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6月1日(日曜日)は曇りで風が有って過ごしやすい稽古日でした。ストレッチが終わったら見習いKクンも一緒に浜走りをして土曜日と同じく自前の木剣で大人に受け身の稽古をつけていました。実は、その間私は通りかかった散歩中の男性と空手談義をしていました。その内容については後ほど述べたいと思います。そして中盤は少し武器の型(棒・ヌーチクなど)の練習をしました。そして中盤は長刀の型練習を行った。
上原先生の最晩年に裏では様々なある種の工作が動いていました。それは未だに続いていると言えるかもしれないと昨今思っています。本部御殿手は歴史のはざまで小国の沖縄に続いてきた武術だろう、と私は思うので絶やすのはもったいない・・・と思っていましたが必ずしも私と同じような考えばかりではないというのが現状です。上原先生は生前自分の息子のTさんに対して「ちやほやされておるから世間知らずなんだよ」と何度か門弟たちを前にして言われたことがあって、その言葉に門弟の中からは「あんな風に言われ
一昨日新たな本部御殿手の道場がうるま市にあるというのでネットで見たけど詳細は分からず誰が主催者なのかも書いていないので怪しいまがいものなのだろうと思った私です。だいたい自分の名前を名のらず誰に指示したのかも出さないのはアヤシイと思って良い。なぜなら沖縄では本部御殿手の道場は上原先生の道場しかなかったのでその門弟なら、どういう人(職業・家族構成・住まい等)なのか分かるからだ。狭い島での長い付き合いなので現在に至っては子供の職業まで判る。笑新たな擬い物(まがいも
上原清吉の没後、ある武道雑誌で追悼特集が組まれた。その内容は全体としてはすばらしいものだったが、ある写真の説明文に疑問をもった。それは上原先生が取手の投げをしている写真で、添えられた文には「写真は50代前半の宗家が柔道をしている貴重な一枚。この頃の上原宗家は他武道研究も積極的に行っていたようだ」と書かれていた。相手役は翁長武十四氏(昭和18年生、昭和34年入門)であった。筆者はのちに翁長氏に何度もインタビューして、上記の写真の件も確認したが、取手を柔道と勘違いしたのだろうとのことであ
日曜日のアラハビーチで稽古をしていたら一人の青年がやけに熱心に私たちの稽古を見ていた。私達が稽古をしている写真右手の方は土手のような感じになっていて道路になっておりその道路の脇に座って私たちの稽古を見下ろすような形で見学をしていたのである。下の写真のような疑似刃物を使う稽古は本来は多くの人の目につくところではあまり練習しないようにしているのだがこの場所は少し道路より下がっているし日陰も有るので良いだろうと思って稽古場にしている。その青年は私たちの稽古を見やすいようにち
私は上原先生が亡くなられて暫くしてから本部御殿手の稽古に復帰しましたがその前後にも色々なことがありましたので後日回想録に書こうと思います。さて、先生の7年忌演武会の前後から本部御殿手の流派内部では表には出ていませんでしたが”さざ波”がたち始めました。本部御殿のお墓詣りをする上原先生と本部朝正先生(前列中央)そして直系子孫(朝勇先生の孫)の本部朝達氏(上下白のレインスーツを着て帽子をかぶっている男性)と私達門弟。下の2枚の写真は本部御殿の子孫(本部朝茂
昨日(5月24日)は午前中は曇りだったので、なんとかビーチで練習できました。ビーチサッカーのクラブもいなかったので、まずは2刀を振りながらの浜走りから開始しそのあとは2刀を持っての相対で受け身の練習をしてもらった。芝生に上がってからは素手の型やヌーチク・ウェークの型を行いそのままウェークを長刀に見立てて長刀の型練習を行った。こちらは棒対ヌーチクの相対練習をしているところです。昨日は見習いのK