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貞観8年(866)閏3月10日、大納言の伴善男が御所の応天門へ放火、炎上させたとして逮捕されました。事件は、犯人である善男が左大臣源信(みなもとのまこと)の仕業だと清和天皇に訴え出たことにはじまります。それが讒言だとわかり、事件はいったん振り出しにもどりましたが、『三代実録』によりますと、8月になって大宅鷹取(おおやかのたかとり)という下級官人が応天門を焼いた犯人として善男らの名をあげ、事態は急展開します。ここに、大臣の座を狙う善男が源信の失脚を図り、罪をなすりつける
嘉祥三年(850年)三月二十五日、文徳天皇の第四王子惟仁(これひと)親王が誕生しました。本日は旧暦では三月二十五日ですから今ぐらいの時期でしょう。(改暦は何度もあったため、単純に旧暦で考えています。)惟仁親王の御母は、藤原良房の娘の女御明子(後の皇太后)であり、良房は摂政宣下を受け、皇族以外で初めて摂政の座に就き、以後藤原北家全盛時代を築いています。そのため、惟仁親王は三人の異母兄を超えて生後八か月で立太子されました。そして、天安二年(858年)十一月七日父帝の崩御により満年齢八歳で即位さ
「この世をばわが世とぞ思う望月の」藤原道長が絶頂期に詠んだとされる有名な和歌(上の句)です。その道長全盛期の1世紀半ほど前に、やはりわが身の栄華を歌に託した公卿がいました。藤原良房です。娘が清和天皇に嫁ぎ、皇族を除き、臣下として初めて摂政になった人物として高校の教科書に登場します。藤原不比等(前号で詳述)を藤原摂関家の事実上の始祖とすると、良房は道長につながる一族の栄華の礎を築いたといえるでしょう。その良房は伴(大伴)氏をはじめとする古代の有
清和天皇は母方の祖父藤原良房の後見の元、3人の兄を退けて生後8カ月で皇太子となり、文徳天皇の崩御に伴い、9歳で即位した。幼少のため良房が外戚として政治の実権を握った。まもなく良房は摂政に任命された。第56代清和天皇は第一皇子9歳の貞明親王(第57代陽成天皇)に譲位、2年半後に出家、畿内巡幸の旅に入った。丹波水尾の地では、絶食を伴う激しい苦行を行い、水尾を隠棲の地と定めたが、まもなく病により崩御。陽成天皇は生後3カ月足らずで立太子して、9歳で父・清和天皇から譲位される。父帝に
前回の明石を通過する久米八幡のラインから気付いたこと|久米の子の部屋(ameblo.jp)で、奈良の高市郡の越智氏が祀っている天津石門別神社と在南神社をグーグルマップで確認し、在南神社と久米寺を結ぶ道の中間点に、新沢千塚が位置することも気になると書きました。すると、地元の方である天地悠久様が、越智氏の本拠地であった貝吹山城、大伴氏の鳥坂神社の存在、まだ天地悠久様が記事にされていないお考えなどをコメント欄からお知らせ下さいました。そこで、まずグーグルマップで見てから、分かった
3/20㊗️、3/27、4/3、4/17、4/24占いカフェ4/10は休みます。先週、先々週は1時間で3名様お一人20分鑑定させて頂きました。その場合、手相20分+ドリンクで1500円です。来週、再来週は空きあります。お一人でもお気軽にご予約ください。☎️092-946-2517鬼王荘女将原田結実子さんまで
明暦三年一月十八日から二日間、西暦では1657年の3月2日から3月4日まで江戸は大火に襲われました。明暦の大火です。これは、江戸三大火災の一つで最大といわれ、江戸を焼き尽くしました。そして、これにより江戸は防災都市に生まれ変わったといわれています。また、江戸城は江戸時代三度建設されましたが、この明暦の大火で焼失後、天守台は造られましたが天守が再建されることは二度とありませんでした。その明暦の大火で焼失した江戸城の天守の模型は皇居東御苑で公開されています。江戸城天守復元模型-宮内
【食育クイズ:Vol.1572】「京都府」の「嵐山、法輪寺」おさらいクイズ!古代から由緒のある法輪寺の「神使、羊像」ゆかりの「御本尊」様とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}大豆コーヒードリップパ
突然ですが今上天皇の諱(いみな=お名前)をご存知でしょうか?そう、「徳仁」(なるひと)様とおっしゃいます。<以下敬称略>今上天皇は第126代天皇。その前の上皇様は「明仁」(あきひと)。昭和天皇は「裕仁」(ひろひと)。大正天皇は「嘉仁」(よしひと)。明治天皇は「睦仁」(むつひと)・・・あ~もうええわ!とにかく皇室男子の諱(いみな)にはやたらと「仁」の字がつく。今上天皇の弟・秋篠宮皇嗣殿下だって「文仁」(ふみひと)だしね。
3/6、3/13、3/20㊗️、3/27鬼王荘(おにおうそう)の女将さんが占いカフェの新しいチラシを作ってくださいました。古賀市の奥座敷、薬王寺の中でも最も奥に位置する鬼王荘さんは東に向かって流れる川沿いに三方を山に囲まれて立つ歴史ある旅館です。清和天皇の子孫の侍が都から逃れて住み着いたのが古賀市薬王寺だそうで、その侍には「鬼王、京王」という二人の息子があり、そこから旅館名を取られたのだと思います。美味しいお水の湧く薬王寺には県内外から
(京都・吉田神社内にある末社「山蔭神社」藤原山蔭を神として祀る)庖丁式の始祖とされる藤原山蔭、本当のところ庖丁式を創始した記録はみつからない。前回までのこのテーマで記してきた通り、藤原山蔭は藤原北家とはいえ、本流から離れた傍流下級貴族三男としての生まれである。はなばなしく同時期に朝廷政治の中心で活躍し、後の五摂家となる本流の良房や基経に比べると、日本政治史で特筆される事績を残したという事もない。はっきりしている事は、清和天皇の立太子前、8歳の親王時代より近侍として支え続け、近衛
おそらく夕方のニュースでは流されるかもしれませんが、今日・2月8日は一般的にはあまり馴染みがなくなった、針供養が行われる日です。(※関西方面では12月8日が多いそうですが・・・。)この行事は、折れたり曲がったりして使えなくなった縫い針を、豆腐やコンニャクに刺して供養し、神社(主として淡島神社・淡島堂)に奉納するもの。起源ははっきり分かっていませんが、平安時代に清和天皇が針供養のお堂を嵯峨・法輪寺に建立した記録があるそうですので、かなり昔から行われて
本日、2/14、2/28満席2/21空き有り鬼王荘(おにおうそう)の女将さんが占いカフェの新しいチラシを作ってくださいました。古賀市の奥座敷、薬王寺の中でも最も奥に位置する鬼王荘さんは東に向かって流れる川沿いに三方を山に囲まれて立つ歴史ある旅館です。清和天皇の子孫の侍が都から逃れて住み着いたのが古賀市薬王寺だそうで、その侍には「鬼王、京王」という二人の息子があり、そこから旅館名を取られたのだと思います。美味しいお水の湧く薬王寺に
鬼王荘(おにおうそう)の女将さんが占いカフェの新しいチラシを作ってくださいました。古賀市の奥座敷、薬王寺の中でも最も奥に位置する鬼王荘さんは東に向かって流れる川沿いに三方を山に囲まれて立つ歴史ある旅館です。清和天皇の子孫の侍が都から逃れて住み着いたのが古賀市薬王寺だそうで、その侍には「鬼王、京王」という二人の息子があり、そこから旅館名を取られたのだと思います。美味しいお水の湧く薬王寺には県内外から水汲みのお客様もお見えになります。
【食育クイズ:Vol.1515】「京都府」の「人日の節句」おさらいクイズ!1月7日に境内に湧き出る名水を使った「七草粥」が振る舞われる神社とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}たねすはら無添加味
2023年甲斐源氏武田信玄公武田勝頼公御二人の記事を書いたと思いますがHDDを整理していたら10年以上前に山梨県甲府市にある恵林寺さんを訪れた時の写真を見つけたので昨年の駿府城の記事の補足として書くこと煮ました。恵林寺さんは武田信玄公の葬儀が執り行われた寺社さんで武田信玄公没後3年経ち遺言のとおり武田勝頼公の手により葬儀がこの恵林寺さんで行われた場所で
2023年12月25日月曜日曇り今朝の比叡山です。今日はクリスマスですが、京都の北の方では12月25日は、終い天神の日です。北野の天神さんにお店が出ます。下は2東寺さんの21日の終い弘法、上は25日の終い天神です。朝食を済ませ、ゆっくり。BGMは昨日同じセットです。ハイドンです。昨日修理したSP盤のジャケットは完成です。これでて安心して取り扱えます。(笑)昨日背中が抜けていたLPのジャケットですが、取り出し口の上下も裂けていました。パーツを作って、製本糊で補修します。明日
『まんが日本史』で、太政大臣から人臣初の摂政になった藤原良房のその陰謀劇を描いた回がヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想(『まんが日本史』より、タイトル画面)外戚政治で他氏排斥を進めるだけでなく、弟ですら発言力を弱める藤原良房の陰謀がポイントレビュー今回の主役は、摂関政治を始めた”陰謀家”の藤原良房(『まんが日本史』より、弓削道鏡)桓武天皇の子の嵯峨天皇・上皇時代は比較的に平和だったそうですが、藤原氏にとっては煙たい存在だそうで、その嵯峨上皇が亡くなり、仁明・文徳天皇
12月18日[出来事]876年-清和天皇が譲位。貞明親王が践祚し、第57代天皇陽成天皇となり即位する。1695年(元禄8年11月13日)-生類憐れみの令に伴い、徳川綱吉が武蔵・中野村に16万坪の「犬小屋」を設置する。[誕生日]1507年(永正4年11月15日)-大内義隆、周防国の戦国大名→陶晴賢に謀反を起こされ事実上大内家滅亡となってしまった人[忌日]1538年(天文7年11月27日)-松平信定、戦国武将→桜井松平初代。能力は高い人だったかもしれないが結句、当主の
【食育クイズ:Vol.1463】「京都府」の「霊水のある神社」おさらいクイズ!名水百選の井戸があり、鳥羽・伏見の戦いで官軍の本営となった神社とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)
こちらの記事は日本史歴代天皇【第56代:清和天皇】のINDEX記事です平安時代の天皇生後8ヶ月で皇太子となり9歳で即位。27歳で突然譲位し30歳で出家して仏門に帰依したそう※記事の日時=更新日時です※写真や動画の流用は固くお断りします概要在位期間858年10月7日(9歳)〜876年12月18日(27歳)※突然譲位し、3年後出家、さらに翌年崩御誕生850年5月10日崩御881年1月7日(30歳)系譜父:第55代文徳天皇子:第57代陽成天皇宮平
文武両道神社仏閣・パワースポット121…六孫王神社@京都府六孫王神社の見どころは源氏ゆかりの地に咲く鬱金桜とあじさいの名所五重塔で有名な京都の東寺からわずか5分で行ける清和源氏ゆかりの神社。家運隆昌、子孫繁栄、出世開運の守護を司る六孫王神社。清和源氏といえば後代に頼朝、義経、義家、為朝、頼光、義仲など天下分け目の源平合戦を彩った武将を多数輩出、のちに歴史を賑わせた諸大名の始祖。今回は日本史に思いを馳せる、源氏ゆかりの六孫王神社の紹介です。kyoto-hannarism.com六孫王神社
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勝尾寺(かつおうじ)は、大阪府箕面市にある高野山真言宗の寺院。山号は応頂山。本尊は十一面千手観世音菩薩。西国三十三所第23番札所。開山は開成(かいじょう)、寺号は「かつおじ」「かちおじ」などとも読まれる。「勝ちダルマ」が有名である。アクセス|勝運祈願・水子供養・人形供養・大阪観光:::西国二十三番札所勝尾寺|勝尾寺katsuo-ji-temple.or.jp🛵…🚶♀️…ほぼ画像のみですが………続く🙏🏾
もいさんのブログをリブログさせていただきました。リブログした中に『伴大納言絵巻』の後ろ姿の公卿がいます。これは第13~14紙にわたっている上巻最後の場面です。すやり霞の効果によって劇的な場面展開をうながし、応天門炎上の様子を見る「伴善男(とものよしお)」と清和天皇に進言する藤原良房(清和天皇の祖父にあたる)が異時同図法で描かれています。この13・14紙の継ぎ方と、後ろ姿の公卿が誰かについて長い間謎とされてきました。紙継ぎは伴大納言の裾(きょ:束帯着用の時うしろに長くひく下襲〈したがさね〉
2019/02/10配信<第56代清和天皇>別名・水尾天皇〔仙道〕(皇兄)惟喬親王〔母・紀名虎女〕(摂政)藤原良房866年最澄・伝教大使(孫)源経基(清和源氏の祖)
(再掲)本日は正五九ー高幡不動にある源氏の史跡のこといつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!5月28日に書いた記事ですが、お問い合わせがあったので、再掲載致します。「正五九」という考えがあります。古くは旧暦正月、5月、9月は結婚などの御祝い事は慎むなど、控えめに行動した方がよいという月であったため、その災いを避けるために
今回は藤原高子についてまったくの私見で書かせていただくわね。それ誰?と思ってらっしゃる?彼女は9世紀半ばから10世紀初めにかけて実在した女性なんです。その生涯を簡単に紹介するとね↓842年に誕生。25歳の時に清和天皇の元へ入内。その後、2男1女に恵まれ、長男は陽成天皇として即位する。高子は「皇太后」の称号を得て皇族の身分となり、母后としての権力を得た。自ら東光寺の建立に携わり、深く仏道にいそしみ910年に崩御した。かな〜り端
利府町の「染殿神社」が面白い!利府町赤沼地区この神社の名前の由来が面白い9世紀ごろ、後の清和天皇の妹がこの地にきて赤ん坊を生みます村人が親切にし、その変わり裁縫や染め物の技術習字や手芸を教えたとか・・・。由来を知ると面白くなります。地元の人たちが丁寧に神社を守っています。感謝安部孝(あべたかし)ホームページ前宮城県議会議員安部孝(あべたかし)宮城県議会議員の経験を活かし、地域づく
○川伯耆守康昌は石川数正のことである。○川数正がなぜ石川康昌になったのか?それは○川家から代々伝わっている昌がついており、清和源氏源義時流とは我が家がそうだからである。清和源氏源義時流を調べたら○川家のことがでてきて家系は河内源氏源義時流とあり我が家は清和天皇直系である。○川家は蘇我氏、桓武平氏常陸大じょう氏吉田氏一門(常陸○川)、清和源氏、(河内源氏義時流○川氏、清和源氏、(大和源氏源頼親流陸奥○川氏)美濃○川、その他多々あるがこれらは全部我が家の先祖である。尚、この証明は国立古文書館にあ