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昨年末、思わぬ事が出来し、予定しなかった帰省をすることとなりました。で、鉄道の乗り合わせの間、珍しいモノが見えたという府内城へ。昨年の大雨によって土塀が崩壊し、そのなかから煉瓦上の土塊が露わになったということ。土塊は土塀の構造材とみられるが、類似の工法で造られた城の土塀は現存例が少ないとのこと。当初、塀の屋根に雑草が茂っていたことから「管理不行き届きやん」とか思っていたのですが、以前の地震のときにこの塀は傾いていたとのこと。まあ、そのときに修理しておけばよかったのですが、それでは今
名称:長谷堂城別名:亀ヶ城城郭:連郭式山城築城年:16世紀初期築城主:最上氏主要城主:最上氏、志村氏、坂氏所在地:山形市長谷堂堀跡土塁帯曲輪帯曲輪郡曲輪主郭へ虎口主郭復元図
5年前の更新を再UPしました。『観心寺の梅花2』昨日の続きです。観心寺の梅林内で撮影しました。逆光での撮影です。観心寺の梅林です。中央に石造の休憩所があります。…ameblo.jp前回の続きです。今回は本丸から本丸下の帯曲輪です。本丸の石垣が崩落した場所に造られた道です。赤い線に沿ってεの所に行くとεから下に降りる道があります。石垣崩落前にはこの坂道の上に天守がありました。ζのところに行くとζから来た道と降
今はただ、テレビ画面を通して応援することしかできませんが、被災者の皆様に笑顔が戻ることを信じております。被災地の復興成った暁には、金銭を落しに北陸方面の城攻めに馳せ参じとうございます。僅かですが紀伊・京城(中編)です。前編では後編へ続くと申し上げましたが、見どころが多いので3部編成にしまして、この回は中編です。中央曲輪群の桝形虎口から西曲輪群(主郭)へ行きますね。枡形から西曲輪群への地獄のトラロープ道をぐるじみながら登る上を見上げると・・・石積みがぁ!地獄は撤回!
1/6(土)に「青春18きっぷ」5回目を使って白浜方面へ「お城巡り」に出かけ、「紀伊田辺城」「安宅八幡山城」を訪城して、3城目は「安宅(あたぎ)本城」(和歌山県西牟婁郡白浜町安宅城の内)へ向かいました。といっても、「安宅八幡山城」から南にすぐの所を走るJR紀勢本線下を潜って田園の中にあります。丁度「日置川」を渡る橋の真ん前になります。「安宅氏城館跡」への案内↓この「安宅本城」の歴史や城主については、「安宅八幡山城」で触れたように「安宅氏」の本拠地となった館だそうで、「安宅八幡山
越前攻めの続きです。燧ケ城跡を攻略し昼餉の越前そばとソースカツどんを食いに越前市方面へ北上してると、見覚えある場所を通りかかったんです。というのも、よく城跡を検索してストリートビューで登城口なんか探したりしてるわけでして、今回は攻城予定してなかったが、通りかかってしもたので見逃すわけにはいかぬという事で、急遽攻城いたしました。福井県南越前町鯖波越前・茶臼山城(ちゃうすやまじょう)別名:茶磨山城茶臼山城は『越前国城跡考』では新田義貞を城主とし、杣山(そまやま)城の出城とし
続日本100名城、一宮城のラストです12:26本丸跡明神丸跡本丸は後のお楽しみとして、明神丸跡を先に攻略しますここからでも素晴らしい眺めの予感期待大ですど~んいいすね本丸を目指しますこれはなんでしょうか・・・蜘蛛をくわえたトカゲです帯曲輪12:31おっ写真でよく見るおなじみの石垣が遠くに見えますこんな感じで現れるんですね12:32到着しました階
江戸城本丸を歩くその5梅林坂~平川門(帯曲輪)江戸城本丸を歩く・・・その1:馬場先濠~大手御門その2:大手御門~大手三の門~中の門~中雀門~富士見櫓その3:江戸城本丸:「松の大廊下跡」~「天守台」~「北桔橋門」その4:江戸城天守閣の模型を見て、展望台~二の丸庭園へ今回はその5:梅林坂~平川門そして帯曲輪のレポートです。■梅林坂汐見坂と同じく、本丸と二の丸を結ぶ坂。坂の名は、文明10年(1478)太田道灌が菅原道真を祀り、この周辺に道真公ゆかりの梅を植えたこ
先日のヤフーニュース「暗くなるのでやめた方が良い」と忠告も「関東から来ているので」と入山古城巡り趣味の男性が滑落し遭難…翌朝救助(BSS山陰放送)-Yahoo!ニュース島根県安来市にある城跡の山で城巡りに来ていた男性が遭難し、翌朝救助される事故がありました。news.yahoo.co.jp午後4時からの攻城て、ちょっと無謀やおませんか?わしでもそんなことせんわ!関東であろうがどこから来ようが暗くなったら山中では視界0でっせ。おまけにスマホの充電0て💦ありえへん。住職とお
前回の続きです。今回は最終回でその外周です。下図RからQ方向です。城壁の外には遊歩道があります。Qから下の道路が見えます。Sの所にいくとSより見た左端は一の郭の石垣で、右側は二の郭帯曲輪の終点です。一の郭の石垣は沖縄戦で破壊されたので、新しく復元しています。なので石が新しいです。接合部分の拡大写真です。一の郭の石垣は1階分くらい高いです。下図TからS方向です。上図UからV方向です。上図VからU方向です。
未命名20219(姫路市広峰)兵庫県遺跡DBに記載されているが、詳細不明。広大な西二郭広大な主郭東二郭緩傾斜の東三郭東四郭帯曲輪状の東五郭帯曲輪状の東六郭帯曲輪状の東七郭東八郭未命名20219遠望軌跡ログ実地調査を元に作成した概略図姫路市の城
※2023年2月18日訪問※右手に南曲輪の石垣を見ながら、かつての大堀切跡と推測される道路を北へと歩いて行きます舗装された道路が土の道に変わり、城跡へと向かって大きく右手に折れ曲がっているので、先へと進んで行きます普通の山道と言った感じの平場部分ですが、今歩いている場所は【帯曲輪の下段部分】と思われます上を見上げると、帯曲輪の上段部分が見えています下の画像を見て頂くと、右手の高台が【帯曲輪の上段】、左手の谷に落ち込んでいるのが城の北側の【堀切】と、高低差がお分かり頂けるかと思います✨
※2023年2月18日訪問※西曲輪から本城曲輪(本丸)北側の【帯曲輪】までやって来ました縄張り図を見ると、帯曲輪は上段・下段の二段に別れているようで、西曲輪から繋がる部分は上段の帯曲輪だと思われます✨この当たりは崩れた石垣が手付かずの状態で転がっており、石材一つ一つの大きさも相まって、荒々しい印象を受けますね本城曲輪(本丸)、馬屋曲輪(二ノ丸)などと違って、この場所を訪れる人はほとんどいないようで、鬱蒼とした林と崩れた石垣だけが続く山道と言った感じですね✨帯曲輪の上段部分から下を覗き込
前記事の美濃国・猿啄城から再び木曽川を渡り尾張国に戻りました。愛知県小牧市堀の内尾張・小牧山城(こまきやまじょう)小牧山城は織田信長さまによって、美濃攻略の本拠地として築かれた城です。その後、信長さまは稲葉山城を陥落し、岐阜城と改めて移住したため、小牧山城は約4年間で廃城となりましたが、のちに羽柴秀吉と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」では、家康がこの地に本陣を置いたとされます。江戸時代には家康ゆかりの地として尾張徳川家が保護し、入山が禁止されたこともあり、山中の堀や土塁な
お城巡りから21時頃に帰りました。遅れましたが更新します。前回の続きです。今回は本丸前帯曲輪から本丸です。本丸前帯曲輪の土橋門跡から本丸表門を見ると土橋門跡から本丸表門方向です。この反対側は土橋門跡から土橋方向です。表門の方に進むと本丸表門が見えます。表門は1668年の大火焼失の後、1732年(享保17年)に再建されています。表門と旧二の丸隅櫓が内部公開されています。冬は雪が積るので、公開は3月下旬から11月30日までで、公開時間は午
神種城(姫路市夢前町神種)詳細不明。南東七郭南東七郭からの北東竪堀南東六郭南東六郭からの二重南西竪堀(東)南東六郭からの二重南西竪堀(西)南東六郭からの北東竪堀南東五郭南東五郭西帯曲輪南東四郭南東四郭南西腰曲輪南東三郭南東二郭主郭帯曲輪状の南西二郭帯曲輪状の南西三郭南西三郭からの南東五郭西帯曲輪西二郭帯曲輪状の西四郭西四郭からの北帯曲輪北帯曲輪の北竪堀再び西四郭からの北帯曲輪西五郭西五郭の北西竪堀神種城遠望軌跡ログ実地踏査を元に作成した概略図
鍋倉城(姫路市夢前町山之内字立船野)別名:鍋倉山城築城者は鍋倉市之丞とあるが、その年代や城主の系譜は明らかでない。その後宍粟郡長水城主広瀬正頼の家臣利瀬弾左衛門が居城した。山之内薬王寺の古文書によると、山之内地方は一時長水城主広瀬氏の支配下にあったことが記されていて、その頃の家臣利瀬弾左衛門が居城したのであろう。利瀬氏はかなり長くここにいたようで、山之内小学校前の橋を利瀬橋といい、利瀬という地名も残っている。あるいは利瀬の地名が先で利瀬弾左衛門が地名を取って姓としたのかもしれない。(※兵庫
王城谷城(姫路市夢前町山之内字我孫子)別名:王地の段元弘三年(1333)、名和長年が築いた。城戸の関は山が川の両岸に迫り難色である。ここを更に奥に入ると我孫子に王地の段という。ここに砦が築かれたというが、遺構は残っていない。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)南西四郭土橋状の南西三郭緩傾斜の南西三郭西帯曲輪南二郭不整形な主郭少し離れた北二郭王城谷城遠望軌跡ログ実地踏査を元に作成した概略図旧飾磨郡夢前町の城
小谷城で最東端に位置する主郭の、さらに東端まで来た。切岸+土塁付き堀切を設け、東からの敵に備えていた。↓最東端の竪堀と土塁堀切はそのまま竪堀となって、北側に落ちていっている。↓帯曲輪切岸を降りた所から帯曲輪となっており、ぐるりして南回りで西へ。写真は、来た方向を振り返ったものと思われる。左手の高台が主郭。↓小谷城縄張_再掲↓土塁付き横堀そのまま西へずっと進んで行くと、西小丸に近付くにつれ、土塁付き横堀が良く残っていた。↓梅の花と土塁付き横堀土塁の上に登り、梅の花も入れ込んで一
春日山城(神崎郡福崎町八千種小字鍛冶屋)別名:飯盛山城春日山城は嘉吉年間(1441~1443)、後藤三郎左衛門尉基明が居城した。応仁の乱には赤松政則の靡下にて出陣、山名勢を破った。天正の頃の城主の後藤伊勢守基信は天正六年(1578)五月十一日、羽柴秀吉に攻略され、落城した。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)主郭北帯曲輪下段主郭北帯曲輪上段の北西腰曲輪主郭北帯曲輪上段薮に覆われた北東竪堀主郭食料貯蔵庫とされる窪み主郭東帯曲輪主郭南西帯曲輪南西竪堀春日山城遠望軌跡ログ神
ブロ友さんがまた1人何の前触れもなく退会されたようです。諸事情はあろうかと思いますが、寂しくもあり、残念でもあります。いつも「いいね」を有難うございます。「いいね」を拝見するたびアメブロ内で皆様が存在してる事に安堵いたしております。暑い日々が続きますが熱中症にはご用心くださいませ。但馬・亀ヶ城(後編)参ります。(前編)では現在地から「東城」であるⅥ、Ⅶ、Ⅱ郭を侵攻し堀切Aまで来ました。これより帯曲輪Ⅴにちょいと寄って「西城」へ乱入しⅠ郭からウネウネゾーンへと参ります。堀底が
午前中の用事を済ませていつも通り山城巡りへ🚙💨💨💨今日の目的地は薩摩・西ノ城跡隣の薩摩・藺牟田城跡は5月19日に訪れましたが西ノ城跡への登城口が見つけられず😥そのまま帰ってしまいました今回は💻ネットでしっかり検索して下調べをしてから臨みました🤗目を付けた登城口は田んぼの横この奥です見当を付けて、ここから登城しました中に足を踏み入れたら直ぐにそれらしき🪨石が…途中から雨☔️めげずに🧑🏻🦯👩🏻🦯帯曲輪や段曲輪土塁や切り通し、切岸など確認できました標柱は見当たらな
谷口城(加西市谷口町谷口・福井町向山)別名:妙見山城詳細不明。東の吉祥庵東三郭東三郭からの北帯曲輪東二郭東二郭からの南帯曲輪主郭西三郭少し離れた西四郭谷口城遠望実地踏査を基に作成した概略図軌跡ログ加西市の城
上深水城塞。詳細不明です。麓のお寺と関係あるかも。中津市の中近世城館に記載されていました。麓神社の灯籠神社から左側に見える尾根に向かい進むと作業用林道に行きます。堀切また堀切南側の畝状空堀北側の畝状空堀。こちらは明瞭畝状空堀北端から切岸の連続最高所。むちゃくちゃ眺めがきれい帰りにまた北側の畝状空堀。帯曲輪が綺麗地形図ショートカットのポイントわかりにくくてすみません…
東日本大震災で石垣が崩落し、立ち入り禁止となっていた小峰城の本丸周辺エリアを11年ぶりに開放しました。開放されたエリアは、震災前にはバラ園があったところです。石垣が広範囲に崩落し、立ち入り禁止になっていましたが、帯曲輪門から矢の門までの約8000平方メートルが整備され、あらためて散策路として楽しめるようになりました。西側から北側にかけて、壮大な石垣が眺められます。石垣の組み方が他のエリアとは違った特徴がみられるそうです。帯曲輪の石垣から、さらに下の方にお堀があります。簡単には攻め込ま
2022.04.02シロバナタンポポ(城址公園お花見広場)今日も城址公園まで歩いてきました。週末とあって人出が多いとは思っていましたが、想像以上でした。午後1時前だったので、歴博の正門から駐車場まで入る車、出る車、どちらの車線も渋滞でほとんど動かない。混雑を避けて、「へび坂」から「帯曲輪(おびぐるわ)」に入り、「薬医門」から出て水堀沿いに歩き、「出丸跡」近くからまた「帯曲輪(おびぐるわ)」に入り、「浅間坂」を上って「お花見広場」に出ました。↓水堀越しに「出丸跡」を望む。
福王山砦(多可郡多可町中区高岸)詳細不明。主郭から離れた東二郭北東三郭北東四郭主郭主郭西帯曲輪南西二郭帯曲輪状の西三郭緩傾斜の北二郭西五郭西四郭福王山砦遠望実地踏査を基に作成した概略図軌跡ログ多可郡多可町の城
妙見山砦(多可郡多可町中区安楽田・牧野)詳細不明。帯曲輪状の南二郭主郭南二郭からの主郭西帯曲輪主郭の西石垣主郭北西帯曲輪北東二郭上がって北東三郭北東四郭上がって北東五郭北東六郭南東帯曲輪北東六郭(妙見山頂上)北東七郭北東八郭妙見山砦遠望実地踏査を基に作成した概略図軌跡ログ多可郡多可町の城
福地城(西脇市黒田庄町福地)別名:蟲生城新館詳細不明。西四郭西三郭の西虎口と土橋水堀(北)水堀(南)西三郭の西土塁西三郭南西二郭南帯曲輪南西二郭南帯曲輪と主郭南帯曲輪の間の空堀空堀東側の土塁主郭南帯曲輪南西二郭の西虎口南西二郭主郭主郭の北東土塁北東堀切福地城遠望実地踏査を基に作成した概略図軌跡ログ旧多可郡黒田庄町の城
上大伏山城(西脇市黒田庄町大伏)詳細不明。帯曲輪状の北東七郭北東六郭北東五郭東下段北東五郭西上段北東四郭北東三郭帯曲輪状の北東二郭北東二郭からの主郭北西帯曲輪北東二郭からの主郭南東帯曲輪主郭主郭の北虎口状の窪み緩傾斜の南西二郭上大伏山城遠望実地踏査を基に作成した概略図軌跡ログ旧多可郡黒田庄町の城