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「時は元禄十五年、師走半ばの十四日、江戸の夜風をふるわせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓・・・」この時期になると、毎年の様に目にする忠臣蔵関連の特集や書籍、映画・ドラマの放送。見かける度にいつかは、赤穂浪士が歩いた道を同じように踏破してみたい!と思っていました。憧れ続けて早ン十年。今年ついに!この時期に予定を空けることに成功♪これから赤穂浪士の引き揚げルートを辿りたい!という方の参考になればという思いと、自分自身の備忘録として今回は綴りたいと思います。
季節外れですが。『忠臣蔵』と言えば、ご存知のとおり浅野家家臣の大石内蔵助ら赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちをするというストーリーで、毎年12月に入ると、TVや映画でも取り上げられる冬の風物詩ともいえるお話ですね。仇討ち後、切腹した赤穂浪士四十七士が埋葬されている場所は、東京高輪にある「泉岳寺」。今回は、PHP文庫「日本史の謎は『地形』で解ける」(著者竹村公太郎)から、『忠臣蔵』に徳川幕府の壮大な復讐劇が折り込まれていたという話を紹介します。泉岳寺は徳川家
〜本日のお品書き〜日本語って、面白いですね。現在、文楽劇場で上演中の仮名手本忠臣蔵。忠臣蔵、忠臣蔵というけれど、それっていったいどういう意味!!??と思っている人も少なくないはず。今日はそんなお話をしてみたいと思います。そもそも忠臣蔵とはそもそも、忠臣蔵とは実際に歴史上で起こった事件が題材になっています。江戸時代、赤穂藩の藩主「浅野内匠頭あさのたくみのかみ」が江戸城内で「吉良上野介きらこうずけのすけ」と喧嘩沙汰になり、刃傷沙汰に発展したため、浅野内匠頭は切腹。赤穂藩は没収されたの