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「岡山城」いろいろな種類の石垣が残っています。大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも出てきましたが、岡山城の城主だった宇喜多秀家(うきたひでいえ)の父、宇喜多直家(うきたなおいえ)は、織田と毛利にはさまれて大変でしたね。関ヶ原の戦いで貢献した小早川秀秋は、徳川家康から岡山城を授かりました。小早川秀秋から、池田輝政、そして池田光政が岡山城を治めます。磯田先生のコーナーがあります。昔の日本人は、背が低かったんですね。絵図
3連休2日目今日も何処かへ行こうと思う。暑いので博物館や資料館に行ってみることにする。候補は安土か関ヶ原ただ大河ドラマでちょうど本能寺の変が起こったところなので安土城跡周辺の資料館などは人でいっぱいではないかと思い関ヶ原を目指す。名神高速を走行中にクラウン70,000kmに到達高速走行中だったので嫁さんに助手席から手を伸ばして撮ってもらった。ただ速度は載せられない💧昼飯をどうするか…中途半端な時間だったので関ヶ原周辺に着く頃には昼営業が終わっている可能性があるので伊吹PAにある松
岡電清輝橋線・大雲寺前電停から大雲寺を訪ねた。標柱に「ちぎり地蔵尊」と刻まれている。大雲寺は、浄土宗西山派寺院で、山号は、法澤山。本尊は、阿弥陀如来。石像地蔵菩薩・日限地蔵が安置されていることで、知られている。中国地蔵尊霊場・第二版札所である。境内には、奉納された多くの地蔵尊が並んでいる。御利益のある地蔵尊にお参りする参拝客も多い。日限地蔵(ひぎり地蔵)は、本堂内に安置されている。日限地蔵は、日を限って祈願すると願いが叶えられると伝わる地蔵尊だ。天正年間(1573~1592)岡山城
「軍師官兵衛44回」から家康55歳秀吉60歳家康、「殿下は長くはもたん。わしの見立てではあと2年」薬草を口にしながらつぶやく。官兵衛は、高松城の水攻め以来、偉大な敵毛利の大将として出会い、袂を一にしたのちは、九州の制圧にも協力した小早川隆景を訪れていた。跡継ぎ、小早川秀秋を官兵衛に引き合わせたのち、人ばらいして「死ぬ前に逢いたかった」と官兵衛に語り始める隆景。「またこの国に嵐が吹き荒れる。そのときわしはおらぬ。おまえとは長いつきあいじゃった。
皆様、こんにちは‼️タケ海舟です‼️これまではずっと…さてさて…からブログ記事を書き始めていましたが…今回から最初に名を名乗ることにいたしました🆕いきなり、さてさて、では…初めてこのブログを閲覧された方は…「このブログを書いている人のことがいまいちわからないな?」と思われてしまいますので😅先ずは名前を知っていただこう‼️ということで冒頭バージョンをマイナーチェンジすることにいたしました🆕ずっとブログをご覧になっていただいている皆さんは…いささか面食らってしまわれるかも
白峰旬「徳川家康の「問鉄炮」は真実なのか」渡邊大門『戦国史の俗説を覆す』所収関ケ原の戦いにおいて、徳川家康が、寝返ると約束しておきながら態度の煮え切らない小早川秀秋に鉄炮を撃ちかけた話。なかったらしい!?東軍・西軍による一進一退の攻防が続く中、家康が業を煮やして秀秋に鉄炮を撃つ。慌てた秀秋が布陣していた山を駆け下り大谷吉継の陣へ突入。これで一気に東軍の勝利に決したというのが定説だったはずだが。著者によると、秀秋は朝イチくらいに大谷吉継の陣に突っ込んだら
昨日は関ヶ原古戦場の松尾山へ19歳の小早川秀秋東軍と西軍の狭間に揺れ勝敗を決する鍵を握る少年ああ無情9:30から16:00までタイムスリップしてまいりました。
今日の1枚のアート(←勝手に名付けた)●重要文化財《陣羽織猩々緋羅紗地違鎌模様》伝小早川秀秋所有安土桃山時代16世紀前田家の特別展で陣羽織が数多く並んでいましたが、、撮影禁止だったので。本館の常設展で展示中の真っ赤な陣羽織をご紹介。やっぱり戦国大名の小早川秀秋(1582ー1602)の所有していたと伝えられているものです。背中の鎌が重なっているデザインが強烈な印象ですね。これは諏訪明神の神紋らしいです。戦いの神様でもある諏訪明神にあやかった
さて、これら『【信長の野望20XX噺】第11回総選挙・祝賀の宴(1)』さて、今回の総選挙。運営諸君の工夫によって愛洲先生とか赤井さんとかがランキングから消えて本当に良かった。しかしながら、危惧した通りのことは起こってしまっている…ameblo.jp『【信長の野望20XX噺】第11回総選挙・祝賀の宴(2)』さて、昨日『【信長の野望20XX噺】第11回総選挙・祝賀の宴(1)』さて、今回の総選挙。運営諸君の工夫によって愛洲先生とか赤井さんとかがランキングから消えて本…ameblo.jp『【信長の野
覇)織田信長:革新の風雲児武)甲斐姫:東国無双の麗戦)徳川家康:天下泰平の志戦)武田信玄:甲斐の虎射)お犬の方:門閥の気品武)柴田勝家:瓶割り柴田薬)阿古姫:激甘輪菓戦)小早川秀秋:聖夜の提灯薬)宇佐美定満:越後流監督術呪)織田信長:天下贈物の誓©コーエーテクモゲームス
九州の関ケ原「母里太兵衛と黒田家①黒田24騎と黒田8虎」「母里太兵衛と黒田家②播磨国姫路の時代」「母里太兵衛と黒田家③秀吉の時代」「母里太兵衛と黒田家④文禄の役」「母里太兵衛と黒田家⑤黒田節の成立」「母里太兵衛と黒田家⑥名槍・日本号と慶長の役」の続きです。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去したことによって日本軍は朝鮮半島から退却し、明国・朝鮮国との戦いは終結した。秀吉の側室・茶々(淀殿)が産んだ5歳の幼い秀頼が、伏見城から大坂城に移り豊臣政
さて、また、この本から。豊臣秀吉の子供たちについて。秀吉と豊臣一族研究の最前線Amazon(アマゾン)その前に、秀吉の妻たちの呼称についての話があったので、そちらを。普通、秀吉の妻と言えば、正妻である「ねね」と、側室の「淀君」、その他の側室の女性たち、と、言われますが、現在、この考えは、間違いだと言われているようです。当時の史料からは、「正妻」「側室」と言った表現は、確認出来ず、全てが、秀吉の「妻」ということで、つまり、当時は、「一夫多妻制」だったというのが、今の
御訪問頂きまして有り難うございます滋賀解放同盟お弁当の猫きのこのkairuです🐾毎週楽しみに見ている豊臣兄弟ですが、ほとんど方々が秀吉が今後、どうなって行くかをご存じだと思います。浅井の忠臣・宮部継潤の調略を請け負った藤吉郎(池松壮亮)。継潤は、藤吉郎の子を人質に寄越すなら織田につくという。子のない藤吉郎は、とも(宮澤エマ)の子を差し出そうとするが、ともは激怒。困り果てた藤吉郎は、小一郎(仲野太賀)に説得を任せる。一方、敗走した長政(中島歩)と朝倉義景(鶴見辰吾)は、比叡山延暦
大谷吉継公、ご存知ですか?福井県、敦賀城主の大谷吉継さま。双蝶のギョーブさまと一緒に岡山県瀬戸内市にいらっしゃったときの写真です。石田三成公と仲良し。関ヶ原の戦いで負けたため、自刃します…。大谷吉継さまは、小早川秀秋公が裏切るだろうことを察していたため、西軍を止めようとしたものの、かなわず。友情を守るため、負けるとわかっていても参戦。まさに「義の心」!4月29日は、「よしつぐ」の語呂合わせですが、「友情」や「義」について考える日に。
こんばんは、mmm(まーママ)です。3月15日(日)岡山後楽園から月見橋を渡って「岡山城」へ。廊下門(ろうかもん)本丸の搦め手(裏手)にある櫓門。築城時の石垣地中から発掘された宇喜多秀家の頃の石垣。不明門(あかずのもん)江戸時代、藩主の移動は天守近くにあった渡り廊下で行われていて、この門は普段閉ざされていました。天守の礎石「天守の礎石ね。えっ、天守のそ・せ・き???。ということは、現存天守じゃないってこと!!!」ここで、ワタシの勘
大阪鶴橋玉造レンタルスペースコミュニティスペースcompassコンパス**********************こんにちは、みんなの羅針盤レンタルコミュニティスペースcompassです♪裏切り者の武将といわれた小早川秀秋天正十年(1582)大坂の曽根崎にて寧々の兄、木下家定の五男として生まれ、1585年に叔父である秀吉の養子になり、叔母である寧々のもとで育てられます幼き頃より「秀吉公の甥」とし
昨年11月に関ヶ原に行った。関ヶ原の合戦の知識はほぼゼロで行って、ミュージアムの説明が面白くてちょいハマり。https://ameblo.jp/scamineurope/entry-12943067896.html『知識ゼロからの関ケ原』学生時代、世界史と日本史…どちらをとっていましたか?私は世界史をとっていまして、日本史にはあんまり興味がなかったんですけれども、最近コテンラジオのおかげでそ…ameblo.jpあれから学習漫画をチラホラ買って戦国武将のことを学んで、いつかまた行きたい
※『戦国時代通説のウソ』(彩図社)より一部項目を抜粋してUPします。関ヶ原の戦いが半日で終わったというのはウソ―定説―1600年9月15日、徳川家康率いる東軍約7万5000人と、石田三成率いる西軍約8万4000人が、美濃国(岐阜県)関ヶ原にて激突した。両軍合わせて15万を超える一大決戦は、小早川秀秋らの寝返りによって東軍が圧勝。長期戦を覚悟した諸将の予想に反して、天下分け目の戦いはたったの半日で終結した。―真相―関ヶ原のイメージは創作物の影響を大きく受けており、史実とし
御訪問頂きまして有り難うございます滋賀解放同盟お弁当の猫きのこのkairuです🐾まずはお断りしておきますが、私は過去日本の昔の古くさい時代の話は興味ありませんでした。山岡荘八の織田信長と司馬遼太郎の太閤記の2冊が基本で(長い長い山岡荘八の徳川家康は辛気くさくてギブ)織田信長が推しでしたが、山岡荘八の織田信長の中のお濃さんとの美しい愛が冷徹な信長に人らしい部分がある証として、両面ある人として好きだったのが、実際は濃姫は斎藤道三亡き後、いつの間にか歴史から姿を消しており、本能寺の変
さて、この本から。個人的考えも交えながら。シン・関ヶ原(講談社現代新書)Amazon(アマゾン)慶長5年(1600)8月27日、岐阜の落城を知った徳川家康は、江戸の出陣を決める。そして、徳川家康は、宇都宮の徳川秀忠にも、東山道を進むように命じ、その後見を、浅野長政に依頼。8月29日、徳川家康は、越後の掘秀治に、美濃方面の状況を知らせ、会津方面への対処を命じる。9月1日、徳川家康、江戸を出陣。東海道を、東に向かう。当初、徳川家康は、秀忠には、宇都宮で、上杉景
カナダ在住から日本に戻った者が遭遇した出来事や文化の違いを綴っています。Anyresemblancetoactualeventsorlocalsorpersons,livingordead,isentirelycoincidental.©m2011-2026Allrightsreserved.仕事や執筆の依頼はdrippingofpoison★gmail.comまでお願いします。★を@に変えてください。ブログ記事の転載、複製は禁止しております。
『小早川秀秋』(こばやかわひであき)安土桃山時代の大名。小早川秀秋の名前を知っている人は、その名前に良い印象を持っていないでしょう。小早川秀秋を有名にしている事として、関ヶ原の戦いで、西軍から東軍に寝返った大名として知られています。そして、それが契機で東軍が勝利。日本史上において、小早川秀秋は裏切り者のレッテルを貼られた人物なのです。何故、小早川秀秋は裏切ったのか。
岐阜県不破郡関ケ原町本日も、夕方から雪が降って来ました。。。また、明日の朝が心配な圭那です。と言うことで・・・以前、紹介しました松尾山城=小早川秀秋陣跡です。ここは、古戦場を眼下に見下ろせる絶景ポイント!関ケ原の戦いにおいて、優柔不断の裏切り者と酷評されることが多い小早川秀秋ですが、実際には勇猛果敢で、領民からも慕われる統治手腕を持った有能な武将だったそうです。小早川秀秋陣跡=松尾山城兵力数:小早川秀秋・11000※資料により諸説ありです。小早川秀
秀吉の甥っ子で、無能ながら豊臣家の跡取りになれたかもしれないのに、秀頼の誕生で殺された豊臣秀次。北政所の血縁者で、秀吉の養子の1人となった小早川秀秋。北政所からは好かれなかった。秀吉の猶子(準養子)として一番愛された宇喜多秀家。容姿端麗。加藤清正や福島正則などを子どもの頃から面倒を見ていた北政所。豊臣家の人事に一番影響力があった人物。秀吉の異父兄弟の秀長。独創性は無いが、素直な性格で物覚えが良い。無欲。功は配下に帰し、秀吉だけを立て、自分の存在を誇示しない。大名間の軋轢や寺社からの不平不
御訪問頂きまして有り難うございます滋賀解放同盟お弁当の猫きのこのkairuです🐾大河ドラマ豊臣兄弟を見ていると、やっぱり小早川秀秋視点のドラマがとても見てみたくなります。大河の今回は誰視点かと言うと、秀吉の弟の秀長視点。作家の描く視点が誰かによって、秀吉が信長の草履を温めて誉められたと言う逸話も、草履を盗ろうとしたのをごまかしたと言う事になってしまうし、この視点が変わることによって色んな可能性が浮き彫りになって来て本当に面白い。『小早川秀秋陣跡へ関ケ原の戦いの
今日は三成会議の日でしたね。行かれたcrewさん、お疲れさまでした。雄ちゃんからもインスタ来ましたが、小早川秀秋、石田三成、明智光秀、藤原道綱・・・これらの人物にどのようなつながりがあったのでしょうか。うーん具体的な内容が知りたい。行かれた方、よかったら教えてくださいね。今までたくさんの時代劇に出ていた雄ちゃん。それなりに歴史の知識もついて、しっかり語ったんだろうなと推測。楽しいトークショー?会議?だったんでしょうね。やる気になった時代劇俳優、上地雄輔をこれからも
こんばんは。昨日、今日と暑い日でした、入道雲を見かけるような時期になりました。🌤さて、関ヶ原周辺の旅はですね、小早川秀秋の陣地である、松尾山城跡(廃城となっていた城跡を改修して陣地にした)を攻めて(低山登山)来ました。💦初日に訪れた大谷吉継の陣地跡から眺めた松尾山。位置の確認(ネットからの画像)縄張り図。(ネットからの画像)そして、旅の最終日の2日後の朝9時過ぎに現地へ…。🚗登山道入口。この道を進みます。駐車場に到着。駐車場にある説明看板。駐車場に到着後に、いつものトレッキ
真田武士心得〈二〉関ケ原純情(文春文庫)Amazon(アマゾン)真田信幸の家臣・鈴木右近。小早川秀秋に仕える柳生宗章の門弟として熊五郎とも名乗ります。今巻では、徳川家康の密書を沼田から西軍・小早川秀秋の陣にいる柳生宗章へ届けるという密命を託されます。しかも期限はわずか七日間。右近は家来二人とともに道中を急ぎますが、足が痛くなったり、川渡りでの溺れかけ、重たい鎧櫃を手放す苦難に見舞われます。濃尾平野に入れば東軍でごった返し、その先では西軍でごった返し、小早川の陣が