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満願寺城(松江市西浜佐陀町)『雲陽誌』は、近郷五六ヶ村を領した湯原弾正忠元綱が『出雲国風土記』にいう出島村(七釜大明神)の宮山をその要害としたのが始まりと記している。湯原家の家譜(『萩閥』湯原文左衛門)には、湯原信綱が大永七年(1527)に満願寺城を築城したとあるが、ともに疑わしい。当城が信頼できる史料で確認できるのは、元亀元年(1570)十月二十五日付けの毛利元就・同輝元連署書状(『萩閥』平賀九郎兵衛)からである。ここで元就と輝元は、真山城に拠る尼子方が満願寺山に築城しようとしていること、
鳶ヶ巣城(出雲市西材木町)鳶ヶ巣城は、出雲平野の北方にそびえる、北山山地中央部の標高281mの鳶ヶ巣山に築かれている。この山頂からは、出雲平野はもちろん、遠く西に大社湾、東に宍道湖をも望むことができる。また、山麓には、中世において西流する斐伊川の流れがあり、一大勢力を有する出雲大社、鰐淵寺への参道が通っていた。この城は、十六世紀の初頭の頃から宍道氏の居城であったと言い伝えられているが、永禄五年(1562)毛利元就によって、尼子攻略の拠点として築城された。それは、この地が交通天空軍事上の要衝
宇龍城(出雲市大社町宇龍)当城は、尼子氏か毛利氏の管轄下に、宇龍港と島根半島西岸を制圧する海城として築城されたものと思われる。遺構の特徴から見ると、毛利配下の武将によって最後の改修が行われたのではあるまいか。(※出雲の山城より)主郭主郭の南東部には土塁溜池のような窪みや、複雑な形状の土塁のような物のある北東二郭主郭から北東へ伸びる登り土塁北四郭北西二郭主郭と北西二郭の間の横堀北西二郭西帯曲輪上段北西二郭西帯曲輪下段図では二段だが、実際には段差がなく一段の北西三郭その突き
今回の放浪癖解消徘徊の最大イベントは終了しました。で、つばさの中で宴会準備中。
紀伊国(和歌山県)の山城を攻めました。いちおう熊五郎は出没しない山だと踏んでの出陣です。まぁ山であるかぎり絶対出ないとは言われへんのですけどね。和歌山県西牟婁郡すさみ町周参見紀伊・神田城(かんだじょう)神田城は、すさみ町周参見にある紀伊・周参見城の支城であり、永禄12年(1569)宇都宮勘解由道直によって築かれたと伝わる。その宇都宮氏と言うのは、関東(下野国)の摂関家藤原北家道兼流の流れを汲む下野宇都宮氏の後裔と云われ、織田信長さまに敗れた宇都宮道直が、永禄12年
伊部城(備前市伊部)和気郡伊部村の城館として、『備前記』・『備陽記』では「古城山」、『吉備温故秘録』では「古城」があり、後者は日笠源太、馬場重助が居城とされる。いずれもこの城跡に比定され、宇喜多方が浦上方の守る同城を落とした。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)南東五郭南東五郭南西帯曲輪最上段南東五郭南西帯曲輪上段南東五郭南西帯曲輪中段南東五郭南西帯曲輪下段南東五郭南東四郭南東帯曲輪帯曲輪状の南東四郭帯曲輪状の南東三郭主郭西帯曲輪下段主郭主郭西帯曲輪上
いよいよ、小谷城エリア最後の場所に向かいます。これまた、朝倉氏が築いたとされる陣城で、山崎丸と呼ばれる城砦です。チラ見レポ『10月とは思えない暑さの中で、過酷な山道は堪えました(-_-;』ここのところ、気温の上がり下がりが激しく体がついていくか心配なsunpatsuryoku1号です。そんな私ではありますが、暑い中、この週末に今シーズン初の城巡…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構
大嶽城から、西にある尾根を降っていきます。降りですし、しかもそうキツイくない斜面だったので、疲れはこのあたりで一旦、抜けていた様な気がします。時間としてが30分程度歩いたのでしょうか、そこに、またもや城砦があります。その名は福寿丸です。チラ見レポ『10月とは思えない暑さの中で、過酷な山道は堪えました(-_-;』ここのところ、気温の上がり下がりが激しく体がついていくか心配なsunpatsuryoku1号です。そんな私ではありますが、暑い中、この週末に今シーズン初の城巡…am
基本情報所在地静岡県島田市菊川標高(比高)220m(120m)遺構馬出、横堀、土塁、竪堀、井戸歴史諏訪原城は天正元年に武田勝頼が馬場信春に命じて牧之原に築かせたといわれている。天正二年には高天神城を攻略し、翌三年には長篠城を包囲していたが、織田・徳川連合軍に大敗し遠州における攻守は逆転した。その後徳川家康は諏訪原城を攻略し、この城を「牧野城」と改め、城番をおいて駿河に対する最前線拠点とした。また一年間にわたり駿河進攻の旗印として今川氏真もおかれた。氏真が浜松に移されたあとも定番衆
土居城(松江市上大野町)ここ西光寺の裏山には中世の領主大野氏の居城跡があり、さらに東方にそびえる本宮山(出雲国風土記記載の女心高野)山頂には本城であった本宮山城跡があります。大野氏は平安時代末期に大野庄の荘官として赴任し、さらに鎌倉時代に移り、大野氏は尼子氏から毛利氏の配下となるなか、本宮山に山城を築き大野庄を守り続けましたが、毛利氏内の抗争に敗れ、大野庄拝領から四百年十八代をもって滅亡したとされています。(※現地説明看板より)居館跡だったとされる南麓の西光寺その裏手の説明看板南西畝
丸山城(玉野市八浜町波知)別名:小丸山城『備陽国誌』・『吉備温故秘録』等に記載された佐々木盛綱が居城したとする児島郡波知村の「小丸山城」に本城跡は比定される。ただし、実際は後代のものと考えられる。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)自然地形の東五郭自然地形の東四郭自然地形の東三郭土塁状の東二郭南下の南東曲輪南東竪堀東堀切北横堀北西竪堀群が四条西帯曲輪南西腰曲輪主郭の南竪堀南帯曲輪主郭主郭の西土壇主郭の北東土塁(北部)主郭の北東土塁(東部)
社山城静岡県磐田市にあります😊先日の遠江遠征で、最終日の最後に攻城してまいりました🔥🔥🔥こちらも初めての攻城でした😊社山城の案内看板がある集会所のようなところに、車を停めて行きました。ここが登城口です少し歩くと右側に入る道があります(案内表示なし)間違えると、舗装道をそのまま上がっていくことになるので、注意してくださり⚠️(実際間違えた💦)しばらく行くと案内看板があるので、これがあれば正解です👏👏👏ここから谷間の道を、20分ほど歩きますが💦疲れていたので地味にきつかった…😩ようやく城
鎌掛山屋敷滋賀県日野町にあります。ここは以前に日野町のお城巡りした際に攻城しました😊ただその時は、縄張図もろくに確認もせず攻城したために、遺構などは見落としてしまい😅「うーん何もないなぁ…」で終わっていました💦その後、インスタのフォロワーさんが📮されてて、全然見落としだらけだった…ことに気がついて😭、いつかリベンジしようと思っていました🔥🔥🔥今回ようやく機会があったので、追試してきました👏👏👏まずはここ正法寺に駐車させていただきました🚗さっそくここからスタートします▶️正法寺の入り口
「次の自民党総裁」は高市氏が34%でトップ、小泉氏は25%も自民支持層では逆転【官邸キャップ横堀拓也の世論調査解説】
清常城(加賀郡吉備中央町上加茂)別名:清経城清常城は、天正2(1574)年の毛利勢虎倉攻めの本陣と伝えられる。『虎倉物語』には毛利勢の大将である葛見宮内少輔、青屋与十郎が清常山に陣取ったとあるが、『備前軍記』には藤沢村から上加茂村まで進軍したが、敵兵の姿が見当たらず、夜も明けてきたため一挙に虎倉城に攻め寄せたことがみえ、清常山に陣取った記述は認められない。なお曲輪Ⅰには小石室状の石組と方形の基壇があり、前者は粟屋(青屋)与十郎の首塚と云われている。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備
国ヶ原城(岡山市北区御津芳谷)詳細不明。国ヶ原神社主郭の南西石垣主郭主郭北東上段主郭より高い位置にある北二郭北二郭の中央登り土塁南西横堀南西二郭南西二郭南西帯曲輪国ヶ原城遠望軌跡ログ旧御津郡御津町の城
妙見山城(加賀郡吉備中央町細田)津高郡細田村に所在する城館として『和気絹』では「妙見城」、『備陽記』では「妙見山古城山跡」、『備陽国誌』では「古城」、『吉備温故秘録』・『撮要録』では「明見山城」、『東備郡村誌』では「城址」がみられ、いずれもこの城跡に比定されると思われる。また、これらの近世地誌類は能勢常陸が居城したとされる。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)南東竪堀(堀切?)主郭(久保田神社)西竪堀北西横堀上段北西横堀上段からの北竪堀北西横堀下段北東横堀上段
細田城(加賀郡吉備中央町細田字渋里)故事来歴は不明。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)西横堀下段西横堀下段からの南西竪堀西横堀下段からの西竪堀帯曲輪状の南東二郭帯曲輪状の南西二郭西横堀上段主郭南東曲輪西部土塁のある主郭南東曲輪南部主郭南東曲輪東部主郭北東堀切北東堀切からの主郭北西帯曲輪北西堀切緩傾斜の北西二郭北東堀切からの北東二郭東帯曲輪北東二郭北東二郭と北東三郭の間の堀切北東三郭細田城遠望軌跡ログ旧御津郡加茂川町の城
城戸城(雲南市大東町西阿用小字城戸)西堀切南主郭から東へ下る登り土塁南主郭南主郭の南西土塁中横堀東二郭中横堀東三郭東三郭東腰曲輪東四郭北主郭北主郭の西土塁北二郭登り土塁東五郭東六郭東七郭東六郭北腰曲輪城戸城遠望軌跡ログ雲南市の城
別件ですがお知らせ6月の郷土の魅力再発見!バスツアーの写真が【観光協会だよりvol.30】発行しました|頸城区観光協会|新潟県上越市頸城区へお越しください!に掲載されました。『一年経って』あれから一年。今日は京都にいる。午前中、大学で随分といいことがあってウキウキ。午後、昨年秋学期に頸城で喪失した居場所を提供してくださった(院生のゼミに紛れ…ameblo.jp夏休みで少々時間があり、久しぶりに城記事書きます。(撮影時期が異なる写真が混ざります)松倉城郭群北山城(2
松尾山城(出雲市小境)別名:霜北城・要害城鎌倉時代に小境の地頭として小境二郎の名があり、後に伊東頼明(義明)が城主であった城とされています。また小境二郎は藤原姓で小境二郎信盛と言います。中郡孫六貞経の母は信盛の女です。(※源行近のブログより)南堀切に架かる土橋南堀切北竪堀北畝状阻塞同じく北畝状阻塞北東二郭東竪堀主郭主郭の南土塁東二郭東二郭の南土塁東三郭東四郭東横堀横堀の虎口の蔀土塁大手虎口松尾山城遠望軌跡ログ出雲市の城
双内城(真庭市上呰部字双内)『呰部村誌』では、城主は庄信資の被官である左右地氏とする。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)南出丸南東曲輪群南東二郭南東曲輪群主郭(曲輪Ⅰ)主郭北西帯曲輪西畝状竪堀(最北)西畝状竪堀(北)西畝状竪堀(南)西畝状竪堀(最南)西堀切そして…曲輪Ⅱが見つからない…地形が完全一致する場所が無い?手当たり次第動いて…A曲輪B曲輪B曲輪とC曲輪の間の堀切?C曲輪D曲輪の北堀切?D曲輪D曲輪の東横堀?E曲輪双内城遠望軌跡
鬼山城(新見市唐松字位田)『備中府志』には当城の開基として伊達一族の杉右衛門尉重國及びその弟の重春の両名を挙げている。重國は尼子方の武将として、重春は備中兵乱に際して毛利方として戦い、それぞれ軍功を成したとする。しかしながら本城の縄張りは戦国時代でも最末期の様相を見せるものである。天正11(1583)年当時、本城の所在する唐松は、安国寺恵瓊発給文書により毛利氏と宇喜多氏の間でその帰属が定まっていなかったことが知られる。本城の築城背景として、そうした軍事的緊張を想定さることもできよう。(※岡山
円通山城(新見市大佐永富)別名:円通寺山城・圓通山城『古戦場備中府志』では開基を綱嶋太郎維守とし、児島合戦で毛利家より恩賞を受けた庄右京進が城主とある。『備中村鑑』は「圓通山城」として城主を坂田美濃守と記す。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)円通寺南四郭南堀切南三郭南二郭西帯曲輪南二郭南東横堀東横堀東横堀からの東竪堀北堀切北三郭北三郭の南土塁北二郭主郭円通山城遠望軌跡ログ旧阿哲郡大佐町の城
坂本館(松江市坂本町)詳細不明。西二郭西二郭の西横堀土塁に囲まれた主郭東土塁南土塁南西土塁北西土塁北土塁北東竪堀南西三郭…この片隅に鉄塔が建つ坂本館遠望軌跡ログ松江市の城
仲村城(新見市神郷高瀬字仲村)故事・来歴は伝わっていない。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)北横堀北横堀から続く西帯曲輪北郭北郭南東腰曲輪中央堀切中央堀切からの西竪堀中央堀切からの東竪堀南郭南堀切南堀切からの東竪堀南堀切からの西竪堀仲村城遠望軌跡ログ旧阿哲郡神郷町の城
ぼくがお城の縄張図を摂るようになったのは、当時属していたお城会の「城アニキ」Tさんが、播磨国の城の縄張図・鳥瞰図を描かれる木内内則さんのお話を聴くために市川町の谷城で図を書かれるにあたりボクも呼んでもらったことによる。こののち師匠と慕うようになる木内氏や姫路の研究者Yさんともお会いできたことは大きな喜びであった。城アニキ氏には感謝しかないですね。で、そののちそこでご教授いただいた道具を揃え、初めて一人で図面を摂ったのがここ、加西市の小谷城である。訓みは「コダニ」最初は1/500で摂り、
基本情報所在地京都市左京区大原野石見町標高(比高)80m(2m)遺構横堀(跡)、土塁・私有地のため地権者の許可を得なければならない・西岡と呼ばれていた地域に築かれた館歴史詳しい歴史は不明。小野氏が築城・居城にしていたとも言われるが確実なことは不明。「野田泰忠軍忠状」には、文明元年7月16日に東軍に所属していた野田泰忠が、敵方の上里や井内館と同じく石見の館にも火を放ったと記されている。その後の廃城などは不明。縄張りⅠ郭が主郭となっており北、西、南に土塁が存在するⅡ郭
丸山城(加賀郡吉備中央町吉川字小茂田)鎌倉時代以来、数代の居城であったというが詳しくは分からない。平地にある小規模な城で鎌倉時代の典型的なものといわれる。元亀、天正の頃虎倉城の伊賀出雲守が居城し、後吉川姓を名乗っていた。壕、土塁、古井戸などの遺構をとどめている。(※現地説明看板より)現地説明看板丸山城碑南東横堀主郭主郭内の北東横堀?主郭の南西土塁主郭の西土塁主郭の南虎口西堀跡丸山城遠望軌跡ログ旧上房郡賀陽町の城
上本庄城(松江市上本庄町)別名:城山城『西郷町誌』には隠岐氏の本土での拠点として新庄松崎城を拠点としたとするが、これは松浦千足「佐々木隠岐守源為清」(『隠岐郷土研究』一号)や、『陰徳太平記』(隠岐国合戦之事)によるものと思われ、地元での聞き取りをもとにしたとする。松崎城は新庄町の低丘陵地で、現在は開墾により正体がない。他に近隣では新庄城山城が中海に面して存在するも、規模が小さい。そのためこの地域の中心的城郭としては、やはり上本庄城であったといってよいであろう。尼子勝久らが出雲へ上陸し、元亀