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修士課程が終わったので、その対象としていたフィールドではないところへの修学旅行ができるようになりました。4月は10年ほど抜けていた関東へと越山を繰り返しました。伊藤拓也さんの論文を手に上野、武蔵の城を踏み歩いてたのも10年前です。逸る気持ちをリカバリー期間であることを自身に言い聞かせ、楽しみながら見聞を広めることをコンセプトに城は1日3城までと上限を定めて馬を出しました。上旬上野小川城、白井城。小川可遊斎の出自について、栗原修『戦国期上杉・武田氏の上野支配』p.258(
いやだから、また古道…これとか横堀だったら最高じゃない?やりたい事をやってきた。だいたい、納得した。疲れた…
筒井順慶がこの城を拠点に攻勢に出る松永弾正さま劣勢に陥る椿尾上城後編です。城は順慶が攻勢に出る際に大改修されたと云う。洞ヶ峠はもっと後である。東郭群を攻め申す。案内板はないのに記念柱がありました。足軽小学生よ山城で萌えよ東郭群西から東への尾根を加工した4連続段郭があります。その北側の通路を行く。1段目と2段目の段差部。虎口からの横堀か?2段目とその先の3段目。間に割目がありそうです。段郭をちょん切る大堀切。かっけーぞ順慶角度を変
このところ雨続きで出陣出来ぬでおった。やっと春めいてきて、出陣を目論んでいたが・・・またまたまたまた腰をいわしてしもたぁぁぁ~直立できね~3月は未攻城になってしもた2月の終わり大和国の城攻めです。奈良市北椿尾町字城山大和・椿尾城(つばおじょう)別名:椿尾上城椿尾城(椿尾上城)は天文年間(1532~1555)に筒井順昭(順慶の父)(愛称・元の木阿弥)が、本城である筒井城の詰城として築城したとの説もある。永禄3年(1559)松永弾正久秀さま(愛称・ボンバー弾
普通@600小町の郷公園のある横堀駅の人気ラーメン店。店内にメニューはなく、普通と大盛のみ。夏は冷やし中華、冬は味噌が限定提供されるらしいが、メニューが無いのでなかなか気難しい。こちらは1973年創業の老舗。県南ご当地の焼いたラードで油膜の蓋をしたラーメンを油田系と言うらしい。長寿軒@湯沢(1960年創業)がその代表格。醤油スープに油層ができている。中細縮れ麺は、地元寿々喜製麺製だそうだ。固叉焼1片、メンマ、麩、たっぷり刻み葱、海苔1片。平笊でテンポ良く麺上げしている。案
鍋子城(赤穂市東有年字谷口)別名:谷口城・大鷹山城『播磨鑑』によると「この城には岡豊前守居住す。其後小河丹後守居住し、又その後赤松の家臣富田右京、六町川上、八幡山に城を築いて居住す。浦上宗景が為に亡さる」とある。しかし『岡城記』によると、岡豊前守は赤松の家臣で、矢野荘の地頭として下土井の大田林山に城を築き城主となったとあり、さらに、岡氏13代の城主の事蹟が記されているが、鍋子城の城主になった記録は見当たらない。那波家文書の中に、天正八年(1580)宇喜多氏の所領となった赤穂郡の領主の名が記さ
大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中約1ケ月の中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。<「家康」等の出来事>昨日も、以下の出来事を記載しましたがもう一度復習しておきます。「小牧・長久手の戦い」で「織田信雄」が「秀吉」と和睦に応じてしまったことで、梯子を外された「家康」は、一旦
烏山城を初めて訪れたのがいつだったか覚えていない。伸び放題の木々が日差しを遮り、周りは藪だらけだった印象はある。そのころと比べると、所々間伐され、藪も取り除かれて、人の手が入った感はある。それでもまだ鬱蒼としている。ここを何度か訪れているが、ここで人と出会ったことはほとんどない。本丸の西側、若狭曲輪や西城は長い間ヤブが人を遠ざけていたのだろう。今は歩くのにそれ程支障はないが、道らしい道は見当たらない。落ち葉が積もったふわふわした地面を。図面を見ながら大体の見当をつけて進む。西城と
1/14(日)の城友との播磨・西播磨山城巡り、3城目は「仁位山(にいやま)城」(兵庫県佐用郡作用町)へ向かいました。当城のある場所は西播磨ですので、「香山城」から約1時間弱かかり15時50分近くなっていましたが、幸いにも、獣柵を開けて車は工事用道路を走って展望台近くの駐車場まで行くことが可能でした。快晴でしたので、16時前でもまだ明るかったですが、半時間で見終えようと決めて急ぎました。「仁位山城」の歴史と城主ですが、1577年の「上月合戦」で「安藤信濃守」が拠ったと「赤松播備作
あけましたぁー遅くなりましたが。。。あけましておめでとうございまする本年もよろしくなりなぁー今日は、兵庫県の小谷城へ行ってきたお話らよ??又、歴史の説明は苦手なので看板貼り付けときまする車停めて、小谷城までにこんなお寺があるよ??そして、小谷城へ到着ここは、横堀が素敵なお城になりまする🏯素敵れしょ??ここは虎口ここは入らずに奥の堀切へ向かいます。橋はかかってるなりが。。。とても素敵な堀切なりよここは西小丸跡五の丸跡上からの横堀このだんだんだーーんはよか
1/6(土)に「青春18きっぷ」5回目を使って白浜方面へ「お城巡り」に出かけ、1城目は「紀伊田辺駅」で乗継時間待ちで途中下車して向かった「紀伊田辺城」でした。「紀伊田辺駅」から「串本行」に乗車して「白浜駅」を通り越して「紀伊日置(ひき)駅」で下車しました。勿論無人駅で、駅舎はありますが誰もいない駅です。ここから「日置川」沿いに歩き、川を渡る橋から左手を見るとこれから登る「八幡山」が見えてきます。後ろの連山に比べるとそんな高さは無いようです。JR「紀伊日置駅」↓「安宅八幡山城」
朝倉城レポ第9弾です。その8のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その8』朝倉城レポ第8弾です。その7のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その7』朝倉城レポ第7弾です。その6のレポ『21.12.30…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
〈速報〉本日(1/6)は、5回目の「青春18きっぷ」を使って白浜方面へ「お城巡り」に出かけました。5回目のスタンプを押した「青春18きっぷ」↓朝5時半、真っ暗闇の中、家を出て6時24分に大阪駅から環状線に乗車、天王寺、日根野、和歌山、御坊、紀伊田辺で乗り換え、紀伊田辺では乗換え待ち時間50分を使い、「田辺城」(和歌山県田辺市)の「水門」を見学する為に往復40分歩きましたので汗タップリかきました。「田辺城水門」↓その後、紀伊田辺駅から紀伊日置駅まで乗車して、いよいよ目的
朝倉城レポ第8弾です。その7のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その7』朝倉城レポ第7弾です。その6のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その6』朝倉城レポ第6弾です。その5のレポ『21.12.30…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
あけましておめでとうございます。歳越しで風邪ひいてましたまだ余韻がぁ~今年もウダウダと記事を更新していきますので、またよろしくお願いします。2024年1発目は去年11月30日~12月1日の紀州攻め+伊勢の1城からです。どうやら最初に攻めた京城が偶然にもブロ友のひっくんと被りそうであり、編集にも手こずってることもあり、ぴゃっぴゃっぴゃっと編集できた2城目に攻めた鵜殿城を先に参りたいと思います。三重県南牟婁郡紀宝町鵜殿紀伊・鵜殿城(うどのじょう)築城年数は定かではないが
朝倉城レポ第7弾です。その6のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その6』朝倉城レポ第6弾です。その5のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その5』朝倉城レポ第5弾です。その4のレポ『21.12.30…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
柏原城(たつの市新宮町奥小屋字護り尾/宍粟市山崎町金谷)別名:水谷城『播磨鑑』によると「城主は早瀬帯刀正義、「同構居」柏原三郎頼宗」とあるが、築城年代は明らかでない。天正八年(1580)落城とある。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)北東腰曲輪下段北東腰曲輪上段北東堀切北帯曲輪上段北東部東二郭東帯曲輪北帯曲輪上段北帯曲輪中段北帯曲輪下段東二郭東二郭南西腰曲輪東二郭南帯曲輪東二郭南横堀主郭南横堀主郭と東二郭の間の堀切主郭北横堀主郭東腰曲輪主郭主郭北腰曲輪主
朝倉城レポ第6弾です。その5のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その5』朝倉城レポ第5弾です。その4のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その4』朝倉城レポ第4弾です。その3のレポ『21.12.30…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
朝倉城レポ第5弾です。その4のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その4』朝倉城レポ第4弾です。その3のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その3』朝倉城レポ第3弾です。その2のレポ『21.12.30…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
朝倉城レポ第4弾です。その3のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その3』朝倉城レポ第3弾です。その2のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その2』朝倉城レポ第2弾です。その1のレポ『21.12.30…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
朝倉城レポ第3弾です。その2のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その2』朝倉城レポ第2弾です。その1のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その1』新型コロナの猛威も一旦和らいでいた、2021年の暮れ。再び、…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
朝倉城レポ第2弾です。その1のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その1』新型コロナの猛威も一旦和らいでいた、2021年の暮れ。再び、城に行こうと思い立ちます。しかも、一泊の予定で。ただ、四国島外に出る勇気はまだありません。10月の…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
昨日(10/19)の大阪府北摂にある「山城」への登城2城目は「上杉城」(大阪府豊能郡能勢町上杉)です。この城もメジャーではありませんが、少し技巧的な箇所があるとかで楽しみに縄張り図を予習していました。1城目の「片山城」からは国道173号線に戻り、「道の駅能勢の郷」手前を左手にドンドン山の方へ入っていきます。少し道が出張っている所に「上杉稲荷神社」が建っていますが、そこが「上杉城」の最南端となる場所のようです。「上杉城」遠景↓しかし登城口がある場所は、もう少し北上して段々畑の脇
三河古宮城の整備活動に参加。作手、思いがけずも4年ぶりの訪問になりました。草刈り部隊を枝拾い部隊の私が撮影(撮ってないで仕事しろ)この監視状況、古宮城はやはり凄い。大手出入口脇の小郭(ふたりは亀山城見ながら想いを語り合っている)そこに知ってる人がいて、その人たちが自分を仲間として許容してくださって、私にとって城は孤高な対象なのだけれど作手は違う。原田先生、ありがとうございました。城に行って温かい気持ちになるって、ますます嵌ってまう。危ないじゃん。
柏原城(宍粟市山崎町金谷・釜谷字石ヶ谷/たつの市新宮町奥小屋字譲り尾)別名:水谷城『播磨鑑』によると、「城主は早瀬帯刀正義、「同構居」柏原三郎賴宗」とあるが、築城年代は明らかでない。天正八年(1580)落城とある。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)北東腰曲輪下段北東腰曲輪上段北東堀切北帯曲輪上段東二郭東帯曲輪再び北帯曲輪上段北帯曲輪中段北帯曲輪下段東二郭東二郭南西腰曲輪東二郭南帯曲輪東二郭南横堀主郭南横堀主郭と東二郭間の堀切主郭北横堀主郭東腰曲輪主郭
旧浜離宮庭園の横堀を東から眺めます。横堀の先に見えるのは?小覗と言われるカモの監視所です。その昔、囮のカモを使って猟をしたのだそうです。横堀に架かる海手お伝橋(うみておつたいばし)です。
兵庫県姫路市香寺町恒屋播磨・恒屋城(つねやじょう)別名:高丘城、中島城恒屋城は十五世紀中頃の嘉吉や長禄期あたりに恒屋伊賀守光氏(播磨守護職赤松氏の家臣)(その先代の重氏が初代城主とも)が築城したと考えられる。その後天正期の五代政直の頃に信長さま中国方面軍司令官羽柴秀吉による中国遠征があり、恒屋氏は周辺の諸城と共に毛利方の立場をとり、秀吉方の軍に備えた。同四年(1576)押し寄せる秀吉軍の前に、置塩城主赤松則房が開城し、翌五年には恒屋城は、田野城、矢田部城などと同じく落城していった。
一昨日(6/20)、我が家から車で30分位北に向かって走り「余野(よの)本城」(大阪府豊能郡豊能町)という山城に登城しました。「余野本城」の城主と歴史についてですが、1185~1190年間に城主は「能勢氏」の一族だった「余野氏」が築きましたが、応仁の乱によって廃城となり、その後、近くに「余野城」を築いたと伝わります。「余野城」は戦国時代に築かれ、そのころには能勢において「能勢氏」「野間氏」と共に有力惣領となりました。その後天正年間に「余野城」を築いた「余野頼幸」は、近隣の「高山右近」