ブログ記事3,849件
深沢の土地区画整理事業予定地深沢の住民の方の情報から、大規模豪華マンションが深沢に相次いで建つ計画があるのを知りました。寺分の多目的スポーツ広場の横と、梶原のたまやの後の中外製薬跡地の所です。寺分の計画は、「歴史ある鎌倉は、いま、変わろうとしている。村岡・深沢土地区画整理事業により、より豊かな街へと革新的な進化を遂げようとしている。」とホームページは、新駅、市役所本庁舎・消防本部移設にも具体的に触れ、全面に押し出した体裁です。計画が現実になれば、街はがらっと変わって、地価も
2022年4月17日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第14回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第14回「都の義仲」北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、畠山重忠(中川大志)、木曽義仲(青木崇高)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、仁田忠常(高岸宏行)、岡崎義実(たかお鷹)、平知
もう10年近く、直垂を普段着のようによく着てきて、ずっと疑問に思っていたことがある。古くから狩衣と同じように庶民の服、つまり活動着として用いられてきた直垂。にも関わらず、とにかく動きにくい。どうもおかしい。・狩りをする上で矢を射る・騎射するために乗馬する・戦うために鎧を着用する・農作を行うなど、普段着として着用されてきたはずだが、どうも動きにくいので調べてみた。結論からいうと、巷で販売されている直垂(鎧直垂)の類は、鎌倉時代後期以降の礼服化した後の直垂であって、決して活動
津波(河川遡上)津波で鎌倉も大船ものみこまれる。と、思っているのは私だけなのだろうか。最近、鎌倉市内の津波ハザードマップ、洪水ハザードマップ、土砂災害ハザードマップなどを見ていて、プロがつくっているのだから、正しいデータに基づいてつくられているのだろうけど、どうも信じられない。鎌倉市にはなぜ河川遡上を踏まえたハザードマップがないのだろうか。滑川をはじめ鎌倉にはいくつもの河川がある。河口から河川に侵入した津波が、1mの津波でも5kmは遡上するといわれている。河川を遡上する津波は伝播速
実はそれがしも子どものころからずっと座右の銘にしてきたこの最後の一文「一期は夢よただ狂え」は、ビジネスなどでもよく座右の銘にしている方を見かけます。真の意味を知っている人は少ないようです。『閑吟集』は恋愛をうたったものが多く、この節も例外ではなく、真の意味を知ったら、ほとんどの方が座右の銘にはしないかもしれません。あ、逆に真の意味を知って、あえて座右の銘にする方も続出するかも…???『閑吟集』夜中は地櫓裏に巣刳るちろりちろり何と裳男矢綯う何ともなやなう浮き夜は夫婦
2024年11月13日(水)今日も快晴の東京。絶好の行楽日和。さて、土曜日の大船観音、大船フラワーセンター、北鎌倉の蕎麦、甘味、鎌倉に出てから。ひと通り鎌倉の街中をぶらりして、その後は江ノ島に行こうとなりました。通常だと江ノ電なんでしょうけど、久しぶりに湘南モノレールに乗りたいとなり、JR横須賀線で一路大船まで。大船も街中をぷらぷらしてから、湘南モノレール。あ、いつのまにか買い物してます。それなりに大きな物を衝動買い。そして江ノ島に渡って江島神社を参拝しました。エスカーには乗
鶴岡八幡宮の初詣の後は、七里ガ浜へ行きました。鎌倉高校前駅から湘南江の島駅まで散策しました。鎌倉駅から江ノ電で鎌倉高校前駅まで移動しました。途中から海が見るようになります。江の島も見えます。富士山も見えたのですが、一瞬だったので写真は撮りそびれました。鎌倉高校前駅です。踏切を渡ると、道路があり、目の前に海が広がります。駅前から富士山が見えました。山に隠れてちらりとしか見えませんが、この後、江の島まで行くとバッチリ見えます。階段があり、砂浜まで下
鎌倉武士、坂ノ下御霊神社(鎌倉権五郎神社)に御礼参りに出陣いたしました!!ご興味ある方は鎌倉智士へご連絡ください。090-6513-8892info@izakamakura.jp---------------------------------------------------鎌倉もののふ隊は、平成23年(2011年)に旗上げした任意団体です。趣旨は、子どもたちに埋もれてしまった歴史や忘れ去られてしまった先人たちを伝え残すこと。ひいては先祖供養につながり、地域振興にも寄与す
烏帽子(えぼし)は、冠(かんむり)と同じく頭巾(ときん)という羅(うすもの)でできた薄い布の袋でできていました。羅(うすもの)とは絡み織(からみおり)をした目の粗い絹織物のことで、絹で織った網のような薄い布のことです。羅は元々は「鳥や小動物を捕獲するための網」という意味でした。4世紀前半に中国から渡来し、飛鳥時代には国産品も製作できるようになっていましたが、応仁の乱のころに技法の継承が途絶えたとされています。公家や侍(仕える下級貴族)たちの日常のかぶり物として徐々に庶民にも広まっていき、
今年も11月23日から2月28日までライトアップが行われます。江ノ島島内以外でも小田急片瀬江ノ島駅、湘南モノレール湘南江の島駅、新江ノ島水族館でライトアップが行われます。
烏帽子のルーツは古代中国の頭巾烏帽子(えぼし)は、冠(かんむり)と同じく頭巾(ときん)という羅(うすもの)でできた薄い布の袋でできていました。羅(うすもの)とは絡み織(からみおり)をした目の粗い絹織物のことで、絹で織った網のような薄い布のことです。羅は元々は「鳥や小動物を捕獲するための網」という意味でした。4世紀前半に中国から渡来し、飛鳥時代には国産品も製作できるようになっていましたが、応仁の乱のころに技法の継承が途絶えたとされています。※古代中国では、冠や烏帽子(烏帽子の起源とされる
源平合戦(平安時代後期)のころの鎧兜をつくろうという方向けのブログ。なかなかこういったニッチな分野はネットで詳細が出てこないものなので、鎧兜をつくる指導を行っている者として、最低限知っておかなければならないことを後世に向けて少しでも書き残していこうとはじめた「平安時代の〇〇についてシリーズ」も鎧・兜・烏帽子につづいて、今回いよいよ絵韋(えがわ)についてです。絵韋は、画韋とも書きます。鎧兜の革所(かわどころ)に張られた鹿などの皮革(ひかく)のことで、時代によって傾向はありますが獅子や牡丹、不