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今回は藤原高子についてまったくの私見で書かせていただくわね。それ誰?と思ってらっしゃる?彼女は9世紀半ばから10世紀初めにかけて実在した女性なんです。その生涯を簡単に紹介するとね↓842年に誕生。25歳の時に清和天皇の元へ入内。その後、2男1女に恵まれ、長男は陽成天皇として即位する。高子は「皇太后」の称号を得て皇族の身分となり、母后としての権力を得た。自ら東光寺の建立に携わり、深く仏道にいそしみ910年に崩御した。かな〜り端
「中尊寺」という寺号にはどのような意味が込められているのでしょうか。佐(さ)々(さ)木(き)邦(ほう)世(せい)師『中尊寺史(し)稿(こう)』には、①吾(あ)妻(づま)鏡(かがみ)の記述を根拠として近世の地誌で唱えられた陸(む)奥(つの)国(くに)の中央に建立された寺との意②主要伽(が)藍(らん)だった二(に)階(かい)大(だい)堂(どう)の中尊・三(さん)丈(じょう)大(だい)阿(あ)弥(み)陀(だ)像(ぞう)による③清(せい)和(わ)天(てん)皇
京都迎賓館ガイドツアー①からの続きです『京都迎賓館ガイドツアー①』♫さざんかさざんか咲いた道~お花の奥に見える築地塀に囲まれた場所は、京都御苑にある京都迎賓館です。昨年12月、京都迎賓館のガイドツアーに参加し…ameblo.jp和舟を見た後、一旦正面玄関から外へ出ました。賓客を迎える際はこの門から車列が入り、正面玄関でお迎えするそうです。建礼門と築地塀御所の塀には最も格式が高い五本の定規筋↑がありますが、↓迎賓館の築地塀に、筋はあり
『藤原北家の本流は長男でないことが多かった』の深掘り企画。今回は藤原北家の祖・房前から数えて6代目(来孫)にあたる基経(もとつね)について、やっていきます。日本史上初の皇族以外での摂政となり、人臣のトップリーダーとなった平安時代前期の巨人・藤原良房。最強最大にも見える彼の最大の弱点は「跡を継ぐ子に恵まれなかった」こと。そこで、兄・長良の息子を養子に迎え入れて嫡男としました。その養子に迎え入れられたのが、今回の主役…のはずの、藤原基経。基経は長良の三男で、承和3
城里町の石船神社たまに来たくなりますともかく不思議な場所です毎回ドキドキしちゃうのよ矢の根石どうじゃ圧すごいでしょいろいろ写りこむ森の神秘創建清和天皇の御代貞観元年(859年)森との一体感龍がうねるがごとき前に来たときは大きなオーブが飛んできました目の前に
(京都・吉田神社内にある末社「山蔭神社」藤原山蔭を神として祀る)庖丁式の始祖とされる藤原山蔭、本当のところ庖丁式を創始した記録はみつからない。前回までのこのテーマで記してきた通り、藤原山蔭は藤原北家とはいえ、本流から離れた傍流下級貴族三男としての生まれである。はなばなしく同時期に朝廷政治の中心で活躍し、後の五摂家となる本流の良房や基経に比べると、日本政治史で特筆される事績を残したという事もない。はっきりしている事は、清和天皇の立太子前、8歳の親王時代より近侍として支え続け、近衛
⚔️⚔️⚔️⚔️⚔️『南大門』多田大権現‼️『宝物殿』『水戸黄門御手植銀杏』不思議の銀杏『七種の宿木』『随神門』『手水舎』『キャプテンロー(唐椿)』『拝殿』『御本殿』『御本殿』の奥には。。。『源満仲・源頼光の墓』(『御神廟』)源満仲・源頼光の墓。満仲および頼光の墓は「多田神社」の本殿真裏にあり、『御神廟』と呼ばれて禁足地帯となっている。「源満仲」満仲は清和天皇の曾孫で六孫王と称された経基王の嫡男である。武蔵守、摂津守、越前守、美濃守、信濃守、伊予守、