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皆さんは、村山たかという幕末を生きた女性をご存知だろうか?彼女にはもう1つ名前があって、別名を可寿江(かずえ)とも言うが、一見この地味な名前の女性が、いったいどうした人生を送ったのか・・・・・。彼女の生まれは、いろいろと語られていて、実際のところ私にもよくわかりませんでした。父母の事もあまりちゃんとした事柄が、残されてもいないようで、強いて言えば・・・・。彼女の育ったのが、近江国・・・・現在の滋賀県にある多賀神社であったという事。幕末にはまだ寺社が一緒に
金子孫二郎の墓安政7年(1860)3月3日に大老井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」。実際に襲撃した「桜田十八士」以外にも事件に関連した人々が次々と逮捕されていますが、水戸藩浪士、金子孫二郎は襲撃には加わらなかったものの襲撃を計画した首謀者の一人として処刑されています。水戸藩主継嗣問題で徳川斉昭を擁立した金子は、斉昭の下で歩行目付、奥右筆、郡奉行などを歴任。弘化元年(1844)、幕命により斉昭が隠居謹慎となると雪冤運動に奔走して蟄居・謹慎に処せられています。その後、斉昭の復権に伴
①小塚原回向院吉田松蔭先生の墓荒川区南千住5丁目33−13小塚原豊国山回向院②小伝馬町の刑場、吉田松蔭先生の処刑場中央区日本橋小伝馬町5−13③吉田松蔭先生の墓、松蔭神社世田谷区若林4丁目35−3吉田松陰墓所④萩の吉田松蔭先生の墓山口県萩市椿東吉田松陰の墓参考遺体は金になった?!本当は切り売りされる運命にあった天才「吉田松陰」雅セレモニー(2018.11.13、参考)幕末の長州藩(現在の山口県)に生まれた吉田松陰の人生は、天才少年として華々しくはじまりま
安政7年3月3日(1860年3月24日)に、江戸城桜田門外にて水戸藩脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が大老井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」が発生しますが、襲撃メンバーのうち、唯一現場で討死したのが稲田重蔵です。稲田重蔵は農民の出身で、水戸藩士田丸直諒に仕えて町方同心となり、後に金子孫二郎に見出されて郡吏を務めています。金子の影響を受けて尊攘思想に傾斜していった稲田は「安政の大獄」により徳川斉昭が永蟄居となり攘夷派が弾圧された事に怒り、金子らとともに暗殺計画に加担しています。襲撃で現場
「桜田門外の変」で大老井伊直弼を襲撃した「桜田十八士」の一人、森五六郎は生まれた時に母親が難産だったというほど体が大きく、その恵まれた体格と、気性の激しさを買われ、襲撃時は先頭での攪乱役を務めています。襲撃で負傷しながら、他のメンバーと共に細川家(熊本藩)へ自訴した森は、稲葉家(豊後臼杵藩)、片桐家(大和小泉藩)へと預け替えとなった後、文久元年に同志とともに死罪となります。稲葉家家臣が森から聞いた事件の話を書き記した『森五六郎物語』は、当時を知る貴重な資料として今に伝わっています。
文久二年(1863)八月二十九日の夕刻のこと。京の都は鴨川の東岸、川端通の二条の辻をやや南に下がったあたりを、ある父娘(おやこ)が歩いていました。※.「文久二年京都細見図」より。父親は名を文吉といい、「猿(ましら)の文吉」の異名を持つ目明かしでした。世に名高い安政の大獄においては島田左近に従い、時の大老井伊直弼に反目する水戸派の検挙に功績をなし、その報奨金(※)を元に高利貸しをはじめて莫大な冨を得ていたことなどから、尊王攘夷の志士は無論、京の町の人々にもひどく憎まれていました