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天海(165)近江から久尻村の庄兵衛の屋敷に着くと重大な知らせが入っていた。「勘右衛門殿、良く戻られた。これをご覧あれ。」と差し出された書状を見ると、「庄兵衛さま」と書かれた女文字の文であった。「これは、お福殿か。」と慌てて書状を読むと、驚くべきことに「小早川家は徳川方に内応することに決した。」というのである。「お福殿が申すには家老の稲葉、平岡の両名が秀秋公を説得したとのことで、近々内府様に密書が届くというのだ。この事いち早く内府様にお伝え願いたい。我らの大きな
ひさしぶり【幕末ゆかりの地シリーズ】幕末を維新へと切り開いたのはいろいろな藩から勃興した勤王の志士たちですけどやはり薩摩・長州が有名どころです。長州って広島県も大きく含まれてるからやはり広島に近づけば不意に幕末歴史ヒストリアに出会うこともある。寿徳寺勤王家丹羽精蔵先生の墓!?丹羽精蔵・・・・・聞いたことないな。別に観光パンフレットになんの記載もないしねえ。ここでスマホで調べてみる。(便利時代)【丹羽精蔵とは】
4/20(土)に、大阪の城友と一緒に「菩提山城」(岐阜県不破郡垂井町)と「松尾山城」(岐阜県不破郡関ヶ原町)に登城しました。「竹中氏陣屋櫓門」からは、「関ヶ原古戦場」内を突っ走り、車で約20分位で「戦国ロード」沿いの「松尾山城登城口」に着きました。「松尾山城」の歴史と城主については、「関ヶ原の合戦」時に、西軍から東軍に寝返った「小早川秀秋」が陣取っていた陣城ということは良く知られていますが、陣城として活用される前の城主は、「主郭」に詳細が記載された案内板に記載がありました。そ
こんばんは。関ヶ原組始祖関ケ原おもてなし武将隊小早川秀秋です。今週も金吾は石田三成陣跡笹尾山(山頂)におりました。午前中は・・・余り人が来ないねぇ。先週よりも鶯が上手に鳴いている。風はちょっと冷たいかな。よし、森林浴しよう。・・・お昼の鐘が聞こえる。ちょっと暖かくなって眠くなってきたぞ。おや、団体さんだ。ここから凄かった。どんどん人が来る。次々に山を上ってくる。だからボクも解説解説解説。休む暇もなく話続けたと思う。解説聞いてくださった方が凄く分かりやすかったとか、面白かっ
岡山戦国武将隊の著作権盗用について記します。こばやかわぴよあきなるものがあちらに居ると思いますが、原型はこちらの小鳥川秀秋。2015年の3月の時点でおかめいんこの秀秋が生まれております。何故おかめかというと我が屋敷にいる子がおかめでその子が原型だからです。愛する我が子すらも盗られました。我が子の奪還及び岡山戦国武将隊のぴよあきの利用停止、何処に上げられているのか分からないので岡山戦国武将隊が有するあかうんと、日記のIDからの全削除、謝罪、盗人たる隊の解散を求めないといけないと思いま
<速報>昨日(4/20)、城友と一緒に「菩提山城」(岐阜県不破郡垂井町)と「松尾山城」(岐阜県不破郡関ヶ原町)に登城しました。どちらのお城も以前から登城したい山城で、「菩提山城」は昨年に「竹中氏陣屋」に行った際に、後方に見えた菩提山頂にあるお城は「羽柴秀吉」の軍師であった「竹中重治(半兵衛)」が居住していたお城とのこと、「松尾山城」は「関ヶ原の合戦」時に、西軍から東軍に寝返った「小早川秀秋」が陣取っていた陣城ということで、いずれも興味津々の山城でした。「米原」でカーシェアによる車で
宣伝宣伝宣伝~!!秀秋の民に宣伝~小早川の民が『推し将!』で小早川秀秋を語りに西から東に乗り込むそうなでどうぞよろしくお願い致します。キミ、電脳系全く使えないのにどうやって発表するの?と聞いたら「紙で…」とか言ってます。秀秋強火担な愛だけで押し切る猪なのだが大丈夫かな…暴走しないかな~…話術と知識はある程度あるし、演劇人だから人前で話すのも大丈夫だろうけど、熱入るとすぐ暴走するからな…金吾後ろで観ているわ(ついて行く気満々)。しかし東で小早川秀秋って馴染みなさ過ぎて聞いてくれる人
本日の「天守台シリーズ」は第71弾「三原城」(広島県三原市)です。現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」
今回は、岡山県の山陽学園中学・高校です。https://www.sanyogakuen.ed.jp県都・岡山市の中心部、旭川東岸にある伝統校です。なお、同県浅口市にあるおかやま山陽高校、広島県廿日市市に似た校名の山陽女学園中・高がありますが、別法人で特に関係はありません。岡山駅から岡電(岡山市電)で東進し旭川を越えて終点・東山の近くに校地があります。周辺には門田屋敷町、中納言町といったなにやら床しげな地名があるのは、岡山藩時代に門田地区に武家屋敷が建ち並んでいたとか、戦国時代の武将・小
ボクの家紋の話をしよう。Twitterではよく書いているけれど、改めて書いてみよう。『小早川家』の家紋は三つ巴だ。最近だいぶ知られてきたような気がする。これね。何年か前までは関ケ原陣跡制覇うぉーくでもこちらを使っていた。途中から違い鎌に変わったけれど、ボクが違う…て呟いていたからな……汗でもこの紋、左右がはっきりしていない。左三つ巴とも右三つ巴とも言われる。巴紋の一般的見分け方は…1、親指を出して両手を握る。2、親指が内側にくるように両手を並べる。手の甲が見えるよね?はい