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先日は、京都市の清和天皇社(せいわてんのうしゃ)にてロケでした✨️今回の収録は、有里先生のお嬢様も一緒に出演され、とても和やかで素敵な雰囲気でした🙏✨️創建は881年ごろと伝えられていて、1,100年以上の歴史がある神社です!主な御祭神は、・第56代・清和天皇(せいわてんのう)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)の五柱の神々といわれています。清和天皇は武門の棟梁として有名な清和源氏(せいわげ
11月3日は「文化の日」で祝日🇯🇵だが戦前は「明治節」と呼ばれ明治天皇の誕生日を祝う日だったんだ(知らんかった😮)(昨日の続き⋯より)「山の中の青空市」を出て⋯時間も9時になったのでお寺🛕参りをして帰った『忍頂寺/(茨木市)』「忍頂寺」について平安時代の初期に創建され860年清和天皇により「忍頂寺」と命名された境内の北側斜面に府指定有形文化財の五輪塔がある(築造1321年)(忍頂寺御朱印)『大門寺
白い孔雀に会える進雄神社⛩️◎御由緒進雄神社は貞観十一年(869年)に各地で疫病が蔓延していた際、時の清和天皇の詔(みことのり・天皇の命令)により尾州(現在の愛知県西部)津島神社から神様をお招きして今の場所にお祀りしたのが始まりです。以来、健康・厄除をはじめ御神徳の篤いお社として崇敬されてまいりました。◎御祭神速須佐之男命孔雀に癒された参拝でした🙏🏼✨
2025年10月29日(水)の午前2時頃、CrusaderKings3の大型拡張DLC"AllUnderHeaven"がリリースされました。このDLCの目玉は、なんといっても東アジア世界の追加これまで範囲外だった中国、日本、東南アジアがプレイ可能勢力として追加されたことです。広いですうん、本当に。これまでのCK3に慣れているほど、そう感じると思います。日本方面は、北方領土も入ってます。東南アジアの東端はパプアニューギニアの西側でした。東南アジアもかな
*9月14日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは応天門の変です。本日は、伴大納言絵詞のおはなし。あんみつ「先生、貞観八年(866)閏三月十日夜、応天門が炎上しました。伴大納言善男はこれを、門を造営した伴(大伴)氏への呪詛だと騒ぎ立て、政敵である左大臣・源信(まこと)に罪を着せようと企てます」ぜんざい「平安京の門を各豪族が造営献上したのは、むろん朝廷への追
敬老の日、齢九十の母が富士山を見たいと仰せなので、次兄と共に出向く。小雨模様の金沢、白川郷からトンネルを抜け、高山あたりは曇天、松本付近より雲の切れ間が見え始め、近年の道路事情改善は著しく、今年三度目の高山経由の安房越え、松本あたりも間を置かずの訪問。小淵沢を過ぎ須玉辺りから遠目に富士山の雄姿が見え始め。まずまずの天候に安堵、御坂ICを降りR137をセレクト。河口浅間神社参拝。時の帝は清和天皇、貞観六年(864年)五月の富士山大噴火。貞観七年十二月九日勅命により浅間明神を奉斎、富士山
*9月8日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは応天門の変です。本日は、応天門炎上のおはなし。🍚あんみつ「先生、清和天皇の貞観六年(864)正月、三公(太政大臣・左大臣・右大臣)に次ぐ大納言の地位に登った伴善男は、さらなる上の官職を欲します。最高権力者の藤原良房は7歳上で、清和天皇の生母の父。右大臣の藤原良相(よしみ)は良房の実弟です。善男より2歳下」ぜん
🌊【歴史×科学】1150年前の“警告”──貞観地震が現代に伝えること869年、東北地方を襲った貞観地震(じょうがんじしん)。一見、遠い昔の出来事ですが、2011年の東日本大震災と驚くほど重なる部分があり、現代に生きる私たちへの“生きた警告”でもあります。⚡平安の世を揺るがせた大地震(869年5月26日)『日本三代実録』の記録🌀「倒れて起き上がれない」ほどの揺れ🏚家屋倒壊・地割れ🌌夜空に「流光が昼のように輝いた」怪現象🌊巨大津波が内陸数十kmに到達陸奥国多賀城周辺では約
👑【皇族以外で初の摂政!】藤原良房、平安政治のルールを塗り替える📅背景:9歳の天皇と外祖父の存在感858年、文徳天皇が崩御し、清和天皇(9歳!)が即位。当然ながら幼い天皇は政務をこなせません。そこで登場したのが、母・藤原明子の父=藤原良房。外祖父の立場をフル活用し、皇族以外で初の摂政に就任しました。⚖️摂政就任の意義🏛皇族以外初の摂政本来は皇族の役職を藤原氏が担当。大転換点。🔑摂関政治の幕開け外戚として天皇を補佐=実質的に政務を掌握する前例をつくる。🗡ライバル
25.07/06sun.07:45-18:30(ホテルルートイン伊予西条-西梅田)前神寺駐車場から北に、国道11号線東に、いよ西条ICから松山自動車道北に戻り、国道377号線を西に山麓を大きく左回りに四国別格二十霊場第16番萩原寺から南東に雲辺寺ロープウゥイ標高911m、四国山脈の山頂近くの霊場歩き遍路では「遍路ころがし」と呼ばれる難所霊場として讃岐の打ち始め「関所寺」山上駅から南東に少し上り左に坂道を下って、巨鼇山雲辺寺仁王門左に上り坂を、本堂本尊千
(わかみややこまいぬりりしなつこかげ)玄武神社からすぐ、今宮神社お旅所を挟んで、大宮通りに面してあります。玄武神社は天皇になれなかった惟喬親王が祀られていましたが、こちらは、天皇になった清和天皇が祭神です。因縁深いご兄弟がこんなにも近くに、不思議ですね。この地は清和源氏の源頼光の屋敷跡とされ、清和天皇が創
ご先祖様は源経基という事清和天皇の臣籍降下したお孫さんですね父親のお墓を作る際本家の家紋が何故か間違っていたらしく調べなおした結果たどり着いた真実でしたややこしいのが本家の祖は3男らしく元の本家から何人かの兄弟のうち4男と兄弟2人で地元を離れ新しく興された家系になりますその辺で混乱したらしい長男次男は亡くなってるので本家になったみたい
私は佐賀県佐賀市神野町在住の社会福祉士・精神保健福祉士の元PSWの廣田佳子(ひろたよしこ)です。皆様はあまりご存じないでしょうが、伊勢神宮「外宮」度会神主一族の廣田一族本家の直系相続人の家系で、廣田佳子(ひろたよしこ)です。私は清和天皇の系譜があり、村上天皇の末裔である藤澤一族の本家の継嗣だった、藤澤品五郎を曾祖父に持っています。(改名後、廣田光成)私の廣田一族の家系は、佐賀県では一軒だけです。佐賀市神野町に在住しています。私達一族は、伊勢神宮の「外宮」の度会神主一族の廣田一族の本
昨日は旧暦5月26日でしたが、貞観十一年(869年)五月二十六日は貞観地震が起きた日です。※単純に旧暦にあてはめています。東日本大震災が起きた時に、千年に一度の地震と言われたのは1154年前に起きた貞観地震があったからです。しかも陸奥国での発生です。陸奥とは「みちのおく」から転じた言葉で、ほぼ現在の東北地方に相当する地域の古名です。この時の天皇は清和天皇で、陸奥国と常陸国の国境が最大の被災地であるとの詔を発しましたが、その詔について2017年に発売された正論SP2に書かれていま
清和源氏の嫡流ともなる、河内源氏。もとは摂津源氏でした。清和天皇の孫であるため、六孫王(賜姓した、貞純親王は6男)とも呼ばれた源経基が東寺の裏に館を構え、多田満仲から頼信が河内に本拠を起き、頼朝の流れが嫡流。足利が尊氏が登場し、嫡流となり、やがて室町幕府を開きます。
三峯神社か伊勢神宮外宮内宮三峯神社はブームになる前に参詣参拝はしてるのだがそれ以降も何度か呼ばれてるんだよね・・とりあえず同じ神様が祭られている地元の奥の院とかには参詣参拝には行ってるけど伊勢神宮に関してはご先祖様に清和天皇がおられるからね・・
「3歴代ノ天皇(その56)」今日は、林子平みなさん、おはようございます週末です一週間の成果を振り返りましょう手帳を見返すのがいいですねサッソウと皐月、五月怠けるな五月海軍カレーから始めます(笑)楽しく國史を学び家族のためご自身のためにお役に立てれば幸いですコメントお待ちしています!5月16日は林子平の海軍兵談が発禁されました海の防衛の必要性を訴えましたしかし、幕府の鎖国政策の批判となり発禁とされました仙台市には生誕地の石碑がありま
宇陀市宇陀石清水六孫王五輪塔六柱神社の向い五輪塔は清和天皇の孫で清和源氏の祖の六孫王経基(つねもと)の墓と伝わるそうです。子孫に源頼朝や義経。
今回自由研究があります。同時進行で「京の匠」と「京都のいわく」も掲載予定Q2GWの完全自由学習GW中に、神社・寺院をひとつ訪問してレポートにまとめましょう(他地域の方は地元で結構です)(要素は、開山・開基・宗派(寺)・歴史上の意味合い・関連のある歴史上の人物・関連の花、菓子)大山紀駅前の離宮八幡宮を参拝しましたまず、場所は、JR大山崎駅前、ここは。ホームが、京都(大山崎町)と大阪府(三島郡、島本町)にまたがっている。駅を出るとこの風景、ここで何かを感じられないと、
嘉祥三年(850年)三月二十五日、文徳天皇の第四王子惟仁(これひと)親王が誕生しました。本日は旧暦では三月二十五日ですから今ぐらいの時期でしょう。(改暦は何度もあったため、単純に旧暦で考えています。)惟仁親王の御母は、藤原良房の娘の女御明子(後の皇太后)であり、良房は摂政宣下を受け、皇族以外で初めて摂政の座に就き、以後藤原北家全盛時代を築いています。そのため、惟仁親王は三人の異母兄を超えて生後八か月で立太子されました。そして、天安二年(858年)十一月七日父帝の崩御により満年齢八歳で即位さ
こんばんはまっきーです。今日は天岩戸神社を調べながら倭姫の命(やまとひめのみこと)の物語を読み天の忍水(あめのおしみず)や日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)が目に止まりました。日向大神宮にはたくさんの神さまが祀られており天岩戸や御井(みい)神社の由来も気になりましてある方のブログを抜粋して載せました。こちらのブログから抜粋させて頂きました。天照大御神を祀る京のお伊勢さん天照大御神を祀る京のお伊勢さん~日向大神宮|Suwano京都市中心部から、そう遠くない山の中
各地で山火事が起きています。岩手県大船渡市の山火事が続いていますが、山梨や長野、そして岐阜でも発生しています。昨日のウエザーニュースの動画にて一問目で山火事について解説していますが、岩手県は立地的に山火事が起きやすいエリアのようで過去に起きたものについても解説されています。また各地の乾燥したエリアについても。こちらは28日のtenki.jp【太平洋側の広い範囲で空気乾燥2月は記録的な少雨の所も火の取り扱いに注意】https://t.co/vuQuJC2FXh空気の乾燥した状
こんにちは体調を崩し、しばらく更新できませんでした。また、よろしくお願い申し上げます。最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。◇◇◇◇◇怪談異聞眉毛に唾地中に人大正14
藤原基経は、836年(承和三年)、藤原良房の兄、長良の三男に産まれる。正確な時期は、不明であるが、息子がいなかった、叔父の良房に見込まれると、その養嗣子となっている。852年(仁寿元年)に、藤原基経は、東宮において、元服した際、文徳天皇が、自身の手で、加冠する程、厚遇を受けて、正六位上に叙された。藤原基経は、854年(仁寿四年)、従五位下、860年(貞観二年)、正五位下、その翌年に、従四位下と順調に昇進し、29歳の864年(貞観六年)、参議に任ぜられて、公卿に列した。その異例の
今日はクリスマスイブも人は多かったけど、今日は買い物に出かけて来た親子連れが多かったそして私は・・・職場でチキンパ―ティーしたよ🍗✨昨日はほか弁だったさて、お次は六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)です夕暮れ時に神社には余り行かない私ですが、京都は結構遅くまで開いてる所が多いみたいなので来てみました何とも言えない雰囲気ですね~夕焼けです✨社標社標の横には清和源氏発祥の地って書いてありましたその足元には石標誕生水辨財天って書いて有るのかなそれに
藤原良房への「摂政」の詔は、左大臣の源信が、自宅で籠居して、右大臣の藤原良相が、病気で、出仕が滞り、それに次ぐ、大納言の伴善男に放火の疑いをかけられる中で、形式上、名誉職の太政大臣、藤原良房に太政官の政務を行わせようとしたと考えられる。仮に大納言の伴善男が放火の犯人の場合、善男の処分を判断できるのは上官の大臣のみとなる。しかし、応天門の放火の捜査とは、別に進行していた、大宅鷹取の父娘が、殺傷された、事件の捜査に関連して、8月29日に伴中庸が、左衛門府に拘禁され、同じく、善男の従者の生江
864年(貞観六年)冬、藤原良房は、大病を患って政務を退いいて、その間に太皇太后の藤原順子、その信任を得ている、良房の弟の右大臣・藤原良相、太皇太后宮大夫を兼ねる、大納言の伴善男の三者連合が、政権の中枢を担っていたと思われる。伴善男は、賜姓源氏の左大臣、源信とは、非常に不仲で、政情は、不安定であった。源信、その弟の中納言の源融、右兵衛督の源勤の兄弟が謀叛を謀っているとの投書があり、源信と対立していた、伴善男は、讒言していた。865年(貞観七年)秋には、藤原良房は、回復して、政務に復
承和の変により、太政官の上席は、老齢の左大臣・藤原緒嗣と大納言・橘氏公、そして、嵯峨天皇の皇子の若い、右大臣の源常のみになり、良房は、朝廷での影響力を一挙に強めた。変後、暫く、源常と良房の二人が、太政官の政務を領導していたが、843年(承和十年)、藤原緒嗣、847年(承和十四年)、橘氏公が、死去した。844年(承和十一年)、源常が、左大臣に昇り、太政官の首班となった、藤原良房が、848年(承和十五年)、右大臣に昇ると、事実上、良房の独裁体制に入った。前述の通り、源常は、嵯峨天皇の皇
同年、応天門の変が、発生し、伴善男は、流罪に処され、藤原良相及び、伴善男の太政官領導体制は、完全に崩壊した。応天門の変後、藤原良相は、失脚しなかったが、政治的影響を失っていた。867年(貞観九年)10月、藤原良相は、初めに直廬で倒れると、同月10日に死去する。享年55。遺言に従って、薄葬とし、一重の衾だけで、棺を覆わせたとされる。藤原冬嗣の六男、良門は、正六位上・大舎人に叙任するが、利基・高藤の二子を儲けた、直後に没したとされ、兄弟中、唯一、五位に昇る事がなかった。しかし、
藤原冬嗣の長男、長良は、淳和天皇の治世の824年(天長元年)、従五位下に叙爵した。当時、長良は、春宮の正良親王の信頼が、篤く、常に近侍していた。833年(天長十年)、正良親王が、即位して、仁明天皇になると、藤原長良は、正五位下、836年(承和三年)に、従四位下に叙爵して、順調に昇進している。しかし、藤原冬嗣の次男、良房は、仁明天皇の即位後、一年程度で、従五位から、参議に至る等、急速に昇進し、兄の長良を官途で追い抜いた。藤原長良は、844年(承和十一年)、従四位上・参議に叙任され