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常陸山・梅ヶ谷や太刀山の時代、大相撲の本場所には、仕切りの制限時間がなく、仕切り線もありませんでした。また、土俵の内径は今より狭い十三尺(約3.9㍍)でした。※昭和3年(1928年)1月から大相撲のラジオ中継が始まったことに伴い仕切りに制限時間が定められ、同時に仕切り線が設けられた。また、昭和6年(1931年)5月場所から土俵の内径が十五尺(約4.5㍍)になった(二重土俵の内側の土俵を撤廃)。大正10年5月場所の仕切り風景<日本相撲協会webサイトより>当時は仕切り線がないので、
「古今相撲評話」の記事より、20代横綱二代目梅ヶ谷藤太郎と19代横綱常陸山谷右衛門の本場所全取組十五番を紹介します。梅ヶ谷は常陸山の4歳年下で初顔合わせ時は満20歳。通算成績は梅ヶ谷の3勝7敗5分、大関・横綱同士としては3勝3敗4分でした。梅ヶ谷は、若年期には常陸山に歯が立ちませんでしたが、全盛期に入り梅・常陸で東西の大関、横綱を張り合うようになると、実力は互角(力の常陸、技の梅)と言われるようになりました。常陸山と梅ヶ谷の三段構え(明治42年頃)1.明治31年5月場所
第七十五代横綱大の里、誕生見込み🐣(出てきたヒヨコ絵文字をそのまま使います)あぁ、いい感じだなぁ、と思いまして第三十五代横綱双葉山定次。空前絶後【六十九連勝】第四十五代横綱若乃花幹士(初代)。言わずと知れた【土俵の鬼】第五十五代横綱北の湖敏満。最年少で上り詰めた【昭和の大横綱】第六十五代横綱貴乃花光司。誰もが知る【平成の大横綱】さらに、第五代横綱小野川喜三郎『谷風梶之助』と並び綱を張る第十五代横綱梅ヶ谷藤太郎(初代)『明治の大横綱』であり、長寿記録も持
3月22日(土)、和歌山県の新宮に向かう途中、JR紀勢本線大内山で途中下車し2時間程を過ごした後は(因みに15時前後に大内山を通過する筈と思っていた名古屋発紀伊勝浦行特急「南紀5号」はこの日は伊勢鉄道河芸構内でのポイント故障の為桑名で運転取り止めとなったとか)、『弥生の伊勢・紀伊・大和2025(壹):紀勢本線大内山駅』和歌山県の新宮に向かうべく、3月22日(土)、新横浜から、9時13分発のJR東海道新幹線東京発新大阪行臨時「のぞみ317号」に乗車。乗った車輌は高校生達で一杯…ameblo.j
関脇玉椿憲太郎■生い立ちから幕下時代まで明治大正の両時代にかけて、20代横綱二代目梅ヶ谷藤太郎、22代横綱太刀山峰右衛門、小結緑島友之助とともに越中出身四大力士の一角を占めた関脇玉椿憲太郎(たまつばきけんたろう)は、明治16年(1883年)11月10日、富山県の旧中新川郡水橋町上砂子坂(現在の富山市水橋上砂子坂:生誕時は富山県上新川郡下条郷上砂子坂村)で農業森野豊次郎の二男として生まれた。本名は森野健次郎(もりのけんじろう)。父と兄が土地相撲の強者だったことから、
以下、二代目梅ヶ谷に関する私(のぼこ)の愚考です。1.梅ヶ谷の評価について二代目梅ヶ谷藤太郎は、梅ノ谷音松として満19歳で入幕して間もない頃から、4歳年上の常陸山と激闘・名勝負を重ね、当時の最年少記録(満25歳)で常陸山とともに横綱に昇進してからも優秀な成績と功績を残し、後世、立派な「名横綱」(A級横綱)として評価されています。しかし、いまひとつ評価が足りていないようにも感じます。おそらくその要因は、①身近にいた大横綱たちと比較されること②横綱時代後半は大砲以上の「分
昭和60年発行「梅ヶ谷伝」(堀田次修著)より一部加除■梅ヶ谷と故郷水橋故郷への凱旋<■越中横綱伝より>・梅ヶ谷が郷里へ錦を飾る意味合いもあって東京から水橋へ直行の巡業がやって来たことがある。力士ののぼり旗が数十本立ち盛大だった。東京から直行の地方巡業は稀なことだった。実父喜平、継母さと子ほか押田家の人々と<梅ヶ谷伝より>・水橋中町の日枝神社に「敬神」と書いた梅ヶ谷の額がある。それには本人の字で「十九世(横綱)梅ヶ谷」とある。梅ヶ谷は20代横綱だが
昭和60年発行「梅ヶ谷伝」(堀田次修著)より一部加除十一.幕内在位18年遂に引退へ横綱二代目梅ヶ谷藤太郎<wikipediaより>明治42年6月の夏場所、32歳になった梅ヶ谷は、衰退のきざしを見せ始めた。攻撃よりももっぱら防御の取り口になった。この場所は5勝5分に終わった。次の場所以降は持病の座骨神経痛に悩まされ休場することが多く、たまには横綱の貫禄を示した相撲は見られたが引き分け相撲が多くなった。それでも地方巡業には看板の横綱が休んでは興行成績に影響すると病気を
昭和60年発行「梅ヶ谷伝」(堀田次修著)より一部加除八.梅・常陸全盛時代を築く横綱二代目梅ヶ谷藤太郎<■越中横綱伝より>明治36年(1903年)6月常陸山、梅ヶ谷の両大関がそろって横綱となり、両国近辺の店では番付や両力士の浮世絵が飛ぶように売れ、いわゆる「梅・常陸時代」と言われる相撲史上空前の黄金時代を迎えた。富山市水橋町の素封家出身の梅ヶ谷と、水戸市の旧武家出身の常陸山はともに当時の角界では珍しいインテリであり、好一対と言われた。昭和28年5月相
昭和60年発行「梅ヶ谷伝」(堀田次修著)より一部加除六.梅ノ谷から梅ヶ谷へ常陸山と梅ヶ谷の仕切り姿(明治36年熊本の吉田司家にて)梅ノ谷は明治32年(1899年)1月場所で小結、同年5月場所で関脇に昇進すると、翌33年1月場所後には満21歳10か月の若さで大関となった。※昭和36年大鵬が21歳で大関になるまで最年少大関の記録を60年間保持していた。明治34年(1901年)5月場所、梅ノ谷は初めて宿敵常陸山に土をつけた。常陸山は31年1月場所に帰参して以来昇天の勢いにあ
昭和60年発行「梅ヶ谷伝」(堀田次修著)より一部加除■怪童対決梅ノ谷音松14歳の一人土俵入り(明治27年春斎=枝年昌・筆)明治27年(1894年)1月場所、序二段梅ノ谷の初日の相手は、大達(おおだて:元大関で初代梅ヶ谷の好敵手だった)の秘蔵弟子で鬼童丸という梅ノ谷よりも一層大きい剛力無双の怪童だった。その割りが出ると観客よりも親方同士の力こぶが大変で、各自「俺のところの坊主が強い」「いや俺のところの奴(やっこ)が勝つ」と大騒ぎ。剣山、鬼ヶ谷などは自分の教え子である梅ノ谷に勝たせ
昭和60年発行「梅ヶ谷伝」(堀田次修著)より一部加除一.生いたちと生家入門のころの梅ノ谷(押田音次郎)<梅ヶ谷伝より>明治大正の両時代にかけて、史上最年少で大関・横綱に昇進し梅・常陸と称される空前の黄金時代を築いて遂には相撲常設の国技館建設に至らしめた第20代横綱二代目梅ヶ谷藤太郎は、明治11年(1878年)3月11日、富山県の旧中新川郡西水橋町大町(現在の富山市水橋大町:生誕時は越中国新川郡西水橋)において、父押田喜平、母ふさの四男として生まれた。幼名は音次郎。家は売薬と
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳7.土俵上の成績常陸山引退相撲の土俵入りで太刀持ちを務める(大正3年)以下に渠(きょ:三人称の代名詞:本書では太刀山を指す)の土俵上における成績を年代的に表示しよう。(1)明治32年2月、年齢23歳にして力士となり、同年5月、翌33年1月の二場所は負傷と病気のため休場し、33年5月、24歳にして幕下に付出され同場所に全勝してレコードを破る。幕下付出(明治33年5月)の頃(2)34年1月、初めて番付に入り、十枚目下幕下
(前回「熊野古道:大内山から梅ヶ谷へ」より続く)梅ヶ谷駅は、1965年の開設。駅西のやはしら公園には、駅を記念し建立された句碑がありました。「牟婁越えて鶯きくや梅ヶ谷」また、やはしら公園の南には、八柱神社。現地に立つ「八柱神社由緒」によれば、江戸時代以前には「二天八王子社」と称されていたものを、明治に入り「八柱神社」と改称、また村内の神社を合祀したとのこと。この地はまた、ツヅラト峠に向かう古道と紀州藩が
国内最高齢の男性が大正2年生まれの神奈川県男性と発表された。とうとう明治生まれの男性がいなくなった。ここで大正2年の相撲界がどんなところだったか見てみたい。概略を述べると、梅常陸の黄金時代の主役であった梅ヶ谷常陸山は既に衰えが濃く、次代を担う力士として太刀山、西ノ海、鳳、駒ヶ嶽、朝潮といった力士が台頭していた。このうち駒ヶ嶽は番付こそ大関であったが既に力量は下り坂、大正3年の巡業中に豪酒が祟って急死する。常陸山と梅ヶ谷はそれぞれ大正3夏、大正4夏に引退する。優勝制度以降の優勝は
5月26日(金)、午前のうちに仕事を片づけ、午後から就労メンバーで外出しました。川にはたくさんの沢ガニやカエルが。さらに歩いていくと、洞穴の先にトカゲもいました。「足湯~」と喜んで川に足をつけていた付近には「熊注意」の看板が気をつけながらの散策は、その効果もあってか涼しくて最高でした。
94年前の昭和3年6月15日、横綱初代梅ヶ谷、年寄雷こと小江藤太郎が亡くなった。享年84、満83歳だった。3月頃より健康がすぐれず、4月に至って危篤状態。しかし持ち前の体力気力からか危篤から脱していた。朝日新聞6月16日より。「さきに一度危篤に陥り、その後静養中であった明治初年の東京相撲横綱小江藤太郎翁はまたも病勢昂進し、15日午前8時本所区小泉町の自宅で永眠した。病名は老衰病とのことである。」彦山光三によれば前年12月に雑誌「日本魂」の取材のため自宅を訪ね、このほど雑誌ができあがった
昭和3年6月15日初代梅ケ谷の小江藤太郎没。弘化3年生まれの満83歳3か月。栃ノ海が間近まで迫ったが昭和初めの長寿ながらいまだに破られない横綱の長寿記録である。読売大相撲38年1月号にその梅ケ谷を晩年に訪問した彦山光三の回顧がある。「昭和2年の今時分(12月)であった。その日の昼過ぎ彼を自宅に訪ねた。関東大震災後のバラック立てであった。はきはきした23.4ぐらいの娘が取次に出た。(2代梅ケ谷の娘だったかもしれない)養子の梅ケ谷が急死したばかりでもあり、妻女、彼の娘のせんの不始末やら、なに
熊野古道伊勢路もいよいよ南下へ。毎度二日酔いで朝からやる気がもうひとつですが1か月に一度のことですのでなんとかがんばって歩きます。第一回目で伊勢柏崎から荷坂峠を経由して紀伊長島まで歩きましたが今回はもうひとつのルートのツズラト峠越えで紀伊長島まで歩きます。ツズラト峠は熊野古道の名所のひとつでもありますので楽しみですが、二日酔いと最近の運動不足で少々不安でもありますが…。梅ヶ谷駅からスタートです。さすがにツズラト峠。看板が立派。左くまの道?右いせ道?大きな駐車場もあります。大
今回の【駅】コーナーは、三重県南部、大紀町の山奥に位置する紀勢本線の駅で、駅前には民家が少なく乗降客数が低迷している、梅ケ谷駅(うめがだにえき。UmegadaniStation)です。尚、正式な駅名表記は「梅ケ谷駅」です。「梅ヶ谷駅」ではありません。駅名梅ケ谷駅(駅番号なし)所在地三重県度会郡大紀町(旧・大内山村)乗車可能路線JR東海:紀勢本線隣の駅多気方・亀山方…………大内山駅新宮方・和歌山市方……紀伊長島駅訪
梅ヶ谷地蔵尊姫路市地蔵尊と御所の清水由緒記(伝承)位置姫路市八代大谷974番地(梅ヶ谷町974―17)内苑578688平方メートル(175.36坪)外苑1261.92平方メートル(382.40坪)堂宇の建立年月は不明であるが、此処に安置されている地蔵尊は千年の古作と称される座高60センチの延命地蔵尊を中央に、右に子授地蔵尊、左に知恵地蔵尊を配している。悲願成就霊験あらたかなる地蔵尊と聞き伝え寒暖・晴雨を問わず、県内は言うに及ばず、遠くは四国、小豆
他の記事の準備を続けているのですが、もうちょっと時間がかかりそうなので、またまた古写真の話題を。岩倉具視をはじめ土方久元(土佐)や寺島宗則(薩摩)、吉井友実(薩摩)、井上馨(長州)らと一緒にこんな人物の写真があったら、ひょっとして西郷隆盛か?なんてついつい期待してしまいますよね。でも、もちろん西郷どんではありません。残念でした~というオチで無難に終わろうとしたのですが、どうも違う方向で面白い写真である可能性が出てきました。ちなみに、元の写真はこちらです。これはオランダの
雷は大正4年夏引退し、大正5年春の番付で権太夫ではなく雷藤太郎と年寄欄に記載された。表面上は無役の年寄だったが、大正5年3月検査役の尾車(大関大戸平)が死去、浦風(平幕小松山)が健康上の理由で辞任し補欠選挙が行われ、雷と峰崎(木村銀治郎)が選出された。大正10年一時株式会社化された際に出羽海(常陸山)、入間川(両国)とともに取締となり、解散されても依然として取締を続行し昭和に至っていた。雷はその数年で部屋を衰退させた・先代娘と離縁したことに加え、金銭面でもトラブルがあったらしく、協会のほぼ総
本田多聞は美しい。有馬です。と、ほぼ確実に誰にもついてこられない枕で始まる当ブログ。内館牧子の横審時代は面白かったなあ。さて古の相撲ウォッチャーをして鳴る僕ですが、最近になって実に面白いアイテムが出てきたのでご紹介。皆様ご存知(?)の通り僕の生家は築100年からなる京都の古民家でして、哀れ家産が破れ10年ほど前に手放したのですが、その時に幾つかの古美術、古道具を持ち出してそのまま死蔵しておりました。父親の死去に伴い現在は少しずつ整理、というか廃棄しているわけですが、これが見
もしかしたら第73代は彼かもしれないよそしたら土俵入は、郷土の英雄(太刀山)と同じ不知火型かはたまた先先代高砂(朝潮)と一緒の雲竜型か夢が広がるね♪右四つの本格派恵まれた体躯も、勝負度胸も文句なし!一気に番付を駆け上がれっ
1.滝原駅出発。小雨が降ってたぜ!2.どこがパーマやねん^^3.よく見たら、鮎らしき魚が群れで泳いでた。そう。この大内山川はアユの友釣りのメッカ♪解禁まで約一ヶ月!4.何つう名の花どすか?教えてけれ!PART15.高速道路無料化のお陰で、熊野古道を歩きまくりに行けるようになった♪6.梅の木じゃ♪めっちゃ電柱が邪魔!!7.何つう名の