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江戸城本丸を歩くその5梅林坂~平川門(帯曲輪)江戸城本丸を歩く・・・その1:馬場先濠~大手御門その2:大手御門~大手三の門~中の門~中雀門~富士見櫓その3:江戸城本丸:「松の大廊下跡」~「天守台」~「北桔橋門」その4:江戸城天守閣の模型を見て、展望台~二の丸庭園へ今回はその5:梅林坂~平川門そして帯曲輪のレポートです。■梅林坂汐見坂と同じく、本丸と二の丸を結ぶ坂。坂の名は、文明10年(1478)太田道灌が菅原道真を祀り、この周辺に道真公ゆかりの梅を植えたこ
別所山城(美作市大町)「古城之覚」は勝田北郡大町村の「大町山」として、城主を「大町甚右衛門尉」とする。「東作誌」は勝北郡大町村の「別所山城」として、別名を小山、本丸(東西十三間、南北二十一間)、二の丸(東西七間、南北十一間)、三の丸(東西六間、南北九間)、山の高さ四十五間、東・西は谷、北は山に連なり、南は平地で大手口、大町右京・同主計が住むと記す。(※美作国の山城より)南東四郭南三郭南三郭を仕切る南竪堀別所山城碑碑の裏の五輪塔群主郭より高い南東二郭南二郭南二郭の池主郭と南二
室尾城(津山市加茂町青柳)「古城之覚」は苫北郡室尾村の「室尾之城」として、城主を川端左近とし、天正年中の正月二十四日、愛宕精進のため肉食を断った「近習の児姓」に、左近が鹿肉を無理強いしたところ眉間を斬りつけられ、疵が悪化した左近は翌月の同じ日に二十五歳で死去したとする。「美作鬢鏡」は室尾城主を「川端左近太夫」、「東作誌」は、城主は川端丹後守で天正年中に退城、山の高さ三町、上ノ段(四間四方)、西の方に二ノ段(同上)、さらに西に三ノ段(長さ三十間)、その他にも多くの郭段があり、大手は東南と記す。天
小沢城(加東市小沢字北山)『加東郡誌』には文治二年(1182)、依藤豊季が東条谷の地頭職に任ぜられて、居城を小沢に置き、その末裔豊秋の時に小田に移したと記されている。しかしこの城の築城時期、城史等は不明であり、おそらく「豊地城」の支城の一つとして築かれたものであろう。ただ、『依藤系図』には、天正六年(1578)五月、三木の細川冷泉家が別所氏の夜襲を受けた際、これを救援したのが小沢城主依藤太郎左衛門であるが、依藤野にて自刃したとある。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)図に無い東三郭北東三郭
日上山城(苫田郡鏡野町寺和田)「古城之覚」は西北条郡寺和田村の「ひかミの城」として城主を小瀬勘兵衛とする。「作陽誌」は「日上山」として、山路は二丁三十間で険しく、小瀬勘兵衛が住むと記す。「美作鬢鏡」は「日上ノ城」、「美作鏡」は「日上城」とする。(※美作国の山城より)南西四郭南西三郭南西三郭の北東土塁南西二重堀切(西)南西二郭南西二郭の北東土塁南西二重堀切(東)南西二重堀切(東)からの北西竪堀南西二重堀切(東)からの南東竪堀その東隣の竪堀帯曲輪状の南東二郭南東二郭の東竪
星尾城(美作市大町)「東作誌」に勝北郡大町村に「星尾城」、一名を「構」として、東西二十五間、南北二十一間、四方は平地で南が大手、城主は大町右京などとする。『日本城郭全集』は「星尾城」「星尾構」と重出し、前者に天文(1532~1555)の初めに干尾重郎忠朝が築いて居城としたもので、本丸跡の中央には礎石が埋めてあり、その上に忠朝を祀る小祠があり、二の丸との間の段には忠朝の五輪塔など古墓が多くあり、本丸の周囲には石垣が転々と残るとする。(※美作国の山城より)南五郭南四郭南三郭南二郭主郭
稲荷山城(久米郡美咲町原田・西幸)「古城之覚」は久米南郡原田東村の「稲荷山」てして、城主を原田三河守平貞佐、二代目の原田弥右衛門の子は誕生寺住持長老とする。「作陽誌」は「稲荷山」として、南は西幸村、北は原田東村に属し、初め狐山といい、原田氏が代々住む、周囲の宅地は皆耕作地となるとし、同書所収の原田氏の系譜では保安五年(1124)に原田氏の祖、平興方が「狐山」に拠り同地を開発したと記す。「美作鬢鏡」は城主を「原田三河守」とする。『久米郡誌』は「稲荷山城」として、山頂は密林だが、その他は大部分耕作