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土日は『アラフォー無職、不妊でバツイチ』だった時代の私の話を更新しております。この話【33話】になります。良かったらお付き合い下さい!→1話はこちら→32話はこちら→自己紹介はこちら私は大きかったので、その時のことを鮮明に覚えてますが、ママの娘は、毎日手作りのご飯だけで無く、手作りのオヤツ、手作りのオモチャまで作ってくれたりしました。◾︎続き→34話はこちら→その時の赤ちゃんがおばあちゃん世代で出てくる23話はこちら→『アラフォー無職、不妊でバツイチの私』シリーズはこち
母が亡くなってすぐは、ただひたすら悲しくて何をしてても涙が出てきた。母の話をする度に泣いて、泣いて、泣いて…1週間くらい経ってからは、後悔の気持ちが大きくなった。あの時、こうしてれば助かって今も生きてるんじゃないか。体調の変化に気付いてあげていれば。旅行に連れて行きたかった。ありがとうって言えば良かった。あの時、あんな言い方しなければ良かった。最後に会った日、お母さんをもっと触れば良かった。最後に会った日、うちに泊まってもらえば良かった。毎日大好きだよって伝えておけば良かった
前回の投稿から6日経っていますが、未だに悪阻という悪阻がないですうーーーーーん、心配胸の痛みはずっとあって、胃痛はだいたい毎日あるんですが、気持ち悪いまではほぼありません赤ちゃんの元気に育ってくれている姿を見れれば、気にし過ぎだな!贅沢な悩みだな!って思えるんですが、ほとんどの妊婦さんが経験してるものをしないなんて、本当に不安でしょうがないただ、うちの母は悪阻がなかったから、家から遠かったけど当時人気だった都内の産院に通えた!(実家は茨城)それがすごく気分転換になったし、楽しみだった
昨日は母と二人きりの夕食で、久しぶりに母から昔話を聞いた。母の話は聞くたびに新たな発見があり、驚かされる。以前は疎開先の岐阜の広場で遊んでいる時に、米軍機から機銃掃射を受けたことで驚かされたが。昨日も何気なく話していた中で、祖父の実家がある山口県熊毛群伊保庄村へ滞在した時の話。終戦から間もない頃、1950年頃だと思うが、そんな時代に東京から山口に行くのはなかなか大変なことだ。「なんで行ったの?」と聞くと、「宝塚の試験を受けて、そのまま足を伸ばして山口まで行った」との