物がありませんので全ては『平治物語絵巻』『蒙古襲来絵詞』『後三年合戦絵詞』『軍用記』『武器袖鏡』などに描かれた貫(毛靴)からの推測となります。笹間良彦氏によれば、履物は、古墳時代や奈良時代には身分の高い者が履いており、下級の者は裸足であったそうです。埴輪の履いている沓などから古代の履物が推測できます。かなり後世までは裸足だったようで足の裏は相当丈夫だったようです。平安時代以降、俘囚の文化が入ってきて以降は、鹿や猪などの皮(革)でつくった沓、貫(毛沓)が使用されたとされています。狩猟用で
実はそれがしも子どものころからずっと座右の銘にしてきたこの最後の一文「一期は夢よただ狂え」は、ビジネスなどでもよく座右の銘にしている方を見かけます。真の意味を知っている人は少ないようです。『閑吟集』は恋愛をうたったものが多く、この節も例外ではなく、真の意味を知ったら、ほとんどの方が座右の銘にはしないかもしれません。あ、逆に真の意味を知って、あえて座右の銘にする方も続出するかも…???『閑吟集』夜中は地櫓裏に巣刳るちろりちろり何と裳男矢綯う何ともなやなう浮き夜は夫婦
鎧に鉄が使われなくなった時期古墳時代・奈良時代には挂甲・短甲といった主に鉄でつくられた鎧兜が使用されていましたが、平安時代には綴牛皮(てごひ)という革製の鎧兜が出現し、大鎧が誕生します。奈良時代後期の光仁天皇(709~781年)が780年に「甲冑は皆よろしく革を用いるべし」と勅命を出し、平安時代初期の桓武天皇(737~806年)は790年に蝦夷征討にあたり坂東諸国に2,000領の革鎧をつくらせるなど、2度にわたり「鉄の鎧は不便なので革製の鎧兜に切り換えるように」と命令が下され、国家的につくら
ごきげんさまです。セブンカラーズさんの鶴岡八幡宮での写真撮影後、私は鎌倉観光へ。まずはBAM!英国アンティーク博物館へ。外観が鎌倉彫風、隈研吾さん設計。シャーロック・ホームズがお出迎え。入場料1300円ですごいアンティークが見れます。Wi-Fiで解説動画を見ながら進むと、ベイカー街のドア、シャーロック・ホームズの部屋など、かなり盛りだくさん。ジョージア時代、ヴィクトリア時代の家具も素敵です。本物が置いてあるのがすごいと思いました。一見の価値ありです。館長の土橋正臣さんについて調べる
思い立ったが吉日!!仕事の都合もあるし!!いいことだけ気にする!!(笑)神奈川県藤沢市、湘南モノレール「湘南江の島駅」近くの寺院「常立寺」。近年はコスプレイベントも開催、イマドキ化を進めている「龍口寺」。モノレールに乗って…。龍口明神社にも行ってきました。桜の季節は過ぎていましたが、お天気にも恵まれ、どの寺社も素晴らしかったです。そんなわけで「江の島の五頭龍様ゆかりの地巡り」をしてまいりました。事情があって4月までにどうしてもお参りしたかったの
4月のお参り①龍口明神社salonSORAセラピスト佐々木雅子です。夫と一緒に、龍口明神社へ参拝に行ってきました。まずは腹ごしらえリニューアルオープンした、『五島』さんへ。店内はお客様いっぱいでしたが、ギリギリ入れました見た目は濃い味付け?と思いましたが、食べると全然そんなことはなくて、さらりといけますめっちゃおいしかったです。私は不得手ですが、海老やホタテがコロコロ入っている、かき揚げ丼が人気みたい夫はすぐにペロリ(笑)お腹もいっぱいになって、いざ出発神
前回同様に、平安時代の鎧兜と鎌倉時代以降の鎧兜の違いについて1つ1つ紹介していきたいと思います。一括りに大鎧をつくるといっても平安時代初期なのか中期なのか後期なのか、あるいは鎌倉時代のものなのかなど時代によって少しずつ異なるので、自分自身がどの年代のものをつくるか、そのためにはどうしたらよいのかの1つの目安になるかもしれません。今回は兜の𩊱(しころ)についてです。𩊱(しころ)は兜鉢の腰巻から垂れ下がり後頭部と頸まわりを覆うもので、ほとんどが革札で、一部鉄札を用いることがあります。平安
津波(河川遡上)津波で鎌倉も大船ものみこまれる。と、思っているのは私だけなのだろうか。最近、鎌倉市内の津波ハザードマップ、洪水ハザードマップ、土砂災害ハザードマップなどを見ていて、プロがつくっているのだから、正しいデータに基づいてつくられているのだろうけど、どうも信じられない。鎌倉市にはなぜ河川遡上を踏まえたハザードマップがないのだろうか。滑川をはじめ鎌倉にはいくつもの河川がある。河口から河川に侵入した津波が、1mの津波でも5kmは遡上するといわれている。河川を遡上する津波は伝播速