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北米大陸と太平洋を越える夜間飛行は順調であった、窓外はもちろん漆黒の闇。定刻午前5時に羽田空港に機体が降りるのであれば、スポットに接着し降機する頃ようやく陽が昇るはずである。機上の人となった患者さんは、安心されたのか深い眠りについていた。日本に到着後はターミナル間を車で移動し、国際線から国内線への乗り継ぎ、ストレッチャーを組み込んだJAL便で再び1時間の空の旅、伊丹空港へとむかう。帰郷の旅はいよいよ大詰め、伊丹空港からは陸路で関西の病院へ
海外医療搬送の旅はことのほか順調に進んだ、12時間の飛行中、患者さんは特に急変する事もなく安定し、飛行機もトルコ・イスタンブール空港を目指ししだいに高度を下げる。この空港は良く利用する空港であるが、世界東西南北の主要なハブ空港であるため、巨大なイスタンブール空港の近隣には更にふたつの国際空港が設けられている。空港にはトルコの空港救急隊が待機、羽田空港と同様にPBLで滑走路に移動。降機と共に空港内の病院まで搬送、その後、院内で患者さんの管理を続けながら
ニューヨーク2日目、アメリカ北東部の雲ひとつない晴天の中、患者さんが入院している病院へ向けて移動開始。不慣れながら移動には地下鉄を利用、円安の影響によるアメリカの物価高を考えれば、とてもタクシーは利用できない。欧米ではポピュラーな、広い敷地に建てられた閑静な病院。ここで帰国される患者さんの容態確認と、申し送りが行われる。患者さんは翌日、念願の帰郷となるため、高ぶる気持ちが抑えられないようであった。20時間近い海外搬送に備え入念な打ち合わ
患者さんが入院している病院で前日からカンファレンス、既に賽は投げられているが、想定される急変時のあらゆる可能性へを検証する。午前5時、9時30分のフライトに向けて、医師を含めた搬送チームが院内に消えていく。患者さんは、気管内挿管チューブから命をつなぐ呼吸器で管理、他にも大くの医療機器と共に羽田空港へと向かう。出入国・保安等、全ての検査が完了して、患者さんが機内に搬入されるまでの、30分ほどの待機時間が長く感じる、やがてPBLが機体に横付けされ慎重に搭
長期にわたり入院していた病院からの出発の日は、故郷へ帰る希望と長時間の移動への不安が交差する壮途の日であり、別れの日でもある。日が暮れているにも関わらず、在日している多くの同郷者に見送られながら、患者さんは車に収容された。終始パシュトー語や訛りの強い英語が飛び交うが、そのほとんどが「頑張れ」「気をつけて」と言った励ましの言葉である。深夜、羽田出発のトルコ航空便に間に合うよう漆黒の常磐道をひたすら南下、不夜城の国際空港に到着した。この時間ともなれば遅延は無い
JFK空港からの夜間飛行に備え、午後のレイトチェックアウト、患者さんをピックアップするため病院へと向かう。到着日と同じく、再び日暮れニューヨーク、平日なのに、街の賑やかさと華やかさに変わりはない。「日本に帰りますよ」この言葉で涙される患者さんも多いが、今回は満面の笑顔での病院出発であった。日本で言うところの介護タクシーは、今や世界中に存在する、リフト車に乗降しJFK空港に向かった。早めの到着でラウンジ待機、患者さんのもとへは、在ニューヨークの
海外搬送と言えば聞こえが良いかもしれないが、外国からの患者さん移動であっても、県内の移動であっても、帰郷を願う患者さんや御家族の想いに変わりはない。当然、私たちが行う搬送業務も、日々の搬送と同様に進められる。今回、私たちが赴いたのはニューヨーク、マンハッタン、最近では2022年7月にお伺いし、ニューヨークは4度目である。羽田空港から14時間のフライトを終え、ニューヨーク到着は夕方、このままホテルに直行しチェックインとなるが、空港ターミナルのコンビニで見た物
成田空港国際線T-1北ウイング19時到着が定刻のKLM<入国審査の時間を勘案すれば、到着時刻ピッタリに車を付ければ、お迎えは余裕。成田空港からみちのくまでの搬送時間を考えれば移送前に食事をしておいた方が良さそうと、稲敷ICで流出、成田市内へ下道をとろとろと向かった。20分ほど走ると、なんだか面白い看板が目に入った、即決で駐車場へ。元気の良い女将さんに出迎えられ、早速システムの紹介、定食+300円で、ご飯・味噌汁・キャベツ・漬物等が食べ放題。し
今日家の前の道路に民間救急車がとまっていました。民間救急車の文字を見て、アルコール依存症の母を病院へ運んで貰えないか、相談をした時の事を思い出しました。2020年。父が重度のうつ病で入院。父の担当の医療相談員さんに、精神的な病気の人、依存症の人を病院に搬送してくれる民間救急車があると教えて貰いました。そうして、父が入院していた病院にも出入りしていた民間救急車の会社をいくつか紹介して貰いました。私はアルコール依存症の母をどうにか病院にかからせたくて説得をしていましたが、母は病気を認めず