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「第三話「明日は明日」按針の暗殺未遂事件後、大坂城は緊張に包まれていた。夜明け前、虎永との会談に呼び出された藪重は、自分の裏工作がバレたのではないかと死を覚悟したが、虎永は同盟を確認し、藪繁に危険な任務を課した。虎永自身は大坂に残り、按針を安全な伊豆の領地へと向かわせるという。しかし、出発直前で宿敵の石堂がやって来て、部下を護衛につけるよう強要したのだった。●時代背景長らく続いた戦乱の世に終止符を打ち、天下を統一した太閤。しかし、側室・落葉の方との間にできた世継ぎの八重千代がまだ幼いう
新コロナウイルス感染予防の為の「緊急事態宣言」は、既に関西各府県は解除され、東京都と周辺三県も明日にでも解除されるとのことです。この期間、「外出自粛要請」下に始めた「”〇〇天守”を色々な方向から顔・姿を見る”シリーズは、第六弾「”現存三重櫓”を色々な方向から顔・姿を見る」をお届け中です。一昨日の「”現存三重櫓”を色々な方向から顔・姿を見る」の総編https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12598737807.html第六弾「弘前城丑寅櫓・辰巳櫓・未申
大阪大学中之島センターで開催の古地図から読み解く日本史ー水都大坂はいかにしてつくられたかー3回の講座のうち初回の今回が一番古い時代で戦国時代河内国の村・川・道ー古地図に見る、大坂(石山)本願寺成立前夜ー講師は仁木宏さん(大阪市立大学教授)よく見ても一体なんなのかわからないこの古地図から様々な事を読み解いていく1時間半地図って江戸時代以前のものはほぼ残ってないそうですこの1493年の地図は将軍足利義材が河内
「大阪城って、大河ドラマに出て来たときは物凄く大きいと思ったんだけど、実際行ってみると、あれ、意外ち小さいなあ、と思っちゃった」という人がいましたが。そんなことないだろ、充分大きいだろ、と言いたいところですが。まあ、分からないでは、ない。大河ドラマに出てくる大坂城は、当時の武将たちが見上げた「印象」としての大坂城です。当時の日本でダントツに最大の建築物です。どんだけ大きくデフォルメしてもいいんです、それがドラマってもんです。ムロツヨシの秀吉だって、かなりデフォルメされてたでしょ、それと
真田昌幸なら、大坂の陣で勝てたんじゃ、って言う人がいますが。無理です。豊臣が勝つのは、どうやったって無理です。誰が指揮官だとかいう戦術的な問題では、まったくありません。真田信繁(幸村)が善戦してと言われますが、彼の目論見は要するに、頑張って頑張って局地戦で勝って見せれば、「豊臣恩顧」の大名が考え直して大坂方に味方してくるはずだ、っていう発想です。残念ながら、浦島太郎です。信繁(幸村)は、九度山村に幽閉されてるうちに、世の中がすっかり変わっていることに気がついていないんです。若い頃から
日本の三大遊廓とは、かつての江戸の吉原、京都の島原、かつての大坂の新町であったとか!吉原と島原は現在でも其れらしき面影と機能を残しているが、大坂の新町は全く昔の面影を失ったビル街になっている。⑴大坂(現在の大阪市西区)の新町遊廓1869年に松島遊廓ができたことや、1872年の遊女解放令布告によって外部との交通が自由化したこと、さらには、1890年の大火で廓の多くが焼失したことなどによって、新町は次第に商業地域となっていった。北隣の立売堀の影響もあって金属・機械工具の問屋が多い。1945年
全国お城の「石・石垣シリーズ」を再開します。本日は、『「石垣」の使われ方』において「笠石銃眼(石狭間)」が見られるお城をご紹介しています。「笠石銃眼(石狭間)」というのは、石垣の一番上の石(天端石)を直方体の長い「笠石」して、その「笠石」に穴を開けて鉄砲狭間としています。その笠石の上には「土塀」が建っていたり「建物」の壁になっていたりします。一般的な「土塀」に△や□を施した「鉄砲狭間」とは違い、「石狭間」とも呼ばれています。現在見られるのは、「大坂城」「二条城」「江戸城」「岡山城」の
石堂らとの対決を決意した虎永は、疎遠になっていた異母弟の佐伯真辰と同盟を結ぶために久々の再会を果たす。互いに笑顔で再会を喜ぶも、その夜、虎永が佐伯のために豪華な宴会を催す最中、佐伯の大軍が網代を包囲する。佐伯は、虎永に代わって会合の一員に選ばれており、虎永に大坂城に出向き、切腹するよう命じに来たのだった。◤『#SHOGUN将軍』最新エピソード𝐍𝐎𝐖𝐒𝐓𝐑𝐄𝐀𝐌𝐈𝐍𝐆🔥◢第𝟕話「線香一本の時𝐀𝐒𝐓𝐈𝐂𝐊𝐎𝐅𝐓𝐈𝐌𝐄」配
2024年2月17日(土)大坂城修道館6級以上の審査昇級・昇段審査が行われました。審査後の大会では受験者、皆よく頑張りました。大会成績初段受験優勝岩手君2級受験5位小縣君3級受験2位池川君4級受験優勝開田さん2位横田君頑張りました
こんばんは😊燕ウォッチしてるHickeyです😊燕がピュンピュンと飛び回る時季になったね😊皆さんの家や職場なんかにも『すみません軒先きを貸してください‥🙏』そんな挨拶もなしに燕が勝手に軒先なんかに巣を作ったりしてないかい❓🤔燕って害虫を駆除してくれる豊作の味方だし【燕が巣作りする家は縁起がいい】そんな風に昔から言うよね☝️😊燕は天敵から身を守る力がないだろ❓だから居心地が良くて安全だと思える場所にしか巣をつくらないんだよな‼️だから燕の目線から見たら【外敵から守ってくれ
今しかないみなさん、おはようございます親しい人が亡くなるといつも思います今しかない与えられた生命を大切にすること今、行動することなのでしょうアリガトウ「5月8日」の國史です大阪城落城・豊臣家滅亡慶長20年(元和元年・1615年)大坂夏の陣で大坂城は落城し豊臣家は滅びます秀吉も寿命には勝てず徳川家との姻戚を模索します6歳の秀頼の将来を家康に託すのです一方、家康は難癖をつけて豊臣家に忠義を誓う大名ら徳川家の脅威を排除しました
大阪城で、2番目に表面積が大きい肥後石とよばれる巨石京橋口を入った正面にそびえています!小豆島の旅から帰ってすぐに大阪城へ、小豆島産の石を確かめに行きましたその時の写真写真では巨石の大きさが伝わりにくいですが、この一枚岩、表面積は、畳33枚分の広さ高さ約5.5m、長さ約14m重さ約120トンといわれます。石の厚みは意外となく、70センチくらいとのこと。(巨石を薄く加工する技術もすごい)この石は、小豆島から運ばれてきたものだそうです
三天ヲイノルみなさん、おはようございます雨模様のスタートです少し落ち着いていきましょう播磨の神の教えです「三天をいのる」天照大御神明治天皇そして、わが子孫をいのる世界我が国まことをいのる根本にあるのは家族ですそんな生き方をしていきましょうアリガトウ「5月7日」の國史です「真田幸村、討死」元和元年(1615年)真田幸村を「日ノ本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と敵軍の島津忠恒は称えました幼少期に上杉、豊臣に
第一話「按針」時は1600年、イギリス人航海士のジョン・ブラックソーン(後の按針)が乗り込んでいたエラスムス号が、網代の漁村に漂着する。その船を見た網代領主の樫木央海は、叔父で武将の樫木藪重を呼び寄せ、按針たちを捕虜にした。その頃、大坂城では、関東領主で五大老の虎永が会合の場で、石堂和成ら他の大老たちに、不当に領土を拡大し、世継ぎの母である落葉の方を人質としていると糾弾され、窮地に陥っていた。第二話「二人の主君に仕えて」宣教師らは、按針がイエズス会とカトリック信者に脅威
「お城紀行」の投稿で中断していた全国お城の「石・石垣シリーズ」は、本日から『「石」の使われ方』において「石樋(いしどい)」が見られるお城をご紹介します。北から順番にお届けしていきますが、あくまで私がお城の中で見つけたものですので、それ以外にも多数設えていると思います。「石樋(いしどい)」というのは、お城の中、特に石垣に雨水が溜まるのを防ぐための排水設備の一つで、「排水溝」とも言います。石垣から、少し石でベロを出したり、口を尖らせたりしていますが、これは排水が直接石垣に当たらないような仕掛け
『近畿の地質的景観』第2回<上町台地>上町台地は大阪平野を南北に伸びる丘陵地・台地である。縄文~室町時代の上町台地周辺は、埋め立ても少なく自然の土砂の堆積で遠浅になっていきました。江戸時代から大地の西側が、埋め立てや安治川治水、大和川すげ替えなどの土木工事が盛んになりました。・「梅田」:大阪駅界隈の大阪の顔。何故,「うめだ」と言う名前?⇒浅瀬を埋め立てたので「埋めた」→「うめだ」。・「大坂城」:大阪のど真ん中の城。何故,本願寺や大坂城がここにあったの?⇒北東西が遠浅の海や湖
前回のブログで、「”現存三重櫓”を色々な方向から顔・姿を見る」を番外編含め、合計12基+1基で終了しました。「現存三重櫓」(12基+1基)は、下記をクリックしてください。https://ameblo.jp/highhillhide/theme-10112595030.htmlしかし「三重櫓」は、現在でも「天守」にも勝るとも劣らず魅力的な建造物が、数多く存在しているのを見てきました。江戸時代通じて、「三重櫓」を備えた「お城」は、今回紹介してきた「お城」の「三重櫓」以外にも存在し