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平治の乱で、藤原信頼と源義頼を欺いて里内裏を脱出して、平清盛の六波羅邸に駆け込んで、平家方の勝利の要因を作った、二条天皇やその側近たちと清盛の仲は良好でした。後白河上皇の院政は、後白河が圏外の仁和寺へ逃げて日和見の姿勢をとったことに加えて、有能な側近の藤原信西入道を喪い、藤原親頼という謀叛人を出したので、鄭氏状態になっていて、世の中は二条天皇の親政に平氏が協力するかたちで安定するかに思われたときに、二条天皇が23歳で亡くなります。末の世の賢王と呼ばれ、愚昧な廃れ皇子の父親と比較されて、
以仁王と源頼政の挙兵はあっけなく潰されますが、以仁王の令旨が全国に撒かれると様子が違ってきます。天皇が出す綸旨にしても、院が出す院宣にしても、出した人に権力がなければただの紙切れです、ましてや皇族ならば誰でも出せる令旨などは価値がなく、出した本人が死んでいるとなれば紙切れにもならない代物なのですが、自分たちの権利を守ってくれない平氏政権に対して地方武士の不満が高まっているときだったので、以仁王の令旨が効果を発揮するのです。平将門のように本人がいきなり新皇になってしまうと、どうしてあんな
平家一門の結束の強さは稀有の事と思われる。一門の棟梁となるということは、絶大な権力が手に入る。それゆえ、親兄弟で骨肉の争いを繰り広げるのが常であり平氏のライバル、源氏の殺伐とした一門内の暗殺、誅殺、抗争を見れば、納得いただけるだろう例外として思い浮かぶのは、意外なところでは織田信長公。信長公は、何度も謀反を起こした実弟・勘十郎(信行)を何年も処罰できず、泣く泣く誅殺した後は、残された遺児を大切に育て上げ、自身の参謀として破格の重用をしたほどだ。信長公は、外部には魔天王と呼ばれ、その