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10年ぶりにHawaiiに行って来ました🌴我が家と、初Hawaiiの75歳の母と独身貴族の弟も連れて行きました。(弟は初海外!)関空からJALで出発予定が、、飛行機のオイル漏れ?か何かでなんと!!5時間の遅延💦💦💦ありえない💨💨22時35分が、夜中の3時30分出発。ひとまず欠航にならず引き返すことなく、、無事に着いてくれたので良かったですが、、こんなトラブルは初めてで、、5時間も、関空のしかも出国手続き後で、搭乗口付近のベンチでひたすら待たなければならなかった。非常食の
手術が終わっても、私はずっと眠くてたまりませんでした。気づけば眠りについてしまう。遠くから、自分のいびきも聞こえてしまう。代わる代わる、看護師もやって来ます。「めち子さん、お名前と生年月日を教えてください。」私は乾いた声でようやく答える。「めち子、センキュウヒャク…」何度も何度も、このやり取りを繰り返しました。その度に看護師さんが液体を取り替え、私の身体に異常が無いかを聞いてきます。よく見ると、右腕には点滴、左腕には輸血がされていました。しばらくして、先生が来てくださいました
月明かりの眩しい夜でした。便意に似た腹痛で目を覚ましました。時計を見ると3時ちょっと前でした。4度目の出産。帝王切開の予定日から10数日前でした。なんとなく、今回は先に陣痛がきてしまう予感はありました。幼い子ども3人の相手でゆっくりする間などなかったからです。今までより、張ることも多かったです。でも、安静にすれば治まる、その程度の張りでした。検診時に先生にも診てもらったこともありましたが、子宮口もしっかりしまっていて問題ありませんでした。その他のエコーや検査も問題ありませんで
よんちゃんが亡くなってから、2年8ヶ月あまり。妊娠37週1日のこの日。ついに、私の人生4度目の帝王切開が始まりました。ずっとずっと、この時を目標に頑張ってきた。本当に、良く頑張ったと思う。私も、家族も、周りで支えてくれた方々も。みんなで手に入れたこの時だと思う。ようやく、ようやく、生きた我が子に会える。手術中は、オペ室の看護師さんと家族の話等をしていました。きっと、私が不安にならないように気遣ってくれていたのだと思います。看護師さんは、ずっと私の手をぎゅっと握り締め、話しかけ
よんちゃんと病院で過ごしたのは、ほんの数日でした。でも、よんちゃんは一回も泣かないから、私はなにもすることがありませんでした。産後はあまり目を使っちゃいけない。とか、聞くので、これまでの産後はできるだけスマホもいじらないようにし、赤ちゃんとゆっくりしていました。しかし今回ばかりは…常位胎盤早期剥離のことを調べたり、死産後のことを調べたり、あっという間に容量もオーバーです。入院時のお産セットに、無料プレゼントのハガキが入っていました。赤ちゃんの写真入り絵本と等身大ポスターのプレゼント
タイトル通り出産しました!早産です最悪なことに常位胎盤早期剥離になりまして、急遽緊急オペ!子どもは無事に生まれNICUへわたしも通常の帝王切開とそこまで大きく出血量もなく無事でした!以下レポです!どなたかの参考になれば!と自分の記憶が薄れる前の記録!まず夜中23時過ぎ頃から生理痛のような腹痛。痛いけどんーー10段階でいうと5-6ぐらいの痛み。便秘かな?とか思ってトイレで踏ん張ってちょっとでる0時まで様子見るもだんだん痛みもきつくなる陣痛のような間
※死産後の妊娠についての記事です。38w1d。帝王切開前日、今日から入院です。ブログは後日書こうと思っていましたが、時間があるのでリアルタイムで書きます。非常に暇なのです笑私自身、予定帝王切開は初めてなので「前日入院は何をするんだろう…」と体験談を読み漁っていたため、この記事もいつか誰かの参考になれば!時系列でババっと書きますね。10:00病院着、入院受付。入室予定の部屋にまだ前の患者さんがいたため、退室&清掃が完了するまでは空いている陣痛室で待機するよう案内
今回の妊娠、出産を経て分かった私の子宮の状態。担当医の先生が開腹して確認した結果。これ以上の妊娠は危険だとの指摘を受けた。子宮の上側は薄く、下側は硬く。きっと、下側は何度も切っているから、治癒する度に硬くなっていったのだと思う。子宮は付近の様々な臓器と癒着もしていた。膀胱と癒着し、筋膜とも癒着していて、執刀した担当医は癒着部分の区別が難しく、筋膜を誤って損傷したと話していた。癒着に関しては、個人差があることも知っている。しかしながら私は、元々の体質としては癒着もし難い方だと思って
昼過ぎ、部屋の移動がありました。産婦人科病棟の一番奥、個室の、静かな部屋でした。いろいろな配慮があっての事だと思います。夫も、昼過ぎに来てくれました。夫とよんちゃんと、3人で過ごします。助産師さんの提案で、手形足形を取ったり、沐浴や授乳をすることになりました。手形足形は、病院にキットがあったようで、それを使わせていただきました。夫が、ビデオを持ってきたので、その様子を撮影しました。手が真っ赤っ赤だねー。なんて、話しながら撮影しました。手と足が真っ赤になったよんちゃん。今度は
今日はお空の長男の4回目の命日。朝はいつもより早起きして御霊供膳とお団子を作りました。正直、ふだんは次男の育児に追われて良い意味で悲しむ余裕がないのですが今朝は珍しく次男が7時まで寝てくれていたため誰もいない静かなキッチンで黙々と料理を作っていると…久しぶりにボロボロと涙が。お供えを作っているときってやっぱり長男が「確かに存在したこと」と「もうこの世にはいないということ」と両方を思い知らされて悲しくなります。そういえば、育児で子どもが離乳食を食べないという悩みに対して
よんちゃんとの同室が始まってからは、朝昼晩、一回ずつ授乳をしました。もともと母乳の出が良い体質のため、母乳がにじむ程度にマッサージをします。あまり分泌させると、吸ってくれる相手はいないのにバンバン張ってしまうからです。医師から、母乳を止める薬も処方されました。しかも、1錠だけ。たったひと粒で効果を出す薬。4人目の授乳が、こんな形で終わることが悲しくてなりませんでした。助産師さんから、この薬は、私のタイミングで飲んでいいですよ。と、言われたので、お別れするまでは飲まずに過ごそうと思い
よんちゃんを常位胎盤早期剥離で亡くしてから、ずっとずっと考えていた問題。いったい、あとどれくらい早くいけばあの子は助かったのか。ネットや本、同じように辛い経験をされた方の体験記等をたくさん読みました。私はお医者さんでも医療従事者でもなんでもありません。ただの一経験者です。だからこれが本当なのかも分からないし、程度によって個人差があると思います。でも、私が感じた感覚として…『腹痛を訴えてから分娩までの経過時間』○約1時間後に出生で脳性まひという方を拝見しました。お辛かったと思いま
死産から今年で5年を迎えますが、ここにきて急に現実逃避してしまいます。お仏壇を見るのが辛いです。だからなかなか手を合わせられていない。ごめんねって思いながらもお線香に火をつけるのが辛い。お供えのお菓子を選ぶのが辛い。長男のことを忘れてるわけじゃないしもちろん生涯忘れるはずはないので一時期に「現実逃避」してるんだと思います。死産した事実が夢だったらよかったのに。なんて今さら思うなんて自分でも驚きます。ほかの天使ママさんは毎日お仏壇に手を合わせたり話しかけたりしてあげてるんだ
夫とふたりきりで出かけたのは久々でした。実は、出産予定前のゴールデンウィーク中、1日だけ実家に子ども3人を預けて出かける予定でした。車内で「ふたりきりは久々だね。デート行かずじまいだったね。」とか「夜中は渋滞もないし病院もすぐ着くね。」とか、他愛もない話をしていました。ナビ画面に流れるテレビ番組の内容に突っ込んだりしながら、楽しく向かいました。お腹の痛みは、相変わらず、まぁ痛いなぁ、くらいでした。当初予定していた誕生日より早まったけど、もうすぐ会えるんだなぁ、このまま帝王切開、腹をくく
助産師さんとは、その後もしばらく、お部屋で話を続けました。私のカルテ情報を更新したいからと、家族のことについても聞かれました。ジェノグラムをかく際には「ちゃんとあの子もかくからね。名前は何くんかな?」と言って、よんちゃんもかいてくれました。よんちゃんだけ、黒く塗りつぶされてしまったけど…そのジェノグラムを見て、よんちゃんの存在がしっかりと記録に残った事がすごく嬉しかったです。助産師さんは、前回、私とよんちゃんを襲った常位胎盤早期剥離についてお話してくれました。私に対し、早剥はうちの
よんちゃんとお別れした日から、900日が過ぎた。私は、スマホにカウントダウンのアプリを入れている。この日だけは、消したくない。ずっと残して、心に刻み続けていきたい。私の人生が、大きく変わった日。私が、変わった日。900日だって。900日前まで、お腹の中で生きていたんだって。あの日からずっと、悲しみと共に生きている。よんちゃんと共に、生きている。よんちゃんの2回目のお誕生日を過ぎたころ。私たち家族の元に待ち人がやって来ました。ずっと、ずっと、待っていた。ありがたいことに、
妊娠37週目にして、私は常位胎盤早期剥離により大事な大事な我が子を亡くしました。いろいろと調べたところ、常位胎盤早期剥離の既往歴があると次回妊娠時に再発しやすいとのこと。私や夫としては、やっぱり子どもをもうひとり育てたい。でも、怖い。そんな思いでずっと葛藤していました。出産前、私は今回が最後の妊娠だからと卵管切除も検討していました。でも、健康な子宮の一部を失うのはなんだか悲しくて。助産師さんに相談したら「迷うくらいならしない方がいいよ。今はミレーナとか避妊方法もいろいろあるから!」
夜、いつもと変わらず布団に入る。横になると肋骨の下あたりに胎動を感じた。これもいつものこと。「あ、赤ちゃん活動中だ」「起きてるんだね(笑)パパママもう寝るよ〜」旦那と一緒にお腹をなでて、赤ちゃんに話しかけてから眠りについた。-----------------------------午前3時半すぎ。ふと目が覚めると、左下腹部に少し違和感を覚えた。感覚的には卵巣の位置あたりに鈍い痛みがあるような気がする。お腹はとくに張っておらず、我慢できるかすかな痛みだったためトイレに
大量出血を乗り越えて、順調に育っていくピヨちゃん。12週の壁を越え、流産の心配はもうないと思っていました。最後の検診から3週間後の出来事です。振り返り記録、前回の記事⑪12週の壁、超えたはずだった死産までの振り返りまとめはこちら◆◇死産までの振り返り◇◆安定期に入ったらしようと思っていたことがたくさんあった。3Dエコーの予約をしよう!マタニティウェアを買いに行こう!断捨離をして、赤ちゃんのためのスペースを作ろう!赤ちゃん本舗に行
※死産後の妊娠についての内容です。結果からいうと大事には至りませんでしたが、今朝、自宅で転倒しましたベランダから洗濯物を取り込んでいて、足をひねって後ろ向きに転倒。↑こんな感じで窓と床がフラットではないので、その段差を超えるときに足首がぐねっとなったのだと思います(一瞬だったのでどこがどうなったのかは記憶が曖昧)。そして倒れた先にローテーブルがあり、その角で脇腹を打ってしまったのですとっさにお腹は庇ったので主に痛みを感じたのは脇腹と肋骨でしたが、もう心臓はバクバク。「お腹がぶつ
妊娠9ヶ月沖縄から帰ってきて、少し心配だった検診。結果は問題なく、順調でした。この検診が結局最後の検診となりました。ひかたんが生まれる11日前でした。今思えばなのですが…ひかたん妊娠中のお腹はこの時フワフワしたようなお腹ではなく、硬めで突き出るような形のお腹でした。一人目の妊娠の時、+14kg二人目ひかたんの妊娠は初期の頃から体重管理をしっかりしようと、食事は腹8分目にして毎日食べ過ぎないように心掛けていました。そのため体重はこの検診の時で+8.8kg。体重増加を抑えている
10年ぶりにHawaiiに行って来ました🌴我が家と、初Hawaiiの75歳の母と独身貴族の弟も連れて行きました。(弟は初海外!)長女が色々案内してくれて、本来ゆっくりするつもりがめっちゃハードに動くことになりました初海外、初Hawaiiの弟はやりたいことが盛りだくさんで、、その中で銃🔫と四駆バギーをやってきました。母もチャレンジ。楽しそうでなによりでした我が家はとにかく海シュノーケルで良くて、とにかく泳ぎたい、潜りたい色んなところで泳ぎました🤿長女が連れて行ってくれるビー
手術が終わってからの約24時間、私は不思議な体験をした。機械や点滴だらけで寝返りも打てず、周りだけが忙しく動いていくのを呆然と見ているしかない状況で泣けないどころか喜怒哀楽すべての感情がなくなってしまっていたのだ。そして、声がほとんど出ない。ふだん通りに出そうとしても囁く程度にしか声が出なかった。それらが精神的ショックからくるのか、全身麻酔や輸血の副作用的なものなのか術後の痛みによるものなのかそれは今でも分からない。私を心配して数分おきに「大丈夫?」と話しかけてく
午前5時過ぎ、救急病院に到着しました。バタバタと担架で担ぎ込まれます。担架で運ばれる最中、看護師から「PCRしますね」と言われました。私は、運ばれながら鼻に綿棒を差し込まれました。私の周りを医師や看護師が走り回ります。口々に「緊急です。急いで!」と言っています。こんなにも緊急なのか。ただただ、呆然と見ていました。緊急です、緊急です…看護師がバタバタと手術の準備を進めます。一緒に来てくれたかかりつけの先生と救急病院の先生が「エコー!」と言いました。看護師からエコーを受け取り、
入院2日目に赤ちゃんと対面してからはずっと病室に赤ちゃんを居させてもらった。たくさん話しかけた。私の体調はというと2リットル以上の出血があったため貧血がひどかったものの鉄剤の注射を毎日打ってもらうことで順調に回復してきていた。そのおかげで、入院4日目に外出許可がもらえた。外出許可願いの用紙に記入した。「外出の理由:火葬同行のため」。もう、お別れしなければいけない。心の準備なんてする間もない。悲しいタイムリミットが訪れた。新生児を連れた他の家族たちが笑顔で正面玄関か
家事の手伝いをしてくれた母も帰宅し、家族6人になりました。よんちゃんと過ごす事ができる、最後の夜です。まだまだ産後3日で傷の癒えない私を除き、夫と子供たち4人でお風呂に入りました。私はビデオ担当です。病院から帰宅してからは、クーラーの無い空間にいたためか、よんちゃんはうんちがドンドン出るようになっていました。夫はお風呂に入る前によんちゃんの肛門にガーゼをあててから絆創膏をつけていました。あまり長時間の入浴はよんちゃんに良くないと考え、先に上の子を洗ってからよんちゃんも入ります。夫は
産休に入って1週間後。36週目の妊婦健診を受けに病院へ向かう。「お盆は楽しんだかな?お祭り行った?」エコーの準備をしながら先生が笑顔で話しかけてくれた。「今年は出かけずのんびり過ごしました!」そう正直に答えると、先生は「あれ?そうなのね」と笑った。私が夏まつりに出かけなかったことを意外に思っているような反応だった。あれ?他の妊婦さんは臨月でも普通に人混みに行ってるもんなのかな。私が慎重になりすぎてるのかな。先生の反応を見た私はそう思った。少しだけ肩の力を抜いてもいい
私にはプロのカメラマンである友人がいます。夫婦そろって学生時代からずっと交流があり、妊娠中もよく連絡を取っていたので、今回の件も報告していました。すると、向こうからラインがあり、亡くなった人をキレイに写真撮影するポイントを教えてくれました。○蛍光灯を切り、窓際で自然光を利用して撮る。○可能であれば朝日がキレイ。○使い捨てカメラ等のフィルムもいい。荒かったり暗かったりするが、光を通して写すからまた違って感じられる。ということでした。本当は駆けつけたかったとのメッセージも添えられて
よんちゃんとの予定。ついに最後の火葬のみとなりました。朝のピクニックを終えた私たち6人は、家に帰ってからそれぞれの髪の毛と爪を切りました。爪は、夫がお父さん指、私がお母さん指、長男がお兄さん指、長女、次女がお姉さん指です。地域によって風習があるそうですが(私の住む地域にもその風習はなく、したことはありませんでした。)『亡くなった方が淋しくないように』という意味があると聞いたので、私たち家族はすることにしました。そして代わりに、よんちゃんの爪と髪の毛を切って胎毛箱に入れました。ちなみに
入院2日目の夕方から、病室へ赤ちゃんを連れてきてもらえることになった。火葬が2日後に決まってしまったのでそれまではできる限り一緒に過ごせるように。「親子3人で過ごしてね」との気遣いで両親と義父母は夕方までに病院を出てそれぞれ帰宅してくれた。改めて、赤ちゃんに会える。昨日は私が「私じゃなかった」から今日はきちんと向き合うんだ。会いたいけど、どこか怖い気持ちもあった。私だけが生きてしまった罪悪感、そして赤ちゃんが亡くなってしまった現実を受け入れなければいけない残酷さ。