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皆さんこんばんわ駅めぐり日和の秋ですね。私は主に財布が燃え尽きたので週末を1年以上ぶりに家で過ごすというのんびりした日を過ごしています。行く場所があるとすれば沖縄ですが今のところタイミングを見計らってるので未定です。というわけでそんな休みを利用して今日は分量がむちゃくちゃ多そうな神奈川県を書きたいと思います。JRだけでも東海道本線京浜東北線・根岸線南武線鶴見線横浜線横須賀線相模線御殿場線それ以外に東急電鉄各線・みなとみらい線京急電鉄各線小田急電鉄各線箱根登山
鶴岡八幡宮の初詣の後は、七里ガ浜へ行きました。鎌倉高校前駅から湘南江の島駅まで散策しました。鎌倉駅から江ノ電で鎌倉高校前駅まで移動しました。途中から海が見るようになります。江の島も見えます。富士山も見えたのですが、一瞬だったので写真は撮りそびれました。鎌倉高校前駅です。踏切を渡ると、道路があり、目の前に海が広がります。駅前から富士山が見えました。山に隠れてちらりとしか見えませんが、この後、江の島まで行くとバッチリ見えます。階段があり、砂浜まで下
実はそれがしも子どものころからずっと座右の銘にしてきたこの最後の一文「一期は夢よただ狂え」は、ビジネスなどでもよく座右の銘にしている方を見かけます。真の意味を知っている人は少ないようです。『閑吟集』は恋愛をうたったものが多く、この節も例外ではなく、真の意味を知ったら、ほとんどの方が座右の銘にはしないかもしれません。あ、逆に真の意味を知って、あえて座右の銘にする方も続出するかも…???『閑吟集』夜中は地櫓裏に巣刳るちろりちろり何と裳男矢綯う何ともなやなう浮き夜は夫婦
津波(河川遡上)津波で鎌倉も大船ものみこまれる。と、思っているのは私だけなのだろうか。最近、鎌倉市内の津波ハザードマップ、洪水ハザードマップ、土砂災害ハザードマップなどを見ていて、プロがつくっているのだから、正しいデータに基づいてつくられているのだろうけど、どうも信じられない。鎌倉市にはなぜ河川遡上を踏まえたハザードマップがないのだろうか。滑川をはじめ鎌倉にはいくつもの河川がある。河口から河川に侵入した津波が、1mの津波でも5kmは遡上するといわれている。河川を遡上する津波は伝播速
烏帽子(えぼし)は、冠(かんむり)と同じく頭巾(ときん)という羅(うすもの)でできた薄い布の袋でできていました。羅(うすもの)とは絡み織(からみおり)をした目の粗い絹織物のことで、絹で織った網のような薄い布のことです。羅は元々は「鳥や小動物を捕獲するための網」という意味でした。4世紀前半に中国から渡来し、飛鳥時代には国産品も製作できるようになっていましたが、応仁の乱のころに技法の継承が途絶えたとされています。公家や侍(仕える下級貴族)たちの日常のかぶり物として徐々に庶民にも広まっていき、
前回同様に、平安時代の鎧兜と鎌倉時代以降の鎧兜の違いについて1つ1つ紹介していきたいと思います。一括りに大鎧をつくるといっても平安時代初期なのか中期なのか後期なのか、あるいは鎌倉時代のものなのかなど時代によって少しずつ異なるので、自分自身がどの年代のものをつくるか、そのためにはどうしたらよいのかの1つの目安になるかもしれません。今回は立物(前立)についてです。平安時代の兜(遺物)には1つも鍬形はついていない立物の1つに鍬形および鍬形台があり、兜の正面に掲げる一双の角状の立物のこと
こんばんは。先日開催された『湘南モノレール車両基地見学と車庫線乗車&シミュレーター体験ツアー』に参加しました。集合場所は、こちらの深沢車両基地です。奥に見える公衆電話が懐かしい・・・。まず、4階建ての車両基地内を見学しました。ここは3階。結構高いです。細い階段を上って4階へ。特注タイヤや絶対に落ちない仕組みなどを教えてもらいました。次に、運転席に入って、実際にドア開閉やアナウンスなどの車掌体験をしました。運転席にも座らせてもらい
前回同様に、平安時代の鎧兜と鎌倉時代以降の鎧兜の違いについて1つ1つ紹介していきたいと思います。一括りに大鎧をつくるといっても平安時代初期なのか中期なのか後期なのか、あるいは鎌倉時代のものなのかなど時代によって少しずつ異なるので、自分自身がどの年代のものをつくるか、そのためにはどうしたらよいのかの1つの目安になるかもしれません。今回は兜の𩊱(しころ)についてです。𩊱(しころ)は兜鉢の腰巻から垂れ下がり後頭部と頸まわりを覆うもので、ほとんどが革札で、一部鉄札を用いることがあります。平安
烏帽子のルーツは古代中国の頭巾烏帽子(えぼし)は、冠(かんむり)と同じく頭巾(ときん)という羅(うすもの)でできた薄い布の袋でできていました。羅(うすもの)とは絡み織(からみおり)をした目の粗い絹織物のことで、絹で織った網のような薄い布のことです。羅は元々は「鳥や小動物を捕獲するための網」という意味でした。4世紀前半に中国から渡来し、飛鳥時代には国産品も製作できるようになっていましたが、応仁の乱のころに技法の継承が途絶えたとされています。※古代中国では、冠や烏帽子(烏帽子の起源とされる
鎧の変遷について平安時代の鎧についてのあれこれ(1)鎧の小札について平安時代の鎧についてのあれこれ(2)平安初期の鎧について平安時代の鎧についてのあれこれ(3)平安中期の鎧について平安時代の鎧についてのあれこれ(4)※非常にマニアックなのでよほどの鎧好き向けかもしれません。平安時代後期の鎧について小桜韋縅鎧(菅田天神社所蔵)は、新羅三郎義光(1045~1127年)より伝来の武田氏の家宝で、「楯無の鎧」と号されます。武田晴信(1521~1573年)が鬼門鎮