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『戦後の子供たち:田沼武能写真集』(新潮社)立派な雑誌が私の机にのっている。この一冊の中に生きている、戦後の日本中の子ども達。白黒の写真を突き抜けて飛び出してくるようだ。大人たちは敗戦でしょんぼりしていたが、私達は元気で飛び回っていた。この写真集の98ページに、私がいる。キャプションにはこう書いてある。"小学校の卒業式、中央左は松島トモ子(東京・目黒区東根小学校、1958)”まぎれもなく子役スターだった私が緊張の面持ちで座っている。でも、私達には輝く未来があった。そん
※※↑再生ボタンを押すと、動画を閲覧できます。※※友から電話。「今、佐良直美さんとミッツ・マングローブさんが、YouTubeであなたのことを話してる。観て!」大きなミッツさんと、小柄な佐良さんが映っている。何か不思議な映像。時空を超えてというか、あり得ないものが目の前に現れている感じ。ふたりは、のんびり話している。昨年、佐良さんのYouTubeで私がライオンとヒョウの話をしているのを、ミッツさんがたまたま観たらしい。私(松島)「ライオンに襲われてギャッと悲鳴をあげたら、ガ
地震!!母をおぶって逃げなくては。部屋を飛び出し、アッと気がついた。母はもういない。なんという元旦だったでしょう。おそろしくて、震え上がってしまった。それからまた、次から次へといろいろなことが起こり。私には何ができるかしら?若い時ならいざ知らず、無力な自分に涙があふれる。令和6年能登半島地震により犠牲となられた方々に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、被災されたみなさまに心からお見舞い申し上げます。1999年6月頃、私は誰に頼まれてもいないのに日比谷公園のホームレスた
国立病院機構東京医療センター人工関節センター長、藤田貴也(よしなり)先生。ブルドッグ先生によると、藤田先生は年間200件、股関節の手術を手掛けている方で、素晴らしいスタッフも揃っているとのこと。第二番目の先生からは「○○都知事を執刀した医者は他県にいるので、東京なら藤田先生を推薦します」と電話が入る。第二番目とブルドッグ先生が、同じ意見だった。ここで私が、病院を転々として得た豆知識をご披露すると、MRI、レントゲンなど、全てのデータは患者側が要求すれば得る権利がある、ということ。医
1月1日―自宅介護をしているものにとって、お正月の三が日は魔の時だ。人手を借りるのが極めて難しい。朝、お雑煮を作る。99歳の母親のために、お餅を賽の目に切る。結構力がいる。お餅をパイシートに包み、電子レンジで温め、お湯を即席のお吸い物に注ぎ、「ハイッ、出来上がり」母がペッと吐き出した。見るからに不味そうだものね。わかるわかる。芸能界で少しは称賛を受けたことはあるけど、料理についてはお雑煮も満足に作れない不肖な娘、本当に申しわけない。涙がショボショボ溢れてくる。朝8時半、看護師さん来
この春、小学校に入った新一年生の「将来就きたい職業」は「1位はケーキ屋・パン屋、2位は警察官、3位がスポーツ選手……」ある企業の毎年恒例の調査だ。YouTuberがトップ10から姿を消し、男女別では女子の芸能人への憧れがまた姿をあらわしているそうだ。「大きくなったら何になりたい?」一度でもいいから訊かれてみたい質問だった。小学一年生の頃は私はもう有名人で、上級生が授業をのぞきに来るのを防ぐため、学校側は教室の窓ガラスに新聞紙を貼って対応した。もしもやり直すことが出来たなら、
私の手元に1枚の写真がある。この日が母幸福、最後の日でした。2016年5月26日、95歳のお誕生日会で全国から母の親しい方だけ13名、集ってくださった。思い出話も盛り上がり、母の大好きな中国料理の宴の中で、突如認知症が発症しました。その時の母の大失態の様子は、ここでは書きません。私の頭の中が真っ白になり、その場をどう取り繕ったのか、覚えていません。母をかばうこともできず、消えてしまいたい、そのことばかりを願っていました。その後、写真を撮ったのですが、記憶にありません。それから地
パリパラリンピックは、オリンピックとはまた違った想いを込めてテレビで魅入っていた。かつて私は選手であり、車椅子ダンスを正式種目としてパラリンピックに認可してもらおうと、障がい者の方達と世界各国の競技会を転戦してまわっていた。約10年、夢は叶わなかったが、若かりし頃の大きなチャレンジだった。パリ五輪の柔道で金メダルを獲得したフランス人の英雄、テディ・リネール選手の発言から議論が始まった。「パラアスリートは、スーパーヒーローだ」リネール選手の言葉は、開幕が近づくパラリンピックへの尊敬と
ファンの方から、こんなお知らせが届いた。毎日新聞の「女の気持ち」という欄に載っていた投稿のことだ。1つ目は、「カンナの花の歌」というタイトル。戦後の娯楽が少なかった時代、私が出演していた映画『赤いカンナの花咲けば』で、私が歌っていたカンナの花の歌をとても大切な思い出として書いてくださっている文章だ。そして2つ目は、この投稿を読んですぐ、また同じ欄に別の方から「戦争を知る花」というタイトルで投稿されたものだ。カンナの花は戦後の貧しい時代を共に生き抜いた花で、戦争を知っている花である…
新幹線に乗って『Wedge』という雑誌を読んでいた。今月の特集は、孤独・孤立社会の果て、だそうだ。この雑誌はグリーン車に置いてある。無料だ。こんなことが書いてあった。「自立とは、依存先を増やすこと」これは東京大学先端科学技術研究センター教授で、自身も脳性まひの障害がある熊谷晋一郎さんの言葉で、あるインタビューでこう語っている。「『自立』とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。『依存先を増やしていくこと』こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわら
「あなたのためだけに歌います」と誓ったコンサート。彼女の友達のはからいもあり、5月31日に行われた。逗子のさざなみホール、小さいけれどとても美しい。若い時から病気がちではあったけれど、病の原因をとことん究明し、たたかってきた彼女が昨年、とうとう余命宣告を受けた。夜遅く電話をかけてくるが、逆に私を笑わせてくれる、楽しい話ばかり。「私の最後の夢はね、お世話になっている逗子でトモ子さんのコンサートを開くこと。5月31日にホールが空いているから、歌ってくれない?」と彼女。「あのね、私
母が倒れてからの8年間、怒涛の日々であった。どうやって乗り切ってきたのか……自慢の母が95歳の時、認知症になり、私の目の前で崩壊していく日々。自宅介護をし、最後は私の腕の中で亡くなった。100歳と8ヶ月、人には大往生と言われた。通夜、告別式と泣いている暇もない。仕事もある。先延ばしをしていた足の手術を決行。住み慣れた我が家に帰って来ても、母のいない家は空っぽ、廃墟同然だった。膝を抱えてうずくまっていても何も始まらない。77歳の時、初めてのお引越しを経験する。大きな土地と家
(※写真:浅丘ルリ子さんと)女優の木野花さんが『徹子の部屋』で私の話をしてくださったことを聞いた。子どもの時に私のファンで、青森の畑でマネしてバレエ「白鳥の湖」ごっこをしていたら、「何してんだべ?」と言われたとのこと。初対面の時、木野花さんは「アワワワワ、ファンです!」が第一声。その日のお芝居は『さるすべり』。渡辺えりさん、高畑淳子さんのW主演。舞台も華やかだったが、客席も超豪華だった。映画の大女優さん、新派の大女優さん。そのまんま芝居ができそう。新派の大女優さんに「
「トモ子さん、ため息つくと、幸せ逃げちゃうよ」と、美容師さん。「女のため息は色っぽいものですが、男はいけませんや」と、運転手さん。私は自分がため息をついていることなど、全く気がつかなかった。約9年間の私は激動の日々を送っていた。よく乗り切って来たものだと、改めてスケジュールを見てみる。緊急事態の発生ばかりで、私のメモは真っ赤になっていた。友達、そして優秀なプロが助けてくれたが、あまりに苦しい部分は、全ての記憶が抜けているところもある。禍福は糾(あざな)える縄のご
生きづらさを感じたことはありませんか?我が友達から、2回目のコロナにかかったとメールがきた。2、2回目?彼女は、手洗い、うがい、マスク、ワクチンなど、人一倍気をつけている人だ。1回目は昨年だった。今年の彼女は多忙だったので「その疲れがどっと出たのでは?」「免疫が落ちていたのでは?」と問う私に「そうじゃないわよ。神様が私に与えてくださったご褒美。チョット、体を休めなさいというシグナルよ。私に落ち度はないわよ」なんという前向きな発言。私だったら仕事を休んで迷惑をかけた、どっか人
かつて国民的歌手であった佐良直美(さがら・なおみ)さんをご存知ですか?1962年にデビュー曲『世界は二人のために』が120万枚の大ヒット。レコード大賞を受賞、『いいじゃないの幸せならば』など、次々ヒット曲を出し、紅白歌合戦の紅組の司会も担当。ドラマ『ありがとう』では女優も経験し、傍から見ていてもこわいくらい順風満帆な人生だった。仕事で共演して以来、私達は友達になり、若い時はよく遊んだ。ふたりとも一人っ子、動物好き。仕事場には、彼女には叔母様、私には母がピッタリ付き、その煩わ
1996年9月、突然アフリカ・ナイロビ取材の話が持ち上がった。日本テレビの『あの人は今』という番組で、往年のスターの消息や著名人の初恋の人などを探し出したりする内容だ。でも私の場合は、“あの人”ではなくライオン、つまり“私を咬んだあのライオンは今”というタイトルらしい。今の私ならいざ知らず、当時の私にとってロケ先でライオンとヒョウに咬まれたなんて、笑い事では済まされない。生死に関わる事件だった。恐怖の体験の後遺症はその時点でも続いていたのに……正直私はムッとしていた。事務所のマネージャーに
何だ。このタイトルは?と思われるでしょ?実は永六輔さんが私を紹介する時、「今日のスペシャルゲスト、ライオンの餌・松島トモ子!」初めての時は流石にびっくりして、ステージの袖で、立ちすくんだ。餌になったら生きていないじゃないか!永さんとの出逢いは、六十年位前、早稲田の学生のかたわら、アルバイトで舞台監督をされていた。当時の私は子役の大スター?(笑)永さんが時代の寵児になられてからも、よくお逢いした。永さんは私の心の父、話芸の師匠だ。「トモ子、自分が見たり聞いた
12月12日、ニッポン放送「徳光和夫とくモリ!歌謡サタデー」に出演しました。なんと車の迎えが、朝の5時半!キャスターの方が生出演するのは当然として、ラジオ番組が早朝の場合、ゲストはほとんど録音だ。私の今の生活は、母親を自宅介護しているので、毎朝5時起きだから何でもないが、身支度を整えてお化粧してとなると、ちょっと大変。目覚ましを3個、4時にかけておいたら緊張したのかしら?3時に飛び起きてしまった。朝のスタジオは活気に満ちていた。パーテーションの立て方もスタジオによってそれぞれ違う。前と横
中山千夏さんを知っていますか?私の、芸能界における親友。ふたりとも子役出身、ひとりっ子、母親つき。千夏ちゃんは大阪で人気が出たので、西の名子役。私は東の名子役などと、並び称されたこともある。彼女は主に舞台『がしんたれ』『がめつい奴』などで大活躍。私は映画出身で知名度は圧倒的に私の方が上だったが、芸の達者さでは全く敵わなかったと、今でも思っている。大人達は何故か、ふたりをもめさせたがった。千夏ちゃんの悪口を私に囁き、千夏ちゃんも私のことは偉ぶって随分嫌なヤツだと思っていたら
私はずっと昔から、ピーコと友達だった。「アンタ、私と同じ年よね」人前でも毎回大きな声で言われた。「ピーコと同じ年なんて、私、嬉しくない!」いつものお約束の会話。おすぎとピーコに異変があらわれたということは知っていた。ピーコの奇行で近隣に迷惑をかけていることも聞いていた。久しぶりに兄弟が同居し、大喧嘩になり、ピーコはおすぎと再び離れ、現在はひとり暮らし、などなど……面倒見の良かったピーコには友達が沢山いたはずだが、その言動に驚き、ひとり、またひとり去っていった。ピーコは家事が