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以前に浅草の吉原を訪ね、投げ込み寺「浄閑寺」を訪ねる・・・もう六年前ごろでしょうか?遊女たちと一緒のお寺に荷風の文学碑と筆塚があり(墓は雑司ヶ谷霊園にあります)興味を覚えていました。今回は荷風の小説や映画の人気作品舞台「墨東綺譚」旧玉の井や鳩の街を訪ね歩きました映画「墨東綺譚」、お雪さんと俄雨で最初に出会う路地一尺四方の小窓で顔を覗かせる1960年・1992年・2010年に映画化され上記は1992年版で出演者:大江「永井荷風」(津川雅彦)・お雪(墨田ユキ)・お久(宮崎美子)
(永井荷風著『濹東綺譚』木村荘八挿絵8https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/25187)中西アルノがさかんに毒舌ツイートをしたとされるアカウントを中心に、高校2年生後期以降の多感な年頃の彼女の内面の変化を探ってゆこうと思う。私も、偏差値的には共立女子とさして変わらない首都圏の私立中高一貫校(ただし、東京神奈川千葉埼玉の外側にあるため、合格者の学力の分散が大きく、偏差値輪切りにはならない)に通った2児(中西と同じく姉と4歳下の弟)の父であ
関根歌「日陰の女の五年間」年の差二十八歳。芸者寿々竜、二十歳の時に荷風と出会う。荷風に身受けされ囲われたお歌さんは、世帯持の上手なる女。妾宅「壺中庵」も襷姿でまめまめしく荷風を迎える。また、二十一歳で荷風の持たせた、待合「いく代」の経営者となる。それぞれに「別れる理由がなかった」といふこのお二人は睦まじく、また遠く離れて、また近づき…。そして縁遠く。お歌さんは空襲で二度焼かれ、和倉温泉、加賀谷旅館にて働く。やがて荷風の亡くなるを知る。
浅草では「アンヂェラス」や「蛇骨湯」の閉店が決まっているが、かつて永井荷風のお気に入りで断腸亭日乗に何度も記していた「天健」が昨年で閉店してしまったのはショックだったなあ。今は更地になってしまい、自販機の置かれた天健跡を通るたびに、あの抜群に旨いかき揚げの天丼の味を思い出してしまうのだ。店内には荷風や談志師匠の色紙も飾られていたっけ。
芸大美術館(東京藝術大学大学美術館)の「大吉原展」を見たあと、吉原神社などゆかりの場所を散策。その中でも、浄閑寺は端的に当時をしのぶことができる場所でした。お寺の通称は”投げ込み寺”。安政の大地震などで犠牲になった遊女たちが粗雑に投げ入れられたといわれます。単に永井荷風の歌碑があると聞き、なんとなく行ったのですが、予想外に史跡があり↓焦りました。なにしろ16:45に到着し、「17時までには門を閉めますから」、という声。説明文はあとでゆっくり読むことにして、大急ぎで史跡らしきと
朝食は厚切り食パン凹ませたところに、たっぷりチーズ敷き詰めさらにたっぷり玉子にたっぷりベーコン重ねオーブントースターで焼く。半分に切っても具が流れ出さない程度に焼き固めたいのだが、焦がさないように弱火で20分かかってしまった。次回は具を半分に減らそう。今日は上天気で弱風。2月6日にプロの手で高さ3~4mカットしてもらった庭の銀杏の巨木が、早くも新しい枝と葉を茂らし始めた。素人の自分でもどうにか処理可能な高さなので、作業服に着替えて準備。11時半頃、意を決して銀杏の樹に登る
木曜は抗がん剤治療の日でした。血液検査の結果もよかったので昼前から点滴がありました。退屈しのぎに川本三郎さんの「東京つれづれ草」を読みながら・・路地裏散歩の達人が歩いたいろんな東京の街を描いています。川本さんは映画好きだったから私と同じような街と名画座が出てきます新宿といえば「新宿昭和館」・・いつも「網走番外地」や「昭和残侠伝」「緋牡丹博徒」「仁義なき戦い」等が上映されていました。やくざ映画全盛の60年代は個人の力が信じられていたから学生たちはシュプレヒコールを繰
2024年5月5日(定例の番外については朝日俳壇歌壇が休載のため休み。)吉原大門のところにあった元引手茶屋(後注1)「松葉屋」への訪問及びその後の出遭いについては、4年前、1324(思い出ぞろぞろ「吉原・松葉屋」)に記述したところである。(https://ameblo.jp/ao2sai-sekimen/entry-12598298108.html)この度、まったく予期せぬことながら、「荷風全集第15巻」(岩波書店)所収の「葷斎漫
1月29日南千住から気まぐれに歩いていたら三ノ輪の街に着いた。久し振りにこの辺りを駆け足で回ってみることとする。「浄閑寺」吉原の遊女の投げ込み寺で知られる。この山門は江戸時代に建立されたもので、当初は赤く塗られていたそうである。「新吉原総霊塔」この中に無数の遊女たちの骨壺が納められている。通気口からそれを覗くことができるが、写真を撮るのは控えておく。安政の大地震で亡くなった沢山の新吉原の遊女の亡骸が、この寺に投げ込まれる様に葬られた。それから吉原遊郭が
先日、浅草へ行った時のこと。数十年ぶりに六区へ回ってみた。仲見世から伝法院通りを抜け、六区通りに入る。いつの頃からか知らないけれど、六区通りには昭和の浅草で活躍された芸人・文人たちの写真看板が通りを賑わしている。伴淳やコロンビア・トップWけんじに玉川スミさん遊女や踊り子を愛した文人やおいちゃんポンシュウそして寅さんみんな浅草縁の芸人たちさらに、お〜デン助だ数十枚ある浅草芸人看板のうち、大宮デン助の看板の裏側だけが、何故か『予約済』となっている。☟唯一の予約済看板あ