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義時追討御評定の事03おおまかなところ、後鳥羽院は、いかにしても関東を滅ぼそうとだけをお考えになっているようだった。京童を集めて、義時打頭(ぎじちょうとう)、義時打頭と唱えさせる物を与えると、ただでさえ漫事(すずろごと:とりとめのないこと)だというのに、義時打頭、義時打頭と言っていた。これは北条義時の首を討てという文字の響きである。また年号を承久とつけたのも深く考えたからである。その上に南都北嶺に申しつけて、義時を呪詛させた。三条白河に寺を建て、最勝四天王寺と名づけて、四天王を
忘れてはならないのは鎌倉幕府の存在である。源頼朝が遠く離れた相模国鎌倉にいながら、その距離を感じさせないレベルで京都内外の情報を収集していたことは後鳥羽上皇も知っている。そして、情報伝達経路というものは一方通行ではなく往復で利用可能である。つまり、源頼朝が鎌倉にいながら京都の情報を手に入れることができるということは、後鳥羽上皇にとっても京都にいながら鎌倉の情報を手に入れることが可能だということである。しかし、ここで一点の問題がある。鴨川東岸にある六波羅だ。かつて平家が根拠地として構え、源平合戦
さて、建久九(一一九八)年二月二〇日に土御門天皇の即位の儀のために、父である後鳥羽上皇も、内裏の中に入れないにしても大内裏には行こうとしていたこと、そして、直前になって予定を白紙に戻したことは既に記したとおりである。まだ三歳である土御門天皇はさすがに自分がこれから何をするか深く理解できていなかったであろうが、それでも自分がこれから父の後を継ぐこと、そのための儀式が執り行われること、そしてその儀式が他ならぬ父によって直前に予定が乱れたことは理解できていたであろう。さて、先に、三月三日まで
*:..。o○○o。..:*梶間和歌プロフィール小説歌集『生殖の海』歌をやり取りするfacebookグループ和歌を学ぶ「歌塾」個別動画視聴ページ基礎講座初級講座*:..。o○○o。..:*現代短歌新聞2021年4月号に作品掲載「源氏で紡ぐ和歌便り」2021年8月分掲載*:..。o○○o。..:*秋の歌の中に露は袖に物おもふころはさぞなおくかならず秋のならひならねど後鳥羽院新古今和歌集秋下470【現代語訳】露
それにしてもなぜ鳥羽か?過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。なぜ独自の根拠地を持たなければならないかというと、実は、上皇や法皇は内裏に入ることができないのである。平治の乱で藤原信頼によって後白河上皇が二条天皇とともに内裏に監禁されたことがあるが、これは例外中の例外で、天皇が内裏を離れて父や祖父や曾祖父のもとを、すなわち、上皇や法皇のもとに向かうことはできても、上皇や法皇が内裏にいる子や孫や曾孫のもとを、すなわち、天皇のもと
上皇となり院政を始めるメリットは多々ある。責任からの回避や政治的自由も無視できないメリットであるが、忘れることのできないメリットとして資産がある。天皇は皇室予算や国家予算が資産であり、自由に行使できる資産は、ゼロではないにしても乏しい。行使できる資産の量は多大であるが、天皇の独断で行使できるものではない。しかし、院政となると違う。院が独自に資産を手にできるだけでなく、手にした資産を院が自由に使うことができる。その成果が如実に示されたのが建久九(一一九八)年四月二一日のことである。二条東
《新古今和歌集・巻第二・春歌下》159百首歌奉りし時皇太后宮大夫俊成駒とめてなほ水かはん山吹の花の露そふ井出(ゐで)の玉川(たまがは)☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆百首の歌をさしあげた時皇太后宮大夫俊成馬をとどめて、もっと水を飲ませよう。山吹の花の露がこぼれ加わる井出の玉川よ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴︎✴︎✴︎