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世田谷城址公園より、世田谷区役所・国士舘大学へ学生や生徒で賑わう通りを進むと松陰神社の前に松陰神社は、世田谷区若林にある神社創建は、明治15年(1882年)に長州藩士吉田松陰の旧藩士門弟らが中心となり松陰の墓のあったこの地(旧毛利藩主の抱屋敷)に堂を建てたのが始まりとされ昭和初めに社殿は大修理され、府社となりました開運招福の絵馬参道途中に、吉田松陰ブロンズ像明治新政府樹立に活躍した中心人物を数多く育てた幕末の思想家吉田松陰は通称寅次郎は長州藩士杉百合之助の2男とし
安政7年3月3日(1860年3月24日)に、江戸城桜田門外にて水戸藩脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が大老井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」が発生しますが、襲撃メンバーのうち、唯一現場で討死したのが稲田重蔵です。稲田重蔵は農民の出身で、水戸藩士田丸直諒に仕えて町方同心となり、後に金子孫二郎に見出されて郡吏を務めています。金子の影響を受けて尊攘思想に傾斜していった稲田は「安政の大獄」により徳川斉昭が永蟄居となり攘夷派が弾圧された事に怒り、金子らとともに暗殺計画に加担しています。襲撃で現場
文久二年(1863)八月二十九日の夕刻のこと。京の都は鴨川の東岸、川端通の二条の辻をやや南に下がったあたりを、ある父娘(おやこ)が歩いていました。※.「文久二年京都細見図」より。父親は名を文吉といい、「猿(ましら)の文吉」の異名を持つ目明かしでした。世に名高い安政の大獄においては島田左近に従い、時の大老井伊直弼に反目する水戸派の検挙に功績をなし、その報奨金(※)を元に高利貸しをはじめて莫大な冨を得ていたことなどから、尊王攘夷の志士は無論、京の町の人々にもひどく憎まれていました