ブログ記事11,088件
夫が亡くなったことで3回忌は、3年じゃなくて2年だと知りました。夫が亡くなって始めて知った事ばかり。日曜日、我が家で3回忌を行いました。夫の法事で親族が集まってくれた。みんないるのにここに夫がいないのは変だなって思えてきてもしかして、この法事は夢でもうすぐ目が覚めて、夫がいた日常に戻れるんじゃないかとお経を聞きながら、そんな事を思っていました。2年たつのに、夫がいないことに慣れない。昨日の月曜日は、夫の命日でした。会社は休みました。家
私と伴侶は法律上は同性です。伴侶はトランスジェンダーです。私たちの年代では、セクマイ・トランスジェンダーとかのそんな言葉もなくそれでもごく普通のカップル、夫婦として30数年、日本の片隅で暮らしていました。とても幸せに。誰よりも幸せに。2021年の12月末にその極上の幸せをあまりにも呆気なく奪われました。膵臓がん、肝臓転移。いきなりの余命3ヶ月の告知。まだ信じられずにいます。それでも、私がブログを続ける(復活)事を望んだ伴侶。ネガティブな思いばかりだけど、ここに吐き出すことにし
海を越えて参加!4月のオンライン飲み会を4月27日(土)開催しました。今回はお久しぶりの方も含め、4名の方にご参加いただきました。2時間とても盛り上がりましたね!お一人はなんと海外移住をしたばかりで、海を超えて参加してくれました!本当に嬉しいことですね。この飲み会で出会った方で、国内移住した方がいて、その方にインスパイアされたとか。彼女の目は本当に自信に満ち溢れていました。自分で自分の住む場所を決められるというのも、シングルマザーの利点と言えるでしょう。
死別の後妻になり14年の月子🌙、今年のはじめに、前妻の忘れ形見二人目(継子次男)を育て上げました。再婚して14年間の間に、単身赴任も5年ありました。単身赴任でなくてもワンオペで5人の子どもを育て、今は実子3人👩👨👩だけをのんびりと幸せな育児をする毎日ですが、夫(50代半ばにさしかかる)からは、女性として見てもらえなくなり(太ったせい🐷)哀しい後妻🍂ですやっと前妻との婚歴(13年)を超えたのに。やっと月子が一番だよと言ってくれたのに。(酔ってたけど)
私が…まさかの先天性難病と判明して…。私が産まれてからず~と……・皮膚科・内科・歯科・産婦人科・婦人科・整形外科・血液内科・血管外科数えたら切りがない。病名を書き出したら切りがない。私が産まれてからは「皮膚科」通いばかりだったと、母は「本当に面倒な子だった」と嫌みばかりを言っていた。私の症状を心配する言葉ではなくて「面倒な子」。母の実家の祖母から聞いた話だと、幼児・小学生~高校生と、私の足は包帯だらけ
外の世界を見ると、比べてしまって羨ましくてしかたない。外は見ない。自分だけの小さい世界だけで生きる。傷つかないように。傷つかないように。夫と死別してからテレビも音楽も離れています。幸せな映像も、悲しい映像も心がかきみだれるから。ニュースはネットで見たい見出しだけ。でもつい読んでしまった。第3子の大学無償化低所得のひとり親手当増額私は正社員で20年働いています。月の手取りは22万。(一般職最高金額なのでこれ以上は上がりません。)子供は小、中学生の2人。両親は県外
東京の病院から県外の自宅まで夫をどうやって連れて帰るか…悲しみも癒えぬまま、また違う現実と向き合わなければいけません東京の病院から自宅までは直線距離でも50キロ以上高速を使うと80キロ以上走る事になります自宅までの距離が遠い事も心配でしたが、私が心配したのは夫が若干規格外なサイズだという事183センチの体重110キロ…ラグビー選手ばりのガッチリ体型病院のご飯がまずいまずいと言っていたのでICUで再開する時痩せ細っていたら…と心配していましたが、全く痩せてなかった夫とりあえず姉と手
家に帰って来た夫のお腹の上には沢山のドライアイスが載せられていましたそれを葬儀屋のおじちゃんが新しい物に交換してくれ「お顔を見てあげて下さい」そう言って夫の顔に掛けられていた布を取ってくれましたすると本当にびっくりしたのですが病院で最後に見た夫は少し苦しそうな顔だったのに、家に帰って来た夫は少し微笑んでいる様な、お釈迦様の様な…本当に安らかな顔をしていました(友人達はせんとくんと言ってました)家に帰ってこられてホッとしてるのね…こんなに焦って帰って来なくても良かったのに…でもお
超超久しぶりに夫の夢を見ました。家族4人で関西へ車で旅行する夢でした。1日は野球観戦で、もう1日はドリカムのライブという設定(ドリカムのライブには行ったことないけど。なぜ?)現地に着いてから、実はホテルを予約してないことが発覚し私がその場でスマホで予約。そして、せっかく野球観戦なのに応援グッズ(ユニフォームとか応援用のバットとか)を家に忘れたことも発覚。それらの不手際に対してどうして私にいつも任せるの!と私が不満を爆発させる夢せっかく家族で夫の運転で出かける
私が生まれて生きて来た、その年数の半分以上も主人と過ごしました。でもそれ、あと数年でそうじゃなくなる…自分だけの時間(人生)になってしまう。それって酷く悲しい。寂しいなって思う。私の人生こんなはずじゃ無かったと、こんなに時間が経ってるのに思ってしまう。そもそも、こんなはずじゃ無かったなんて、どんなはずなのか…そこには何の根気も無かった、自分の思い込み?(勝手な)願望だっただけなんだよね。人生何が起こるかわからないとは言うけれど、まさかまさかこんな、想像だにしなかった悲しい事を体験
夫は60歳になる年に前立腺がんが発覚既にステージ4と言われでも放射線治療ホルモン治療とにかく頑張って5年たってそろそろ前立腺がんの治療も終わりかとそんな矢先に腎盂尿管癌がわかった最初は膀胱がんかと思ったけど聞いたこともない病名医師もなんだかはっきりしない必ず再発すると思ってくれそんなことばかりはっきり言われても腎盂尿管癌が希少癌だとは全然知らなかった10万人に1人だから治療法もはっきりしない予後もよくないそう言われたのかもっとしっかり調べたらセ
私の母は2018年の6月に小細胞肺がんが見つかりました。すでに播種状で脳転移、腰骨にも転移をしていて、ステージ4でした。今思えば、1年前に症状は出ていたのです。2017年の夏、真夏の8月に胸が痛いと言ってカイロを当てていたことがあったのです。風邪のような症状も出ていたので、かかりつけの地元の総合病院に行きましたが、普通の診察で終わりました。ですから、母も私も疲労からきているものと思っていました。3年くらい前からでしょうか。母は祖母の介護で、長い時は月の半分、短くても1週間ほ
高校2年生の冬から始まった私たち。ママチャリに2人乗りして毎日毎日一緒にいた。大好きで大好きで、もう高校辞めて結婚したかった。毎日のバイバイが嫌で嫌で仕方なかった。でも現実的なあっくんはちゃんと高校卒業してから結婚せなやろって言ってた。お金も何もないのにどうするとよ?って。私の母親は勢いで結婚とかしないっていうあっくんを若いのにエラいねって話してた。わがままな私は実は交際2ヶ月でお前のわがままにもうついていけんってフラれた笑でもお互いバイト一緒やし、話すうちに元サヤに。その時に
相方さんについて〔亥年なので〕相方さん【2023年8月末に逝去】40歳約1年の闘病舌癌からの転移・抗がん剤【飲み薬】・手術・抗がん剤【点滴】・放射線・免疫療法・自由診療治療追記↓・胃ろう造設手術在宅介護〔要介護5〕高校時代は体操三昧1回目の結婚〔若くして〕建築系のお仕事から独立して法人経営者趣味で本業とは別に数年前に遊戯施設を手作りお酒もタバコもギャンブルもしない私と出会って亡くなる3ヶ月前に再婚趣味は釣り🎣と、もはや職人なDIYーーーーーーーーーーーー
小5三番目父親を失った悲しみがとてつもなく大きい…それは私はもちろん上の二人や義母、義父も同じだただ三番目はあまりに幼かった…父親が突然亡くなったのは三番目が2年生になったばかりだった先日夫の42歳の誕生日のこと三番目と買い物に行き晩御飯は夫が好きだった丸亀製麺をテイクアウトすることにした父さん好きだったよね今頃この辺で食べてるかな本物食べたかったよね一緒に食べたかったな………そうだね3学期の初めに冬休み中のことを発表したんだみんな家族でどこかへ
腎・アイバンク協会の総会に招待されて行ってきました。ひとつずつ。気持ちの整理が出来たらと。私の住んでいる県。関東で結構人口もいます。夫が亡くなった昨年度、献眼した人9名。献腎した人3名。会長さんから、直接感謝を述べられたり、アイバンクの冊子見たりでなんだか今日はうるうるしがち。アイバンクに登録した人の中で、献眼する人は50人に1人位だそうです。私は子どもたちに、「私が亡くなったら、お願いね」そう伝えてあります。保険証の裏にもサインした。席に案内されて。。一番
2024年3月22日の午後、1週間入院して旦那は息を引き取った。毎日旦那のことを思って泣きながらも手続きや香典返しの手配などできることは進めている。ふと、もし1週間の入院後よくなって退院してたらと思って架空の旦那に向かって話しかけてみた。急に暑くなったよ入院してた時はまだ寒かったよねー無事退院できてよかったよゴールデンウィークの帰省まで何とか体調持ちそう?むなしいと思えばむなしいけど子供もなく1人の私には会話があるのはよいと思った。時々やってみよう。
夫が家に帰ってきた日その日は義母や近くに住む夫の親戚、そして訃報を聞きつけた夫の友人が数組弔問に来られましたやっと一息ついた時には前日の朝起きてから一睡もせずに41時間が経っていましたでもなんだかあっという間に夜になっていて、全くと言っていいほど眠さは感じませんでしたそれでも翌日も朝から葬儀屋のおじちゃんが来る事になっているし、眠くなくても寝なくては…そう思って夫のベッドで眠る事にしましたベッドの中に入って私のスマホに残っている夫の写真を眺めていると、流石に疲れていたのでしょうね…気
夫を亡くしてから、いろいろ考えては後悔ばかりしている私だけど、最近、また新たに後悔が一つ加わった。生前、夫と「死」について考えたり語り合ったりしておけばよかった。夫が亡くなるまで、私は「死」というものについて考えたことがなかった。夫にその時が近づいてきても、まともに向き合わなかった。「死」とは、夫の身に、決して降りかかってはならないものであり、正視するのが怖くて、考えること自体を避けていた。私にとって「死」とは、忌み嫌うものであり、不吉で「縁起でもない」ものであり、思
新年になりました。でも、新しい年になったという感覚はありません。ただ、きーちゃんが居ない。相方で旦那で、私の理解者が居ない。捜しても居ない。遺骨はある。どこかで生きてる気がする。でも、居ない現実。家の中に設置してある防災無線から、ほぼ毎日…告別式のお知らせ放送が流れてくる。そんなものがない地域で生まれ育った彼と私。元旦から放送しなくてもいいのに…。そもそも放送する意味が、私には解らない。私みたいな人が聞くと本当に気分が落ち込む。色々な意味で。この人の半分も生きられなかったな
主人が突然亡くなった時、当時は本当に苦しくて、あの頃は日常の色を失ったどころか、「息をしている自分」さえも感じられず何とかその日その日を越えていた…そんな感じでした。でもだんだん自分の中で思えて来たことは、すごく苦しいのに、とてもとても辛いのにそこを感じなくなる自分も嫌なだなと思うようなことでした。たぶん、その苦しみこそ主人への想いだと、そんなふうに考えていたからと思います。主人を失ったのにサクサク生きれちゃう自分なんて…そんなの、まるで主人のことを想ってないみたいで?例えそれが楽
闘病なのか死別なのか?どっちつかずの拙いブログに今回も訪ねていただきありがとうございます。治療通院日、、院内滞在時間が7時間超え、、シンドい。。2月中旬、、治療通院日でした。1月は正月明けなので患者さんも多く治療の時間がかかります。『年明けの治療通院日、放射線科の診察で決めてる事。。』闘病なのか死別なのか?どっちつかずの拙いブログに今回も訪ねていただきありがとうございます。年明けの治療通院日、放射線科の診察で決めてる事。。先週、年明けの治療…ameblo.jp今月は、9時〜15時ぐ
おはようございます😃今日は雨上がりの朝です。先日までは母が亡くなった時の記憶を書いていましたが、今日からしばらく母を亡くしてから大変だったことを記録していきたいと思います!父子家庭の皆さんにも参考になるところがあるのでは、と思っております!母が亡くなってから最も大変だった事は、、ごはんまずコレです(´-`).。oOうちの母は病気がちではありましたが、体調のいい時はご飯の支度をしてくれて、彩り鮮やかなお弁当も作ってくれていました。母の作ったピカタや、ジャガイモの揚げ物が好きでした。
夫の納棺は葬儀の前日に行う事になりました立ち会いは私と義母の2人です納棺師さんに言われて夫に用意した服は、私の母が昔夫の体型に合わせて作ってくれた作務衣作務衣が欲しいけど身体が大きすぎて着られる物がない夫の為に母が採寸して作ってくれました飲み会などにも作務衣を着ていく程夫も気に入っており、普段着ているTシャツやスエットよりも夫らしいな…と思って決めました納棺師さんからずっと組んでいた手をほぐすように言われたので、義母と私で片手ずつマッサージをして硬直を解いていきました付き合って初めて
高校三年生の長男と二人で車に乗っている時つい愚痴をこぼしてしまった。あなた達が就職して出て行ったらお母さんは一人ぼっちになってしまうと。すると長男は「ボクは結婚してもお母さんと暮らすつもりでいるよ。でも結婚する人と相談しないといけないし…とりあえず結婚してからしばらくは二人でアパートで暮らしたいんだけど。」と。思いがけない言葉に「優しい子に育ってくれたね」と運転中なのに声を上げて泣いてしまった。そして、「◯◯(弟)には、自由にして欲しいと思ってる」と。夫は生前、長男には「
猫のチョコちゃんと一緒に暮らしています。主人亡き後、6年後に先代の猫が虹の橋を渡りました。21才でした。もう……悲しくて・悲しくて・泣きはらう日々でした。その虹の橋を渡った猫は、私にとっては3番目の子供のようでした。21才でしたから当然のごとく我が家の子供の一人みたいな感じでした。主人を亡くして、そして……6年後に我が子であった猫を亡くして…再び私の心が閉じてしまう日々が続いてしまいました。そんな中で…虹の橋を渡った猫を…主人が眠る
4月21日、彼女のご実家を訪ねました。今回は友達夫婦と、彼女の友達で愛知から来た方と一緒でした。こういうところからも彼女の人望の厚さが表れているなと感じます。ご実家に行くと彼女が乗っていた車に会えるので、悲しい思いになります。飼っている金魚たちも元気そうで何よりでした。人が多いと場も賑やかで。彼女も楽しんでくれたかな。彼女が好きだったものについて、新たな発見があり新鮮な気持ちになりました。これは彼女が学生時代に働いていたマックでランチした時の写真です。ここで頑張って働
闘病なのか死別なのか?どっちつかずの拙いブログに今回も訪ねていただきありがとうございます。夫婦、初散歩の日から嫁姑のバトルが!!2017年9月のブログです。妻との朝散歩は亡くなる2ヶ月前の2020年8月中旬が最後となりました。。『嫁さんとウォーキング』腎がん紡錘細胞癌のくつです。9月のある朝の日嫁さんとウォーキングをウォーキング?散歩です。ゆっくり話しながら歩いてます。俺ら夫婦は毎年9月にあ…ameblo.jp話を戻します。。結婚してまだ間もない2001年頃かなぁ?母
相変わらず、ミスの余韻が続いている。あっちから、こっちから横槍が入って、船頭多くて船山に登る。とはこの事だ。なんでこんなにこんがらがっちゃったんだろう激しい怒りが込み上げ、人前でいる時はこの怒りを抑えるのに必死だ。そのくせ1人になれば情けなく、なんでいつもこうなんだろうと自我嫌悪だ。生きていくってしんどいなぁあの子が書いた遺書、そうだ、あの子の遺書には、恨み言など一つもなかった。全ては自分のせいだと書いてあった。こんな遺書、母さんなかなか書けないなぁ
最近胃腸炎だったり人間ドックの結果が色々悪かったり体調は絶不調なんだと思うメンタルから来てるのだろうけどついつい友人と話をしてても「夫が迎えに来てくれてるのかな」「治療する気はなくて早く夫の側に行きたいよ」とか言ってしまうそれを聞いた友人たちは「生きたいと思っても生きられない人がいるんだから」「寂しいからまだこっちにいて」とありがたいしごもっともなことを言ってくれる私を思ってくれるのは本当にありがたいし感謝しかないでもこの死別の苦しみを抱えながら生きてい