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いつもいいねをして下さる皆さん、ありがとうございます!とても励みになっています夫(ポン)の死後間もない頃のことを書いています。ある日の夕食後、母から電話がありました。私と子供達のことを心配して連絡をくれたのでした。少しして、ポンのうつ病の話になりました。その時母が何気なく言った、「入院させてあげてればねぇ。なんでしなかったの?」という言葉が胸に突き刺さりました。聞きたくない言葉でした。もし入院していたら助かったかもしれない、とその頃私も考えていたからです。ポンは亡くなる
闘病なのか死別なのか?どっちつかずの拙いブログに今回も訪ねていただきありがとうございます。今年、初の会話は1月9日。。この日の昼前に闘病仲間の友人からLINEがあった。。昨年11月末から気になっている方がいてLINEを見るまで少し時間がかかる。読むのが怖い。。もしや?まさか?〇〇〇さんの訃報だった。私は、、昼から2020年2月の思い出に浸りながら、、同世代、同じ頃にがんに罹患して戦った戦友になんでやねん!!まだやろうもん!!〇〇〇さんまた今度、、お空の上で飲みましょう。そ
家に帰って来た夫のお腹の上には沢山のドライアイスが載せられていましたそれを葬儀屋のおじちゃんが新しい物に交換してくれ「お顔を見てあげて下さい」そう言って夫の顔に掛けられていた布を取ってくれましたすると本当にびっくりしたのですが病院で最後に見た夫は少し苦しそうな顔だったのに、家に帰って来た夫は少し微笑んでいる様な、お釈迦様の様な…本当に安らかな顔をしていました(友人達はせんとくんと言ってました)家に帰ってこられてホッとしてるのね…こんなに焦って帰って来なくても良かったのに…でもお
同じ死別をした方、私より1年ほど早く独りになった。その方は、今を楽しもうと努力している。車でいろいろなところへ行ったり体を鍛えたり趣味を模索したり私は1年後、そんな風になれてるとは思えなくて人それぞれと思うことにしている。もちろんその方も悲しみに襲われることはあると言う。GWに入り、ラインで話して明日も楽しい一日にしましょうって言われてモヤモヤする私。楽しいってなに?今の私に「楽し
私と伴侶は法律上は同性です。伴侶はトランスジェンダーです。私たちの年代では、セクマイ・トランスジェンダーとかのそんな言葉もなくそれでもごく普通のカップル、夫婦として30数年、日本の片隅で暮らしていました。とても幸せに。誰よりも幸せに。2021年の12月末にその極上の幸せをあまりにも呆気なく奪われました。膵臓がん、肝臓転移。いきなりの余命3ヶ月の告知。まだ信じられずにいます。それでも、私がブログを続ける(復活)事を望んだ伴侶。ネガティブな思いばかりだけど、ここに吐き出すことにし
あと一か月と少しであの日から1年になる。去年の今頃は旦那と一緒にいて〇〇行ったり〇〇食べたりしていた…と言えるのもあと少しなのだ。え…早くない?最近時間が経つのがとても早い。こないだまで冬だったのにもう扇風機出してるし。いつのまにかこんなに時が経っていた。こんな遠くまできてしまっていた。あの頃は1年後なんて想像もつかない遠い未来で一年後なんて私はまだ旦那のいなくなったこの世界にいるのだろうかとそれすら考える
月曜日(4月29日)は、ドッグランのあるケーキ屋さん「パティスリーアヌエット」さんへ。ミルクティーを買ったけど激甘で飲めなかったドッグランで遊んだよ。そのあと「道の駅サシバの里いちかい」へ。おやじのハンバーグで美味しい美味しい「とちおとめシェイク」。私はシェイクとかバニラアイスが嫌いなんだけどこれだけは美味しく飲める。おやじのハンバーグで牛タン弁当を買ってベンチで食べる。牛タンとっても美味しかったー。ご飯がやわらかめなので、そこだけはいつも苦手。ご飯は固めじゃないと食べれな
知り合いが亡くなりました。以前、他の課で働いていた人で一年前くらいに辞めたらしいけど、どんな顔だったかどんな声だったかすぐに思い出せる人です。今年60歳でした。若すぎると思います。彼女の死亡届が提出され、周りもざわつき、私ももちろんびっくりしましたが、周りの人ほどの衝撃がないと言いますか…。夫を亡くしてから、突然のお別れに変な意味で慣れてしまったと言うかそういうこともあるよね、と、すっと受け入れられる自分がいます。他人から見たら、すごく冷めた人だなと思
どうもわたしです先程は凹メンタルにかこつけて大人気ない投稿をしてしまいました誠にかたじけない彼方で父さんに逢えるという事が、今のわたしの唯一の希望であることは間違いないさっきの投稿削除しようかと思ったけどあれもわたしのほんとうの気持ちこころの奥底ではそんな感情もぐるぐると渦巻いているそれもわたしという人間を構成するひとつの要素でもある父さんを納骨した時にはそんな感情に囚われていてほんとに辛かったほんとにほんとに辛かった戒名が並んだ墓誌を見るのも位牌が並んだ仏壇
あなたの人生が終わったことが、悲しく辛いこれは、私が書いたメモ書きでした。仕事のカバンに入れていたメモ書きノートに書いていたようです。書いては破り、その一枚一枚を重ねて「ホチキス」でとめていました。主人が亡くなり…数か月してから書いていたようです。16年前の紙なので、黄色がかっていました。主人は2008年6月6日にお空へ逝きました。そのメモが出てきたのです。年末に……どこにも吐き出せず誰からも、耳を傾けよう
私の母は2018年の6月に小細胞肺がんが見つかりました。すでに播種状で脳転移、腰骨にも転移をしていて、ステージ4でした。今思えば、1年前に症状は出ていたのです。2017年の夏、真夏の8月に胸が痛いと言ってカイロを当てていたことがあったのです。風邪のような症状も出ていたので、かかりつけの地元の総合病院に行きましたが、普通の診察で終わりました。ですから、母も私も疲労からきているものと思っていました。3年くらい前からでしょうか。母は祖母の介護で、長い時は月の半分、短くても1週間ほ
寂しさもレベルがある夫と死別した直後の「寂しい」感覚を思い出すと、本当に心が疼くような感覚が蘇ります。あの時の「寂しい」は、格段にレベルが違います。極度の「寂しい」という感覚。心臓が高鳴ったり、締めつけられるような感覚になったり、息が上がったり…私の場合はそんな感じで、マックスの寂しいとは、かなり激しい感覚です。それが時を経てくると、黙っていても涙が頬を伝うとか、やる気が出ないとか、寂しさからちょっと鬱っぽいような感じで、消極的な感覚。それを繰り返しながら、
闘病なのか死別なのか?どっちつかずの拙いブログに今回も訪ねていただきありがとうございます。治療通院日、、院内滞在時間が7時間超え、、シンドい。。2月中旬、、治療通院日でした。1月は正月明けなので患者さんも多く治療の時間がかかります。『年明けの治療通院日、放射線科の診察で決めてる事。。』闘病なのか死別なのか?どっちつかずの拙いブログに今回も訪ねていただきありがとうございます。年明けの治療通院日、放射線科の診察で決めてる事。。先週、年明けの治療…ameblo.jp今月は、9時〜15時ぐ
夫の納棺は葬儀の前日に行う事になりました立ち会いは私と義母の2人です納棺師さんに言われて夫に用意した服は、私の母が昔夫の体型に合わせて作ってくれた作務衣作務衣が欲しいけど身体が大きすぎて着られる物がない夫の為に母が採寸して作ってくれました飲み会などにも作務衣を着ていく程夫も気に入っており、普段着ているTシャツやスエットよりも夫らしいな…と思って決めました納棺師さんからずっと組んでいた手をほぐすように言われたので、義母と私で片手ずつマッサージをして硬直を解いていきました付き合って初めて
今日は朝から落ち込んでいて早朝からいつもより不安定でした起きた瞬間、主人がいないいつも思うのですが「にこちゃん淋しいよ」って呟いても、余計心がしんどいどうしていいか本当にわからなくてだらだらして心はもやもやしていて淋しいよと言っても吐き気がするだけ私、やっぱり「ごめんなさい🙇にっちゃんにこちゃんごめんなさい」「私を忘れないで救えなかった私でも絶対に忘れないでごめんなさいごめんなさい
夫が家に帰ってきた日その日は義母や近くに住む夫の親戚、そして訃報を聞きつけた夫の友人が数組弔問に来られましたやっと一息ついた時には前日の朝起きてから一睡もせずに41時間が経っていましたでもなんだかあっという間に夜になっていて、全くと言っていいほど眠さは感じませんでしたそれでも翌日も朝から葬儀屋のおじちゃんが来る事になっているし、眠くなくても寝なくては…そう思って夫のベッドで眠る事にしましたベッドの中に入って私のスマホに残っている夫の写真を眺めていると、流石に疲れていたのでしょうね…気
腎・アイバンク協会の総会に招待されて行ってきました。ひとつずつ。気持ちの整理が出来たらと。私の住んでいる県。関東で結構人口もいます。夫が亡くなった昨年度、献眼した人9名。献腎した人3名。会長さんから、直接感謝を述べられたり、アイバンクの冊子見たりでなんだか今日はうるうるしがち。アイバンクに登録した人の中で、献眼する人は50人に1人位だそうです。私は子どもたちに、「私が亡くなったら、お願いね」そう伝えてあります。保険証の裏にもサインした。席に案内されて。。一番
13回忌からの変化昨年夫の13回忌を迎えました。13回忌法要はせず、ただの日常として過ぎました。そして13回忌の節目に、ずっと迷っていた「婚姻関係終了届」を出しました。もう、私は彼の妻ではなく、彼の戸籍から外れたひとりの女性です。その時に感じたことは、なぜこの書類を「出さない」ことにこだわっていたのだろうということでした。出すことが正しいとか、逆に出さないことが正しいとも思いません。ただ、出さないことにこだわっていたのは、一抹の不安みたいなものを持っていたからだと思います。
最近胃腸炎だったり人間ドックの結果が色々悪かったり体調は絶不調なんだと思うメンタルから来てるのだろうけどついつい友人と話をしてても「夫が迎えに来てくれてるのかな」「治療する気はなくて早く夫の側に行きたいよ」とか言ってしまうそれを聞いた友人たちは「生きたいと思っても生きられない人がいるんだから」「寂しいからまだこっちにいて」とありがたいしごもっともなことを言ってくれる私を思ってくれるのは本当にありがたいし感謝しかないでもこの死別の苦しみを抱えながら生きてい
闘病なのか死別なのか?どっちつかずの拙いブログに今回も訪ねていただきありがとうございます。兄貴(友人)から、、あなたと一緒に撮った写真を俺の遺影にするばい。。『たまには、私にも、こんな非日常があっても良いのかなぁ?』闘病なのか死別なのか?どっちつかずの拙いブログに今回も訪ねていただきありがとうございます。『兄貴(友人)と一献、、10年後に、こげぇなぁことになるとは。。』闘…ameblo.jp兄貴(友人)の街、、久留米の文化街で飲む。。今回、写真は多めです。普段撮り慣れてなくて下手
高校三年生の長男と二人で車に乗っている時つい愚痴をこぼしてしまった。あなた達が就職して出て行ったらお母さんは一人ぼっちになってしまうと。すると長男は「ボクは結婚してもお母さんと暮らすつもりでいるよ。でも結婚する人と相談しないといけないし…とりあえず結婚してからしばらくは二人でアパートで暮らしたいんだけど。」と。思いがけない言葉に「優しい子に育ってくれたね」と運転中なのに声を上げて泣いてしまった。そして、「◯◯(弟)には、自由にして欲しいと思ってる」と。夫は生前、長男には「
夫との永久の別れで半身どろこではなくて、全身がそぎ取られたようになってしまった私……まるで…セミの抜け殻のように・・・・人生でこれほどに長く感じた歳月はない。けれど…主人と一緒に生きた年月は、まるで昨日のように想うけれど…それが切ない。お別れの後から続いたあり得ない出来事に翻弄され続いて私は…うつ病になった。そう…2011年の夫の命日の翌日に緊急入院をした。精神科病院に……。今でも通院中です。
わたしたちは、ほとんどの人が死別を経験します。亡くなった方に執着してはいけないと思っても、自分が残された時間を生き抜くためにすがりつかなければやっていけないこともあるでしょう。ただ、どんより悲しみの中で埋もれるより、明るく悲しんだ方が、亡くなった方も気が楽だろうなとも思うので、自分を元気づけて毎日生きています。亡くなった人も気が気でない江原啓之さんの「あの世の歩き方」という本で、大好きな一説があります。江原さんが、夕暮れの中、レンガを積む男の人を見かけた
皆さん、こんにちは癌で配偶者を亡くした同士の同棲も2ヶ月が過ぎましたが、未だにふと不思議な感覚になることがあります。それは、お互いの配偶者の話しを普通に沢山するということ。○○さんはラーメンが好きだったとかこの写真の頃が一番○○さんが幸せな頃だったとか僕も天国の妻のことを当然話します。死別同士は不思議。離婚した元夫や元妻との楽しい思い出話しは普通できないですもんね以前二人でこんな話しをしました。「もしお互い、目の前に天国にいるパートナーが蘇ったら、やっぱり戻るかなぁ」と
仕事で目を酷使してしまうせいか先月は結膜下出血が2回ほどあった。これ多いんじゃないかな・・・痛くもかゆくもないけど、鏡を見る度にガクッとする。血圧は高くないしなんなんだろ。昨日も充血したしそろそろ病院に行った方が良いかもしれない。仕事以外ではなるべく目を休ませたいけどスマホやタブレットは今や一番のお友達だからなかなか難しい。目を休ませようと先日市販のホットアイマスクを買ってみた。あずきのチカラとめぐりズム。いいわー、これ。リラグゼ―ジョン音楽を聴きながら1日2回ソフ
猫のチョコちゃんと一緒に暮らしています。主人亡き後、6年後に先代の猫が虹の橋を渡りました。21才でした。もう……悲しくて・悲しくて・泣きはらう日々でした。その虹の橋を渡った猫は、私にとっては3番目の子供のようでした。21才でしたから当然のごとく我が家の子供の一人みたいな感じでした。主人を亡くして、そして……6年後に我が子であった猫を亡くして…再び私の心が閉じてしまう日々が続いてしまいました。そんな中で…虹の橋を渡った猫を…主人が眠る
昨日は、ボランティアの傾聴の会に行って来ました前回月初めに行った傾聴の会とは異なり少人数の会でした聞き手が4人聞いてもらう側が3人私は一番最初に着いたので2名話を聴いてくださいました早めに着いたのでこちらの縁切りの神様に「この辛い気持ちを断ち切ってください」とお願いしてから…内容を話してただただ傾聴してくれたのですが主人が2014年に多系統萎縮症という難病を患い私がショックを受けて主人に慰
2月19日(月)日付が変わる直前の夜中23時30分ボスミンの吸入をしました。この日は主人が午後まで付き添うことになっていました。私は午前中、末娘(1歳5ヶ月)を保育園に預けに行きました。その時、息子の担任の先生が「最近、息子君の体調はいかがですか?息子君用にお友達が、ひなまつりのお飾りを作ってくれていて、もうすぐ、できあがるんですよ♪」と声をかけてくださいました。息子は年末年始に、一時退院していました。その際、保育園の先生に会いたいと言い、保育園に2度、遊びに連れて行きました
主人が亡くなって一年が過ぎた時、亡くなったという事実もまだまだ信じられてないような中で、一年が経ったことで、“去年の今ごろは居たのにな…”って、それがもう言えないと思った。同じ「居ない」という中にも、去年はいたと思えること、それがせめてもの微々たる慰め?のようだった、まだ近い記憶であったから、「本当に存在していたという事実」を感じられてた…そんな救いの気持ちだったと思う。それから一年どころか、二年三年四年…もうまる六年が経とうとしている。なのに私は、六年前の今頃は確かに居たのにな
私のGWは暦通りです。前半は少し予定を入れたけれど後半は何もありません。(どう考えても後半の方が長いしメインよね)やはりパパがいたらな~と毎年思います。パパを亡くしてから長いお休みの楽しみは残念ながらほぼなくなりましたそんな気持ちの時に何気にインスタ見ていたらママ友が沖縄に行っていた。結婚25周年おめでとうって書かれたデザートプレートの写真見て一気に気持ちが落ちてしまった私には叶えられなかった25周年の結婚記念日・・・(銀婚式)✼••┈┈••✼••┈┈••✼••