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2024,5,4(土祝)昨夜はぐっすり眠れました赤岳鉱泉の朝食は焼魚ほかほかのご飯が美味い並々のおかわりしました食事を終えて下山開始計画した時間どうりに下山しビーナスライトのスズラン峠へ移動駐車場は満杯路肩も車でいっぱいでも、ここで降りるのは2人残る3人は北八ヶ岳ロープウェイへ登山口の道は平坦なんですが岩がゴロゴロした急登に変わりますおっちら、おっちら後続に抜かれながら2時間登りつめるとやっと終わりが見えてきたこれを登り終えるとガレ場のトラバース右側が切れ落ち
天海(166)「慶長五年七月十九日、徳川秀忠、兵ヲ率イテ江戸城ヲ発シ、下野宇都宮ニ陣ス。徳川家康、増田長盛ノ変報ニ接シ、之ヲ先発ノ諸将ニ告ゲシム。是ヨリ先、徳川家康、石田三成挙兵ニ備へ、越前府中ニ帰国セシム。」(「史料綜覧」)伏見城への総攻撃が始まったころ、先発の秀忠は宇都宮に進出し、家康はまだ江戸にいた。そこに続々と大坂異変の報が入ってきたのである。「慶長五年七月廿一日、徳川家康、兵ヲ率イテ江戸城ヲ発シ、武蔵鳩谷ニ泊ス。徳川家康、武蔵岩槻ニ泊ス、是ヨ
天海(165)近江から久尻村の庄兵衛の屋敷に着くと重大な知らせが入っていた。「勘右衛門殿、良く戻られた。これをご覧あれ。」と差し出された書状を見ると、「庄兵衛さま」と書かれた女文字の文であった。「これは、お福殿か。」と慌てて書状を読むと、驚くべきことに「小早川家は徳川方に内応することに決した。」というのである。「お福殿が申すには家老の稲葉、平岡の両名が秀秋公を説得したとのことで、近々内府様に密書が届くというのだ。この事いち早く内府様にお伝え願いたい。我らの大きな
2016年4月28日(8年前)☆☆☆☆Internet時代は、驚かせられることが起きますね!!☆☆☆☆皆さん、おはようございます。今朝の上田は、予報通り雨が降っています。また、昨日のBlogアクセス解析で分かったのですが、2014年10月にアップしたこのページに1100人以上のアクセス者があり、Totalで2500ほどのアクセスがありました。通常、水曜日が一番アクセスが少ないはずですが、これもNHK大河ドラマ「真田丸」効果、影響ですかね!!また、この機会に、下記の湯浅五助に付いてのスト
4/20(土)に、大阪の城友と一緒に「菩提山城」(岐阜県不破郡垂井町)と「松尾山城」(岐阜県不破郡関ヶ原町)に登城しました。「竹中氏陣屋櫓門」からは、「関ヶ原古戦場」内を突っ走り、車で約20分位で「戦国ロード」沿いの「松尾山城登城口」に着きました。「松尾山城」の歴史と城主については、「関ヶ原の合戦」時に、西軍から東軍に寝返った「小早川秀秋」が陣取っていた陣城ということは良く知られていますが、陣城として活用される前の城主は、「主郭」に詳細が記載された案内板に記載がありました。そ
<速報>昨日(4/20)、城友と一緒に「菩提山城」(岐阜県不破郡垂井町)と「松尾山城」(岐阜県不破郡関ヶ原町)に登城しました。どちらのお城も以前から登城したい山城で、「菩提山城」は昨年に「竹中氏陣屋」に行った際に、後方に見えた菩提山頂にあるお城は「羽柴秀吉」の軍師であった「竹中重治(半兵衛)」が居住していたお城とのこと、「松尾山城」は「関ヶ原の合戦」時に、西軍から東軍に寝返った「小早川秀秋」が陣取っていた陣城ということで、いずれも興味津々の山城でした。「米原」でカーシェアによる車で
倉敷ふつかめの朝朝は6時半くらいに目覚めたけどあたしはベッドでだらだら前日撮ったスマホの写真を整理したりSNSのチェックとか結局9時過ぎまでゴロゴロしちゃいましたちなみにSちゃんはその間にコーヒーを淹れて朝食のパンを2個食べて大浴場へ♨前日遅くまで飲んだり食べたりした日はあたしは朝は食べれないのでホテルの朝食はつけずにSちゃんにはパンを買っておいてもらったよ10時半くらいにはホテルを出発しよう〜と決めていたのでやっと9時半にベッドを出たあたしSちゃんが淹れてくれた
高松から岡山市中心部へ戻ってきました。岡山城の住所が岡山県岡山市北区丸の内。備中高松城の住所が岡山県岡山市北区高松。実は二城とも岡山市北区なんですよ。前回はJR移動してまして岡山から高松まで5駅で、確かに20分ほどで到着した記憶。距離にして約15kmだそうです。こんなに近いんだけど令制国時代の岡山城は備前国、高松城は備中国。二城とこ国境に近い位置だったのが非常に興味深い。さて…ホテルへ戻りまして少し早いけど今日はもう部屋で駄目人間なろうかと思ったが…まだ日も落ち
天海(137)大坂の稲葉邸はなかなか立派な屋敷であった。小早川家付け家老の正成は、見るからに野心家であり、油断のならないギラギラとした目をしていたのである。庄兵衛は久方ぶりにあったお福の変貌ぶりに驚きを隠せなかった。庄兵衛が庇護していた子供たちの中でも、お福と与平次は、幼いころから気にかかる存在であったのだ。お福は子供の頃から顔立ちがはっきりしていて、稲葉家では武道を、三条西家では有職故実や礼儀作法を学んでいた利発な子であった。謀叛人の子として生まれ、親がいなく
天海(136)「京都大坂は今きな臭いので、できれば行きたくないのだが、内府様のご命令となれば致し方あるまい。」と庄兵衛は小声で言う。為信は大きく頷き、「私もそのお福という方に是非ともお目に掛りたいです。」と言った。為信は背が高く痩せ気味で、相貌は若い頃の庄兵衛によく似ていた。実はこの為信の娘こそが、後世、大奥を差配した三沢局である。二人が伏見の遠山邸に入ると、利景と天海が出迎えてくれた。「呼び出して済まなかった。伏見もようやく小康を保ったところなので一安心だ
残念な武将日本の歴史についての本やTVを見るのが好きです。私が注目するのは女の武将とあまり注目されない武将なのです歴史上、色々な戦いで活躍した武将が沢山います。歴史は勝者の都合の良いように物語が描かれます。そのため勝者はまるで正義のように描かれ、敗者は悪者、裏切り者のように描かれています。勝者、敗者であっても、忘れ去られてしまう武将がいるのです。勝者、敗者、忘れ武将さられたと分ける事ができると思います。敗者でも子孫がいれば敗者復活ができ、語り継がれていくのです。また時代と共
平均視聴率21.2%を記録!妻夫木聡主演作!直江兼続の愛と誇りと勇気の生涯を描いた「大河ドラマ天地人」を全国無料放送‼|BS松竹東急4月4日(木)スタート毎週木曜夜6時15分~2話連続放送時代劇コラムニストペリー荻野が語る「天地人」の見どころ『戦国乱世に”愛”。大いにアリです!』BS松竹東...t.co小早川さんを演じた雄ちゃん歴史を大きく動かしてほどなくして若くして世を去った武将小
かつての竹中氏の城、菩提山城跡を後にし、垂井駅への道中に寄り道です。カフェ・フランドルさんコーヒーもチーズケーキも美味しかったです。しかし、高速バスで早朝の岐阜駅に着き、そのまま電車に乗り、垂井駅から菩提山城跡へ行って来た私めは、お昼ご飯をちゃんと食べたい‼️フランドルさんには食べるものがチーズケーキしかないので、すぐに出立。垂井の泉を目指してGoogleマップのサポートを受け、垂井城跡へ到着。この石碑以外は全く何もありません。城跡としては見所なし!しかし、平塚為広と大谷吉継の
天海(124)「ところで、私は与右衛門と天海、勘右衛門に近江衆の懐柔を頼みたいのだ。近江は三成の根拠地で地理的にも重要である。ここを三成に抑え込まれると東国との連絡が断たれ、秀忠上洛の妨げにもなる。」と家康は言うのである。近江は秀吉の知行地だったこともあり、蔵入地(23万石)が多かった。大名としては北近江佐和山に石田三成(19万4千石)、南近江大津城に京極高次(6万石)、甲賀郡水口に長束正家(5万石)、坂田郡等に新庄直忠(1万5千石)、朽木谷には朽木元綱(9千石)等がい
例の脚に真剣ブッ刺し事件だがとある記事を見て…初めに加害者の教員を擁護するつもりは全く無いと言っておく。この事件に対してコメンテーターらしき男が「居合道家は何故か知らないけど真剣を使いたがる」と発言。なんでわざわざ危険な日本刀を使うの?なんで居合刀を使わないの?という事。剣術家にとっての日本刀は職人の道具と同義。職人は自分の使う道具に強いこだわりを持つ。同様に剣術家は自分が扱う日本刀に強いこだわり持つ。もっと分かり易く言えば野球選手が自分好みのバットをオーダーする。これと同じこ
大阪からの帰路で、岡山に立ち寄りました。津山城。入園料310円です。無料駐車場あります。あと10日もすれば桜の名所でもある津山城を見ることができたのですが・・・城郭も、石高から考えると相当な大きさで、天守閣もかなり大きかったのが想像できます。森忠政(槍の名手、森可成の子供で、叔父は信長とともに殉死した森蘭丸)が建設に着手。忠政は、江戸城や駿府城の普請でと当時の城作りのノウハウを吸収したと言われ、この名城が1616年に完成したと言われています。建造物も本丸に31・二の丸12・三の丸17もあっ
バレンタイン時期購入の自分チョコまだまだ楽しんでおります。これはまぁいつでもカルディにあるけど💦な、オレンジピールダークチョコレート🍊思った通りの美味しさで🧡やっぱりダークチョコとピールの取り合わせ好きだわぁ。先週関ヶ原の古戦場記念館に行った時の息子へのお土産👇旦那さんがサイダー、私がスナック菓子と夫婦して小早川秀秋の「うらぎり」商品を選んで大笑い今の息子の年齢で、あの戦場にいたかと思うと、秀秋、そりゃ迷うわよねぇーー今まではなんだかへっぴり腰のどっちつかずだと
春休み✨岡山に旅行に行きました✌️ちょうど3/3お雛様がホテルのロビーに飾ってありました✨✨✨で、岡山の新幹線の駅のすぐには、なんと郊外型の商業施設イオンが😳❗❗駅前商店街が、お客さんを奪われると思って、駅近くの大型スーパーの誘致に反対し、その結果、駅前が寂れていく話は、昔から耳タコですが、、初めて目にしたパターン😳⭐結果、どうやら、以前来た時より、駅前が華やかになり、栄えているような印象でした🤩✨✨✨これ、次の日、訪問した岡山城建設時のスピリットから来ているかも❗そし
前の記事ふたつ『大阪市内散歩・三光神社』2月8日(木)JR大阪駅から環状線外回り線に乗って、6駅「玉造(たまつくり)」駅へ。「玉造」っていう名前の由来は、昔、勾玉を作っていた所だったから…とか。…ameblo.jp『大阪市内散歩真田丸跡』前の記事『大阪市内散歩・三光神社』2月8日(木)JR大阪駅から環状線外回り線に乗って、6駅「玉造(たまつくり)」駅へ。「玉造」っていう名前の由来は、昔…ameblo.jpなんか、すごいところを見つけました。
なぜ関ヶ原が決戦の場になったのか?家康は石田三成のいる大垣城を攻めなかった。大坂城の方へとすすんでいった。これは、大垣城にいる石田三成をおびき寄せるためだった。しかも大坂を守らないといけないので三成は動かざるを得ない。実は家康も三方ヶ原で武田信玄にやられている。素通りされてしまったので馬鹿にされたと思い、思わず城から出てしまいおびき寄せられてしまった。それで信玄に大敗してしまった。小早川秀秋はいつ東軍に寝返ったのか?小早川秀秋が東軍に寝返ったことにより、勝負がす
楽しいキャンプも終わって。オープン戦だわ。ゲラは大丈夫か?オリックスは若手が育ちすぎ!!雨後の筍だな。まさしく。次は歴史の話後醍醐天皇肖像画を見たときに「威厳があるなー」って。学生時代に思いました。小早川秀秋肖像画を見たときに「頼りないな」と直ぐに思いました。肖像画はその人の評価を決定づけるものかもなナポレオンは実際よりスタイルよく、イケメンに肖像画を描かせたようだ。分かっていたんだな。
天海(92)秦末の名将・章邯は、項羽率いる楚軍と鉅鹿で死闘を演じていた。二世皇帝・胡亥は、宦官・張高に遮られ、緊迫した戦況を知らず、しばしば章邯を叱責した。追い詰められた章邯は、戦況報告のため副将・司馬欣を首都・咸陽に派遣したのである。事実が露見することを恐れた張高は、これを捕縛しようとした。危うく難を逃れた司馬欣は、急ぎ鉅鹿に戻ると章邯に降伏を勧めたのである。章邯が降伏すると、項羽はこれを歓迎した。祖国のために戦い続けた章邯を高く評価し、雍王に任じたのである。ここに秦
天海(91)ところで、慶長の役の総大将は小早川秀秋である。ただ、当時はまだ15歳に過ぎず、慶長2年(1597年)12月頃には、秀吉から再三の帰国命令を受けていた。慶長3年(1598年)1月29日に帰国すると、いきなり越前国への減封命令が下っている。秀吉は秀秋の行動がよほどお気に召さなかったのであろう。このため、事実上の総大将が秀家だったのである。最初に気付くのは戦線縮小案に清正、幸長、一吉は署名していない、ということである。つまりこの3人の同意を得ずに、縮小案は秀吉に注
今日のスケッチ。2時までお仕事で、出かけたのが遅くなって、スケッチは素描まで。明日完成させる。場所は海浜幕張の庭園。5時閉園では仕方ない。山のスケッチと違い1時間では無理。日本史で一番嫌われている人物、たぶん小早川秀秋だ。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの裏切りで、日本一の卑怯者のレッテルを貼られた。西軍に属し、関ヶ原の戦いの前哨戦では伏見城攻めまで参加しておきながら、関ヶ原の戦いでは、戦い中盤で突如東軍へ寝返り、西軍を攻め立てた。しかし、秀秋
🌸小早川秀秋(安土桃山時代)19歳で天下を左右した『要旨』☆小早川秀秋、日本一の裏切り者☆秀秋、秀吉との養子縁組を白紙にされて豊臣家から追い出される☆小早川秀秋は、大きな戦いを前にしても煮え切らない態度*小早川秀秋、天下分け目の戦いを決する位置松尾山に立っている*小早川秀秋、日本一の裏切り者と言われる行動を取る☆小早川秀秋、21歳でこの世を去る☆秀秋が死に跡継ぎがいなかった小早川家改易「小早川秀秋」「裏切り者」(『日本史の黒幕』記事より画像引用)⛳
BS11での偉人、敗北からの教訓で小早川秀秋をやっていた。関ヶ原で史上最大の裏切り者といわれるようになったのはなぜか?小早川秀秋は秀吉の養子であった。北政所に育てられた。秀頼が生まれることにより、立場が変わってしまった。そのため、毛利輝元のおじ筑前国の小早川隆景の養子になる。小早川隆景の養子になることにより、秀頼の支えとなること期待される。筑前国は朝鮮出兵の拠点とされ、慶長の役の総大将に任される。関ヶ原では、突如寝返ったように言われていたようだけど、実はそれは現在
空の食器の前でじっと待つネコ非常にお行儀がよい最近は勝手口の前で出待ちをしたり革の椅子で爪研ぎの音を立てたりアピールしてくることもさて、逆説の日本史関ヶ原の敗因は二人のアホ家康に踊らされた福島正則や寝返った⁉️小早川秀秋が定説本作では石田三成と毛利輝元初戦で破れた時小早川秀秋が寝返った時大谷吉継が破れた時に三成は大阪城まで生き延びるべき籠城すれば和議に持ち込め逆転も可能であった確かにこの手があったか押城の大敗、戦下手の三成三成が切れ者だっただけに有能な軍師
BSで小早川秀秋は裏切り者か?という番組があり,こういうテーマ好きなんで視聴しました。昨年の1年間,大河ドラマ「どうする家康」視聴したんですけれど終盤の関ヶ原をどう描くか?と興味津々だったんだけどやはり小早川秀秋。裏切り者で描きましたね。合戦後の2年後に亡くなって,お家断絶になる訳だから死人に口無しで,脚色されたのかなと思ってた。最近の資料からすると有能な武将で初めから東軍に属していた。大軍を指揮する訳だから,それなりの器で補佐役も有能な側近もいたでしょうに関ヶ原ではなく少し西の
宣伝宣伝宣伝~!!秀秋の民に宣伝~小早川の民が『推し将!』で小早川秀秋を語りに西から東に乗り込むそうなでどうぞよろしくお願い致します。キミ、電脳系全く使えないのにどうやって発表するの?と聞いたら「紙で…」とか言ってます。秀秋強火担な愛だけで押し切る猪なのだが大丈夫かな…暴走しないかな~…話術と知識はある程度あるし、演劇人だから人前で話すのも大丈夫だろうけど、熱入るとすぐ暴走するからな…金吾後ろで観ているわ(ついて行く気満々)。しかし東で小早川秀秋って馴染みなさ過ぎて聞いてくれる人