ブログ記事205件
上皇となり院政を始めるメリットは多々ある。責任からの回避や政治的自由も無視できないメリットであるが、忘れることのできないメリットとして資産がある。天皇は皇室予算や国家予算が資産であり、自由に行使できる資産は、ゼロではないにしても乏しい。行使できる資産の量は多大であるが、天皇の独断で行使できるものではない。しかし、院政となると違う。院が独自に資産を手にできるだけでなく、手にした資産を院が自由に使うことができる。その成果が如実に示されたのが建久九(一一九八)年四月二一日のことである。二条東
さて、建久九(一一九八)年二月二〇日に土御門天皇の即位の儀のために、父である後鳥羽上皇も、内裏の中に入れないにしても大内裏には行こうとしていたこと、そして、直前になって予定を白紙に戻したことは既に記したとおりである。まだ三歳である土御門天皇はさすがに自分がこれから何をするか深く理解できていなかったであろうが、それでも自分がこれから父の後を継ぐこと、そのための儀式が執り行われること、そしてその儀式が他ならぬ父によって直前に予定が乱れたことは理解できていたであろう。さて、先に、三月三日まで
忘れてはならないのは鎌倉幕府の存在である。源頼朝が遠く離れた相模国鎌倉にいながら、その距離を感じさせないレベルで京都内外の情報を収集していたことは後鳥羽上皇も知っている。そして、情報伝達経路というものは一方通行ではなく往復で利用可能である。つまり、源頼朝が鎌倉にいながら京都の情報を手に入れることができるということは、後鳥羽上皇にとっても京都にいながら鎌倉の情報を手に入れることが可能だということである。しかし、ここで一点の問題がある。鴨川東岸にある六波羅だ。かつて平家が根拠地として構え、源平合戦
それにしてもなぜ鳥羽か?過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。なぜ独自の根拠地を持たなければならないかというと、実は、上皇や法皇は内裏に入ることができないのである。平治の乱で藤原信頼によって後白河上皇が二条天皇とともに内裏に監禁されたことがあるが、これは例外中の例外で、天皇が内裏を離れて父や祖父や曾祖父のもとを、すなわち、上皇や法皇のもとに向かうことはできても、上皇や法皇が内裏にいる子や孫や曾孫のもとを、すなわち、天皇のもと
石清水八幡宮に到着した後、後鳥羽上皇がどのように過ごしたかの記録も残っている。すなわち、石清水八幡宮に参拝した後、巫女の里神楽を奉納し、大僧都弁暁が導師として経供養を行い、ついで浄衣で若宮に参ると、近習の人々や巫女三十人ほどが拝殿に集まり、乱舞に堪能の輩が白拍子を舞って、御幸の一日目が終わったというのがこのときの石清水八幡宮詣である。豪奢にして壮麗に感じるであろうし、緊縮財政論者が聞いたら卒倒する内容に感じられるであろうが、治天の君である上皇の参詣ならばこれぐらい当たり前である。ついでに言うと
前回の記事で宝来山神社さんの神宮寺である神願寺さん(こちら参照)は残念ながらお詣りできなかったと記した〝火打石〟ですが、写真を整理していたら、間抜けなことに神願寺さんをお詣りしていたことが判明。宝来山神社さんの御住所はかつらぎ町大字萩原56、神願寺さんはかつらぎ町萩原55…宝来神社さんをお詣りした折、お隣のお寺さんもお詣りしたのですが、そちらが神願寺さんだったという次第。寺号標をカメラに収めたのに…「延命院」の表札?
日を改めるともっと困惑する記事が出てくる。建久九(一一九八)年二月一四日、後鳥羽上皇が石清水八幡宮へ御幸することとなった。これだけならば問題ない。上皇が石清水八幡宮へ参ること自体は珍しい話ではなく、後鳥羽上皇の行動は前例踏襲である。しかし、規模が前例のない壮麗さ、そして、スケジュールが綿密でないとなると、周囲の人はただただ振り回されることとなる。このときの石清水八幡宮への御幸について、後鳥羽上皇が綿密なスケジュールを立てずに行き当たりばったりで行動するつもりだとするのが当時の人の出発前
藤原定家が呈している苦言の全てを受け入れるわけにはいかないが、受け入れなければならない苦言もある。院政開始前から周囲に人を集めていたこともあって、一九歳にして治天の君となった瞬間に、後鳥羽上皇の周囲には後鳥羽上皇の意のままに動く人材が揃っていた。その多くは自らの不遇からの一発逆転を狙って院政に自らの未来を託した野心家である。その野心家の全てを後鳥羽上皇は周囲として迎え入れたのではない。後鳥羽上皇は自らの周囲に集った人材に競争させたのである。ここまではいい。問題はどのように競争す
もっとも、実際の後鳥羽上皇はそれなりに政務も執っていたはずであり、藤原定家がこうした後鳥羽天皇の日常の過ごし方について苦言を呈しつつ書き記しているのも、上皇としてのあるべき姿、すなわち、上皇としての政務を執っている姿は特筆すべきことではなかったからであろう。藤原定家の日記を紐解くと、建久九(一一九八)年二月三日に後鳥羽上皇が殷富門院のもとへ御幸したことの記録が出てくる。藤原定家はその御幸の様子があまりにも壮麗であり、卑近な言葉で言えばどんちゃん騒ぎを繰り返したことを非難している。また、後鳥
さて、ここまで後鳥羽上皇ではなく後鳥羽院と記してきたのには理由がある。実は、天皇を退位すると同時に上皇となるのではない。天皇退位の後に太上天皇の尊号が奉られてはじめて上皇となるのである。ゆえに、退位してから上皇となるまでの間は、後鳥羽院と記すことならばできても後鳥羽上皇とは記せないのである。また、どんなに用意周到な譲位ではあっても、退位と同時に上皇として院政を開始できるわけではない。このあたりは、衆議院の総選挙で次期首相が決まったとしても、正式に総理大臣に就任するのは国会での指名の後で
土御門天皇の治世が始まったことで新帝の外祖父となり、院政を始めた後鳥羽院の院司となった土御門通親こと源通親の権勢は頂点を極めるはずであった。しかし、後鳥羽院はまだ一九歳という若さながら既に老獪さの片鱗を披露するようになっていたのである。土御門通親の権勢の根幹は、天皇の外祖父であることと、後鳥羽院の院司別当、つまり、後鳥羽院に仕える貴族や役人達のトップであることの二点である。そして、この二点とも永続する要素ではない。どういうことか?替えが効くのだ。後鳥羽院にとっては自分の
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》802返し前大僧正慈円思ひ出(い)づる折(を)り焚(た)く柴(しば)と聞くからにたぐひ知られぬ夕煙(ゆふけぶり)かな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆返し前大僧正慈円亡き人を思い出された折に、折って焚かれた柴だとうかがいますので、その夕煙は、ほかに類が知られない夕煙だと思うことでございます。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》801十月(かみなづき)ばかり、水無瀬(みなせ)に侍りしころ、前大僧正慈円のもとへ、「濡れて時雨の」など申し遣はして、次の年の神無月に、無常の歌あまたよみて遣はし侍りし中に太上天皇思ひ出(い)づる折(を)り焚(た)く柴(しば)の夕煙(ゆふけぶり)むせぶもうれし忘れがたみに☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆十月ごろ、水無瀬にいましたころ、前大納言慈
第七章帝王が支配する宮廷と文化一聖代を描く『源家長』日記事務局長が見た新古今時代二遊興の空間水無瀬殿の後鳥羽院と近臣たち水無瀬殿は後鳥羽院の離宮の一つであり、水無瀬川が淀川に合流する地にあった。後鳥羽院はここで近臣と遊ぶのを非常に好んだ。狩猟、蹴鞠、笠懸、小弓、競馬(くらべうま)、騎射、管弦、囲碁、将棋、双六、連歌など、遊びの限りを尽くし、遊女・白拍子による郢曲・歌舞、更には猿楽などを楽しんだ。三上皇による文化支配諸道の興隆四『新古今和歌集』完成の後
新古今集後鳥羽院と定家の時代田淵句美子著角川学芸出版発行角川選書481平成22年12月25日初版発行お名前からして「句」に人生を捧げておられるような著者による、後鳥羽院と藤原定家という熱い歌人を中心とした、和歌の黄金期の、映像を描き出しています。第一章新古今時代の前夜一後鳥羽天皇の誕生新古今時代を作った帝王二和歌の家の親子藤原俊成と定家中世前期においては、宮廷の政治と文学・文化とは、人的にも空間的にも、同心円状にある。勅撰集は、単なる秀歌の
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》745百首歌よみ侍りけるに後徳大寺左大臣八百日(やほか)ゆく浜の真砂(まさご)を君が代の数に取らなん沖(おき)つ島守(しまもり)☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆百首の歌を詠みました時に後徳大寺左大臣幾百日も日数をかけて行く、長い長い浜の真砂を、わが君のお年を数える印として、取ってほしい。沖の島守よ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》741和歌所の開闔(かいかふ)になりて、はじめて参りし日、奏(そう)し侍りし源家長藻塩草(もしほぐさ)かくとも尽きじ君が代の数(かず)によみ置く和歌の浦波(うらなみ)☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆和歌所の開闔になって、初めて参った日、奏上しました歌源家長和歌の浦の波の寄せる藻塩草が、かき集めても尽きないように、書き集めても尽きないこ
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》740八月(はづき)十五夜、和歌所歌合に、月多秋友(つきはたしうのとも)といふことをよみ侍りし寂蓮法師高砂(たかさご)の松も昔になりぬべしなほゆく末(すゑ)は秋の夜(よ)の月☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆八月十五夜、和歌所の歌合に、「月は多秋の友」という趣を詠みました歌寂蓮法師高砂の松でも、いつかは年齢が尽きて、昔のものとなるにちがいない
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》739千五百番歌合に藤原定家朝臣わが道を守らば君を守るらん齢(よはひ)はゆづれ住吉(すみよし)の松☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆千五百番の歌合に藤原定家朝臣わが国の和歌の道を守るなら、わが君をも守っていることであろう。お前の千年の年齢を、わが君にお譲り申せ。住吉の松よ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》737千五百番歌合に摂政太政大臣濡(ぬ)れて干(ほ)す玉串(たまぐし)の葉の露霜(つゆじも)に天照(あまて)る光幾世(いくよ)経(へ)ぬらん☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆千五百番歌合に摂政太政大臣濡れては干す神のみ前の榊の葉の露や霜に、天に照る日の光は、幾世を経て来ているのであろうか。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》735京極殿にて、はじめて人々歌つかうまつりしに、松有春色(まつにはるのいろあり)といふことをよみ侍りし摂政太政大臣おしなべて木(こ)の芽(め)もはるの浅緑(あさみどり)松にぞ千代(ちよ)の色はこもれる☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆京極殿で、初めて人々が歌を詠んでさしあげました時に、「松に春の色あり」という題を詠みました歌摂政太政大臣すべて
《新古今和歌集・巻第七・賀歌》734百首歌奉りし時式子内親王天(あめ)の下(した)めぐむ草木(くさき)のめもはるに限りも知らぬ御代の末々(すゑずゑ)☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆百首の歌をさしあげた時式子内親王国中、雨降る空の下で、芽を出す草木の芽もますます力強く、見る目も遥かにかぎりなく、君のみ恵みが豊かで、かぎりなくお栄えになる御代の末々よ。☆☆☆☆☆☆☆
前回は、千利休が、豪華な美(黄金の茶室)と、簡素な美(妙喜庵茶室・待庵)を、並立したのに、近現代には、簡素な美しか、注目してこなかったことを、みていきました。そして、今回は、後鳥羽上皇が、風雅な美(有心の柿本衆の和歌)と滑稽な美(無心の栗本衆の狂歌)を並立したのに、近現代には、風雅な美しか、注目してこなかったことを、みていきます。その前提として、漢詩・和歌・連歌・俳諧(俳句)といった、日本の詩歌の系譜を取り上げますが、日本列島では、先史・古代に、中国大陸・朝鮮半島外来の弥生(水田稲
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》706千五百番歌合に皇太后宮大夫俊成今日(けふ)ごとに今日や限りと惜しめどもまたも今年にあひにけるかな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆千五百番の歌合に皇太后宮大夫俊成年々の大晦日の今日ごとに、今日が最後の大晦日であろうかと惜しんできたが、また、まあ、今年の大晦日の今日にあったことよ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》701百首歌奉りし時入道左大臣いそがれぬ年の暮(くれ)こそあはれなれ昔はよそに聞きし春かは☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆百首の歌を差し上げた時入道左大臣急いで春を迎える用意をする心にならない年の暮れは哀れなものだ。昔は、自分にとって、よそごとだと聞いた春であったか、そうではなかったのだ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》700題知らず権律師(ごんりつし)隆聖(りゆうしやう)朝ごとのあか井(ゐ)の水に年暮れてわが世のほどの汲(く)まれぬるかな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆題知らず権律師隆聖朝ごとの、閼伽井の水を汲んで、仏に供えることで年が暮れて、自分の余生のどれほどもないことが察せられることですよ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》696百首歌奉りし時小侍従(こじじゆう)思ひやれ八十(やそぢ)の年の暮(くれ)なればいかばかりかはものは悲しき☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆百首の歌を差し上げた時小侍従察してほしい。八十歳という年の暮れであるのだから、どれほどもの悲しいことであろうか、と。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》690百首歌奉りし時式子内親王日数(ひかず)ふる雪げにまさる炭竈(すみがま)の煙(けぶり)も寂(さび)し大原(おほはら)の里☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆百首の歌をさしあげた時式子内親王幾日も寂しく降り続く雪模様で、ますますしげくなる炭竈の煙も、また寂しい。大原の里よ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》684千五百番歌合に右衛門督通具草も木も降りまがへたる雪もよに春待つ梅の花の香ぞする☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆千五百番の歌合に右衛門督通具草も木も見分けにくいようにして雪の降る中に、春を待って咲く梅の花の香りが漂うことだ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎《和歌
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》680題知らず前大僧正慈円ながむればわが山の端(は)に雪白し都(みやこ)の人よあはれとも見よ☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆題知らず前大僧正慈円物思いをしながら眺めると、わたしの住んでいる山の稜線に雪が白々としている。都の人よ、同情して見てほしいものだ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴︎✴︎✴︎✴