後に改元され明治元年となる慶応4年(1868年)1月3日、旧幕府軍と新政府軍との最初で最後の武力衝突となった「鳥羽伏見の戦い」は、図らずも両者の現状認識の相違を鮮明に示す戦いとなった。「討薩の表」を朝廷に提出する使者として1万5千の兵を率いて京都に進軍した滝川具挙は薩摩藩との戦闘をまったく想定せず、ただ旧幕府の威令を天下に誇示して街道を押し通ることだけを考えていた。彼の危惧したことはただ一つ、薩摩側がこの進軍を朝廷に銃を向ける反逆行為であると申し立て、中止に追い込む策謀を巡らせることだけだった。