ブログ記事7,524件
おハニューございますフィギュえもんですゴールデンウィークも終わり何だか新しい世界で生きていくような気分になっているフィギュえもん🐻です😉今日は昨日観てきたこの映画陰陽師0についてお話ししようかなと思いますフィギュえもん🐻がこの陰陽師0を観ようと思ったのは安倍晴明役の山崎賢人さんが羽生結弦選手の動きを参考にしたってエピソードがあったからそして安倍晴明自体に興味を持っているからこの2つの理由でめっちゃ久々に映画🎬を観ることにしましたよ山崎賢
と、いもうとにはさらりといわれました。SNSでもその美貌が話題になっていたようであっきー一条帝、白の引き直衣姿を見たときはこれぞ源氏物語に描かれた冷泉帝のくつろいだ引き直衣姿の具現化なのねと大興奮。友人にもドン引きされるし...そうなの、この話題を共有できる相手がほとんど皆無なので(泣)「知らないんだけど(この俳優)」「帝のことなんてわからん」「そこまでマニアックなこと言われてもわからん」等々冷たく言われてしまう私、今期の大河で一番きたキャスティングなんですけれど
『光る君へ』感想あらすじレビュー第17回「うつろい」悲...bushoojapan.com昔の人の病名のネーミングセンスってすごいと思うよと言うのはこの日一緒に観ていた臨床検査技師の資格を持つ我が息子でありました糖尿病は飲水病インフルエンザは咳逆病あれはよくよく観察していないと思いつかない名前だと思うと言うのでしたまあもっとも昔は観察以外にできることがほとんどなかったが故に目を皿のようにして見つめた
本記事は、2016年9月に投稿した記事の補訂版です。一条天皇(諱懐仁)は円融天皇の第一皇子で、母は藤原兼家の娘(道長の姉)詮子(東三条院)。永観2年(984年)従兄の花山天皇の皇太子となり、寛和2年(986年)花山が兼家の策謀により出家するとその後を継いで皇位に就き、兼家が摂政となりました。兼家の後を継いで関白となったのは長男道隆です。当時皇后位は藤原遵子(円融天皇皇后)、皇太后位は藤原詮子(一条天皇生母)、太皇太后位は昌子内親王(冷泉天皇皇后)がそれぞれ占めていて、律令の定める「三
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、蝦夷討伐で有名な平安時代の征夷大将軍。この坂上田村麻呂の父親・刈田丸(刈田麻呂)が、かなりのブス専……だったと知り、いろいろ、本当にいろいろな意味で衝撃を受け「ゆかりの史跡」を見に行って来ました。福島県にはたくさんの「ゆかりの地」がございますが……福島県郡山市田村町徳定古屋敷は『坂上田村麻呂の誕生の地』『坂上田村麻呂の母親を奉る谷地神社』があります。そして、郡山市の公式HPには衝撃的な伝承が紹介されています。田村町の地名の由来-
前回の大河ドラマ「光る君へ」は、「放たれた矢」という題だったが、当時は関白藤原道隆が亡くなり、その弟の道兼が関白となるが、その後すぐに亡くなってしまい、七日関白といわれた。そのために朝廷権力の空白が生じ、周囲の公家たちが、関白藤原道隆の子伊周(これちか)(当時内大臣)につくか、それともまだ権大納言にすぎなかったが年長で経験のある道長につくかで様子見する様が描かれていて、本当に面白い。そのなかで前回は、藤原公任が、斉信(ただのぶ)らと将来の出世について話をしなが
吉田山荘での月一回の百人一首の会に参加してきました。昨日は青空が広がり最高気温は24度、爽やかな風の通る良い日でした。早く着いたので、吉田山荘の隣の宗忠神社にお詣りしました。↓人のいない静かな境内で、新緑を楽しめました。右上に見えるのは大文字山です本日の百人一首の歌の詠み手は、赤染衛門、小式部内侍、伊勢大輔の女性たちで、一条天皇の后、定子と彰子の時代を生きた人たちです。「光る君へ」は、これから定子の運命が一族と共に傾いていく局面に入ります。やすらはで寝なましもの
『光る君へ』感想あらすじレビュー第18回「岐路」なんだかもういろいろ悲惨なことが多過ぎてつらくて筆が進まないのですがとにかく今回観ていて頭がクラクラするのは道隆が亡くなって大して日にちも経っていないのになんでみんなキンキラキンの服装してるんだ???という点についてです内容が全然頭に入って来ないんだがみんなどう思ってるの?それと服喪中の中宮はなんで内裏に居座ってんの?
「光る君へ」平安貴族と黒魔術今年のNHK大河ドラマは、珍しく平安朝「光る君へ」です。紫式部や藤原道長が生きた平安中期の史実をもとに、虚実おりまぜたドラマ仕立てになっています。さて、先日放送分の14回で道長の妻、源明子が義父である藤原兼家を呪詛するシーンがあり視聴者に戦慄が走りました。藤原兼家は、陰陽師・安部清明に依頼して、花山天皇の女御・藤原よし子をお腹の子供もろとも呪殺した過去があります。そうして自分の娘の生んだ皇子(一条天皇)を帝にたてて、関白に成り上がったのでした
あらすじ石山寺からの帰路、まひろ(吉高由里子)は思いかけず、さわ(野村麻純)を傷つけていることを知り落胆する。宮中では、後宮に伊周(三浦翔平)や弟の隆家(竜星涼)らが集い賑わう中、詮子(吉田羊)が現れる。一条天皇(塩野瑛久)らが緊張する中、伊周は・・・その頃、都で疫病がまん延していた。ある日、たね(竹澤咲子)がまひろを訪ね、悲田院に行った父母が帰って来ないと助けを求める。悲田院でまひろが見たのは・・・感想祝・「香炉峰の雪」の場面、大河ドラマで実写化定
あらすじ最愛の女御、忯子を亡くした花山天皇は失意のあまりすべての意欲を失ってしまいます。為時は、自分を信頼している帝を裏切っているのがつらくなり、兼家に間者を辞めたいと申し出ます。普段通り豪放に振舞っている兼家でしたが、内心では円融院や花山帝、亡くなった弘徽殿の女御の怨念に怯えていました。寧子(道綱の母)はそれを慰めながら、抜かりなく我が子道綱のことをアピールします。まひろは散楽の一座に自分の考えた台本を持っていき受け入れられますが、それが原因で右大臣家の配下の者
『光る君へ』感想あらすじレビュー第19回「放たれた矢」藤...bushoojapan.com関白になる必要は確かにもうないのですよねそもそも摂政は幼少期や病弱な天皇に必要だけれど大人になった天皇に摂政は要らないけども摂政だった人をじゃあアンタはクビねってわけにも行きませんものねというわけで関白は摂政がスライドするのにとても都合の良い立場だったわけですしかし道長は下から上がってきた身いきなり関白になると軋轢が
大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。『大河ドラマ『光る君へ』“勝手に”解説!~はじめに』はじめに大河ドラマ『光る君へ』が予想以上に私の好みでビックリしました!時代考証が倉本先生なので、そうおかしくはならないだろうな~とは思っていたのですが、…ameblo.jp※ネタバレ注意※第十八回以降のお話しも含みます②中関白家の苛立ち七月二十四日、最高会議の場である陣の控
本日も『藤原氏の本流は長男ではないことが多かった』企画をやります。今回で第4弾。藤原北家の祖・房前から数えて5代目(玄孫)にあたる良房(よしふさ)を取りあげます。良房は冬嗣の次男として生まれました。長兄は、長良(ながら)。802年生まれなので、良房(804年生まれ)とは2歳差。どちらも、母は藤原美津子(藤原南家・真作の娘)なので、同母兄弟にあたります。前回は脱線してしまいましたが、今回こそ、良房が兄を差し置いて藤原氏本流になっていったのは何故なのか…について、迫って
カインズワークショップ17回目。春の寄せ植え。雨の中行って来ました。材料費全て込みで2,800円。そろそろ潮時かも?来月一つ予約が取れていて終わったら考えよう。楽しいけどこれ以上作品が増えても飾るところ狭し。庭があるわけじゃない、狭いベランダです。退職後の趣味、やってみたかったガーデニング。カインズで教室があると知り昨年夏から通うようになりました。全予約制。熾烈な争い早いもの勝ち申し込み。随分お金をつぎ込んだ。失敗(ハンギングバスケット)は、授業料と諦め良い経験
自分の真の価値を知り、自分であることで福が訪れる☯まかねふくじーのです☯旅行記続きです『旅行記安倍文殊院へ①』自分の真の価値を知り、自分であることで福が訪れる☯まかねふくじーのです☯先日、友人たちと奈良県桜井市にある安倍文殊院に行ってきました🐢名前から想像でき…ameblo.jp『旅行記安倍文殊院へ②』自分の真の価値を知り、自分であることで福が訪れる☯まかねふくじーのです☯旅行記続きです『旅行記安倍文殊院へ①』自分の真の価値を知り、自分であることで…
本記事は、2016年12月に投稿した記事の補訂版です。源明子は父が源高明、母が藤原師輔の娘で、道長とはいとこ同士になります。父高明が安和の変で失脚した後、叔父の盛明親王に養われ(それを機に皇籍に編入されたらしく、「明子女王」との表記がいくつかの記録に見られる)、盛明の死後は藤原詮子(東三条院)に庇護されて道長と結婚しました(一説によると、道隆と道兼も明子に求婚したのだが、詮子は可愛がっていた道長に娶せたとのこと)。道長のもう一人の妻源倫子は現役の左大臣源雅信の娘であったのに対し、明子の父高
友人に、「何か柄本佑君では道長イメージじゃないのよね」と話すと友人「どうして?」「これからやらかす有名なエピソードがね、あんなサワヤカ二枚目では、そんなことやらかすように感じないのよね」「そうなの?」まずパワハラ案件の有名な話。一条帝の御代となって紫式部の父為時は再び閑職に追いやられることを恐れ、その嘆きを得意の漢詩にして帝に奏上した。一条帝はその漢詩を読んで為時の苦学を思って落涙し寝所に入っても嘆きはやまなかった。為時は除目で淡路守に決まっていたが、帝のご様子を見た道長は自分
NHK文化センター講座続いています今年は節分に開催次回夏休み企画はこちら↓8月3日(土)NHK文化センター千葉教室にて【こどもと楽しむ雅な十二単講座】開催!NHK文化センター千葉教室NHK文化センター千葉教室:8/3こどもと楽しむ雅な「十二単」講座〜着装の解説と装束の羽織り体験〜日本の伝統装束「十二単」は、平安時代の中期に完成したと言われる女房装束の儀服です。「晴れの装い」として受け継がれ現代の着物の原点と言われています。歴史や、重ね色目、伝統文様の解説を交えながら、実際
火定Amazon(あらすじ)※Amazonよりパンデミックによって浮かび上がる、人間の光と闇。これほどの絶望に、人は立ち向かえるのか。※話の結末にちょっと触れます。時は天平、若き官人である蜂田名代は、光明皇后の兄・藤原四子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)によって設立された施薬院の仕事に嫌気が差していた。ある日、同輩に連れられて出かけた新羅到来物の市で、房前の家令・猪名部諸男に出会う。施薬院への悪態をつき、医師への憎しみをあらわにする諸男に対して反感を持つ名代だったが、
ユネスコの要請に応え白井鐵造が作演出。新人の大原ますみが大劇場初ヒロイン。紫式部が夫宣孝との短い結婚生活を経て亡き夫を追憶しつつ源氏物語を書くまでのお話。大原ますみが紫式部役、真帆志ぶきが紫式部の夫宣孝と源氏物語の光源氏役です。ご贔屓様が新人公演で後冷泉天皇役で、予科の時から憧れてた汀夏子さんが本役で嬉しかったそうです。私は物理的に観ていません。(笑)殆どの読者も生存してない人もおおいのでは
大河ドラマ『光る君』にはまっています。私は中学生高校生の頃、古典の授業が大大大好き❤️でした。平安時代の貴族の雅な感じが好きで、十二単の衣装や生活様式や恋愛模様に興味新新な女子でした。中学生の頃に流行ったコバルト文庫『なんてすてきなジャパネスク』にわくわくしたり、漫画『あさきゆめみし』の世界観にひたったり。私はあまり得意科目がないのですが、唯一古典の成績はいつもクラスで1番でした。好きだから古典の勉強が苦にならなくて楽しくて楽しくて。で、大人になってからも平安時代好きは残り、田辺聖子の
長徳元年(995年)四月。父の道隆が病で亡くなると、定子の運命に翳りが見え始めます。病の床で道隆は、自分の後任の関白に嫡男の伊周を、と願いで出ますが許可が下りないままに亡くなってしまいます。後任の関白には、道隆の弟の道兼が任じられました。歓喜した道兼でしたが、流行り病にかかり、関白就任からわずか七日後に亡くなってしまいます。人々の関心は、次の関白の座が誰になるかに集まりました。候補者は二人。故道隆の嫡子、伊周と、道隆、道兼の弟である道長です。この時一条天皇の内意は、伊周にあったと
岡本梨奈著日本人なら誰でも知ってる、平安時代の超有名作家、紫式部。彼女の本名は不明で、いつ生まれていつ頃どうして亡くなったか詳細も不明だ。中宮の彰子につかえる女房として藤原道長にスカウトされた才女。この本を読んで、紫式部ってどんな人柄だったんだろうとわたしなりに想像してみた。ネガティブだけど気が強くて芯がしっかりしており、頭脳明晰で計算高く、陰鬱傾向。秩序を重んじ、気品があり洗練された知性と奥ゆかしさを好む。清少納言と面識はないが、才能や知性をひけらかすかのような言動は許せなかったのでは。
※画像は第83代土御門天皇x.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.comx.com『岸田総理の裏のミッションとその役割とは』9/13に内閣改造した岸田政権ですが、旧統一教会と癒着した議員を重要ポストに据える人事を発表しました。(東京新聞)新副大臣・政務官、54人のうち26…a
おはようございます。字を書くのが楽しくなり、もっとお稽古したくなるペン字・書道教室の太田真采世です。昨日、「春きたる」という作品の紹介をしました。この作品を書いている紙(料紙)は継ぎ紙風の印刷料紙です。仮名の作品は「料紙」に書くのが一般的ですが、この「料紙」ってご存知ない方も多いと思いますので、今日はそのお話をいたします。独特な技法で染料や顔料で色付けしたり、文様を刷り込んだり、金・銀の箔加工などの装飾を施した紙を料紙といいます。一言で料紙と言っても、染めたり塗ったり箔をのせたりと製
最終回ですが、何の前触れもなく雰囲気が変わります。別の日か、または伊周らが席をたった後です。中宮様が何かお話をなさったついでに、「私のこと好き?」とお尋ねになったの!「も、も、もちろんです」とお返事を申し上げると同時に、台盤所の方で誰かが大きなクシャミをしたものだから、「あらヤだ!うそを言ったのね!いいんだいいんだ」とおっしゃって奥にお入りになってしまったのうそなわけないのに…。中宮様への思いはちょっとやそっとじゃないのに…。あきれたことに、あのクシャミこそがうそをつ
先日、藤原北家傍流の祖となった藤原魚名をご紹介しました。魚名が見た夢(再掲)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12728328493.html今日はその続き、藤原氏魚名流を取りあげて行こうと思います。とはいえ、平安時代も初期の初期に枝分かれした家なので、その末裔は多岐に渡っていて、1回で語りつくすのは無理(言い切った)何回かに分けることにした中で、今回は藤原魚名の五男・藤成(ふじなり)の子孫をご紹介します。必要とはいえ盛大に脱
ご訪問ありがとうございます。さて、これからサロンの雰囲気を描こうと思うのですが、本家ヨーロッパのサロンが主人(女主人の場合も多い)が、自宅の客間を日を決めて開放し、そこに文化人や思想家、芸術家が集まるという形であるのに対し。日本ではもう少し緩やかに、貴族たちの交流の場としてのサロンがありました。それは平安時代の建物が非常に開放的で、さすがに後宮の屋内にいきなり入ってくる貴公子はいませんが、すのこ縁などから声をかければ、すぐに室内にいる女房(女官)が応答するという構造上、日時を約束し、客間
藤原妍子は、道長と倫子の次女。寛弘7年(1010年)皇太子居貞親王に入内し、寛弘8年(1011年)居貞が皇位に就くと(三条天皇)、長和元年(1012年)中宮に冊立され、その翌年に三条の皇女禎子内親王を産みました。当時、三条天皇と道長の関係が悪化しており、妍子が皇子を産むことで三条との関係が修復されることを期待していた道長は、皇女誕生に露骨に不機嫌な顔をしたそうです(これに対し、実資は「天の為すところ如何せん」と嘆息している)。三条との間に儲けたのは禎子のみで、皇子を産むことはありませんでしたが、