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「古今相撲評話」の記事より、20代横綱二代目梅ヶ谷藤太郎と19代横綱常陸山谷右衛門の本場所全取組十五番を紹介します。梅ヶ谷は常陸山の4歳年下で初顔合わせ時は満20歳。通算成績は梅ヶ谷の3勝7敗5分、大関・横綱同士としては3勝3敗4分でした。梅ヶ谷は、若年期には常陸山に歯が立ちませんでしたが、全盛期に入り梅・常陸で東西の大関、横綱を張り合うようになると、実力は互角(力の常陸、技の梅)と言われるようになりました。常陸山と梅ヶ谷の三段構え(明治42年頃)1.明治31年5月場所
昭和60年発行「梅ヶ谷伝」(堀田次修著)より一部加除一.生いたちと生家入門のころの梅ノ谷(押田音次郎)<梅ヶ谷伝より>明治大正の両時代にかけて、史上最年少で大関・横綱に昇進し梅・常陸と称される空前の黄金時代を築いて遂には相撲常設の国技館建設に至らしめた第20代横綱二代目梅ヶ谷藤太郎は、明治11年(1878年)3月11日、富山県の旧中新川郡西水橋町大町(現在の富山市水橋大町:生誕時は越中国新川郡西水橋)において、父押田喜平、母ふさの四男として生まれた。幼名は音次郎。家は売薬と
昭和60年発行「梅ヶ谷伝」(堀田次修著)より一部加除六.梅ノ谷から梅ヶ谷へ常陸山と梅ヶ谷の仕切り姿(明治36年熊本の吉田司家にて)梅ノ谷は明治32年(1899年)1月場所で小結、同年5月場所で関脇に昇進すると、翌33年1月場所後には満21歳10か月の若さで大関となった。※昭和36年大鵬が21歳で大関になるまで最年少大関の記録を60年間保持していた。明治34年(1901年)5月場所、梅ノ谷は初めて宿敵常陸山に土をつけた。常陸山は31年1月場所に帰参して以来昇天の勢いにあ
関脇玉椿憲太郎■生い立ちから幕下時代まで明治大正の両時代にかけて、20代横綱二代目梅ヶ谷藤太郎、22代横綱太刀山峰右衛門、小結緑島友之助とともに越中出身四大力士の一角を占めた関脇玉椿憲太郎(たまつばきけんたろう)は、明治16年(1883年)11月10日、富山県の旧中新川郡水橋町上砂子坂(現在の富山市水橋上砂子坂:生誕時は富山県上新川郡下条郷上砂子坂村)で農業森野豊次郎の二男として生まれた。本名は森野健次郎(もりのけんじろう)。父と兄が土地相撲の強者だったことから、