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私が幼少期から30歳頃まで住んでいた岸和田と言う街を回想するシリーズで、今回は駅前商店街の第三段と題して、ご案内しようと思う。前回のブログ→https://ameblo.jp/dmh17c/entry-12513446254.htmlと言うことで、今回は商店街のアーケードから外れた「府道堺阪南線」、すなわち地元で言うところの旧の26(きゅうのにいろく)から、更に海側(西側)へとそぞろ歩きしてみました。上の写真にある通り、当時は向かって
おはようございます😃私が学生時代には、『ヤンキー』や『ツッパリ』と呼ばれる人達がいました。『スケバン』とか言う言葉もありました。不良っぽさへの憧れは、いつの時代にもあり、戦国時代の「傾奇者」、明治期の「愚連隊」「女愚連隊」と呼ばれた青少年の不良グループが存在し、昭和30年代には「太陽族」と呼ばれた不良がいたそうです。昭和50年代に「ツッパリ」と呼ばれた不良が全盛期を迎え、昭和50年代末期には「ヤンキー」が「ツッパリ」と言われるようになり、平成26年には「ヤンキー」から犯罪性や攻撃性を除
昭和50年代からのベイトリール…の一部(笑)コツコツ集めてその数ナント十数台…🍵画像上段のDaiwaファントムシリーズからシマノのバンタム、RYOBIのキャスプロまで…(-""-;)その中にシマノはオマケで頂いたモノが2台(画像下から二段目中央と右)画像の他に現役で使用しているオールドリールが4台…ナマズもバス並みにシステム化?(笑)もう、アっ○~の領域ですな…(゚∀゚三゚∀゚)このリール達が活躍した時代の地元では公にはバスなんぞいなかった(らしい)のですが私が小6の頃には
旧市街地繁栄の最後の象徴ともいえるジョイニー倉吉。新規開店は昭和50年。閉店は平成の半ばと聞いておりますが、ボクはもう倉吉にはいなかったので、その後の「たからや」への屋号の変更等の時系列は一切解っていないです。倉吉初登場のエスカレーターは衝撃でした。それまでのタイヨーのベルトコンベアで喜んでいた田舎者にとっては憧れの都会の象徴「エスカレーター」に誇らしさを感じたものです。一部ガラス張りの壁面もカッコよかった。レコード店があるのも都会チックで、倉吉も都会への道を歩み始めたな(笑)と思
昨日訪れた須磨浦山上遊園。笑わずには乗られないカーレーター乗り場でずーっと掛かってた音楽が耳にこびりついて離れない。何だろう~どこかで聞いたことがあるような?で調べてみたら私と同じようにあの音楽に注目した人がいたのでまた笑ってしまった。おかげですぐに見つけることが出来ました。同志よありがとう。で、その曲とは星を求めてという曲でした~!有名な曲みたいですね。ていうか、昭和50年代に呼ばれた親戚の結婚式でこんな感じの曲が多用されていたように思います。
昭和50年、この頃はJR(国鉄)線を利用していたこともあり、東武線の写真は近くの東上線もほとんど撮っていませんでした。でも50年初期のものが少しありました。車両は良くは覚えていませんが、8000系と7800系しか走っていなかったように思います。東武竹沢-小川町。並行して走る八高線の気動車キハ35系。武蔵嵐山-小川町。これは7800系。現在の東小川団地付近。おまけで、その頃の八高線の明覚-越生。キハ35系。この時代は国鉄労使紛争があり、車両に落書きがあります。”スト
【23年7月9日探索・24年4月16日公開】現在地はこの辺茨城県つくば市吾妻歩行者用の陸橋だ。昭和50年代前半の建造と思われ、けっこう草臥れていた。吾妻4丁目住宅だ。近くの吾妻2丁目住宅などは取り壊しが進んでいたが、ここも建て替えが近いのかも。歩道を進んでいくと・・・こんな広場のような場所になった。工事は花室トンネルの補修だった。この地下には県道24号土浦境線の自動車専用道路・花室トンネルがある。そしてその途中にバス停があるという
YouTube(「大都会」:昔のヒット曲)で見つけた画像だけど、これはおそらく大昔の上野駅だろうね。上野駅まで来た乗客が、東京駅や新宿駅などから出る各線の乗車券と急行券を買うための窓口かもしれない。(房総方面は総武快速ができるまで両国始発だった)同じ上野駅から出る常磐線があるのは、ちょっと不思議だが、まあ別に急行券が必要だからオマケにあるのだろう。準急の文字はないので、準急が廃止されたあと昭和40年代後半かと思われる。もっとも、私もこの時代の上野駅は知らない。急行列車が特急に押され始め
◆昭和50年代には男性用パック、ファンデ、リップなどが発売されています!こんにちは、山村です!男性の化粧シリーズも10回目。今回は、昭和50年代から昭和末期までの男性コスメについてです前回ご紹介した昭和40年代の資生堂「MG5」や、マンダムの「マンダム」の大ヒットにより、団塊の世代以降は、メンズコスメ(スキンケア)への抵抗感は薄れたと思います。その後も、多くの化粧品会社から、スキンケア商品が発売されましたそして迎えた昭和50年代、CMなど広告展開を含めて話題になっ
ヤフーブログ2015年以前の記事で移行できなかった「ナショナル」電気製品などの記事です。ブログのコピーが見つからないので電源プラグなど保存してあるので載せます。(現在のPanasonicです)Nマーク(1)(2)Nマークは1959年~1987年頃まで制定されたマークである。(昭和44年~62年)Wikipediaより)ロゴ(1)1966年(昭和41年)(2)1973年(昭和48年)
昨年頃まで、滋賀県の雄琴という場所に残っていた屋上広告看板である…。「トルコ?」「滋賀?」はてさて、今の40歳以下の方ならお分かりにならないだろうが、こちらは現在の「ソープランド」の看板であって、昭和59年まではトルコ風呂と呼ばれていた所以である。※昭和50年代後半に日本へ留学していたトルコ人学生の抗議によって、ソープランドに改名される。と言うことで、今回は関西圏と申しますか、とりわけ大阪を中心とした昭和50年以降の性風俗産業
東京かわら版10月号のアサダ二世先生の記事がおもしろい。今回は大須の思い出と現在昭和50年代アサダ先生は大須演芸場にご出演なさっていたそうです。みなさまはご存知ですね。旧大須演芸場の足立席亭の話や、雷門小福師匠いまの落語協会の若手の話しなんかも書いてある。一番驚いたのは誕生日が一緒だ~!という。なんだか嬉しくなっちゃいました。一之輔師匠!わたしはアサダ二世と同じ日に産まれたんですよ次にあった時はそういいたいと思います。だからなに?といわれそう(笑)
大映ドラマで思い出すのは昭和60年前後の「スチュワーデス物語」「スクールウォーズ」などを思い出す人も多いと思います。私も昭和の終わりくらいは大映ドラマをたくさん観た気がします!しかし、調べてみると大映ドラマが昭和30年代放送されていたことやつい最近高視聴率を集めたあのドラマも実は大映ドラマだったことがわかりました!今回大映ドラマについて綴らせていただきます!大映ドラマの歴史大映ドラマは昭和30年代の「少年ジェット」から始まりました。昭和40