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修士課程が終わったので、その対象としていたフィールドではないところへの修学旅行ができるようになりました。4月は10年ほど抜けていた関東へと越山を繰り返しました。伊藤拓也さんの論文を手に上野、武蔵の城を踏み歩いてたのも10年前です。逸る気持ちをリカバリー期間であることを自身に言い聞かせ、楽しみながら見聞を広めることをコンセプトに城は1日3城までと上限を定めて馬を出しました。上旬上野小川城、白井城。小川可遊斎の出自について、栗原修『戦国期上杉・武田氏の上野支配』p.258(
頸城と柏崎を隔てる米山の西麓は、柿崎氏の支配地で、柿崎氏の菩提寺楞厳寺、岩出城、雲門寺、米山寺館があります。米山寺城はその只中にあり、詰めの要害猿毛城をへて柏崎に通じる街道をやくす地にあります。yahoo地図に柿崎氏関連の主な城館、寺院を書き込んであります上越市史叢書9上越の城(以下、上越の城)では、柿崎氏に関係した城であったことは疑いない。天正6年(1578)の御館の乱が始まった時点では、米山寺城・猿毛城は景虎方の上杉憲藤の家臣「しの宮」が支配していた。同年6月上旬・景勝方の上野九兵
城峪城(苫田郡鏡野町久田下原)「作陽誌」は下原城の南二町余りに古城あり、城主不詳と記す。(※美作国の山城より)主郭と西二郭の北横堀西二郭主郭東二重堀切(西)東二重堀切(東)緩傾斜の東二郭東三郭東二重堀切からの北竪堀北帯曲輪北帯曲輪からの北竪堀北西竪堀帯曲輪状の南二郭帯曲輪状の南三郭南二重堀切(北)南二重堀切(南)帯曲輪状の南四郭上がって南東五郭上がって南東六郭上がって南東七郭上がって南東八郭帯曲輪状の南東九郭東堀切南東十郭南東十郭の北竪堀城峪
いやだから、また古道…これとか横堀だったら最高じゃない?やりたい事をやってきた。だいたい、納得した。疲れた…